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漆黒の下り藤 8




 

 何故この力のことを知っているのだろう。

 加納屋の誰にも、由紀にでさえも伝えたことがないし、ずっと手袋を付けていたから見られたこともなかったはずなのに。

 そして和花は義父の言葉に妙に納得した。だから自分は自由になれないのだと。


 冷遇するほど憎たらしいのであれば、婚約破棄をし追い出せば良いとずっと思っていた。それなのに、自分を手放さない理由。それはこの不思議な力。人々を幸せにするという「彩色の手」の存在。


「不思議な力?なあにそれ?」


 どうやら紗栄子は知らなかったらしい。首を傾げ、信忠に聞いている。

 和花は隣を向けなかった。突然不思議な力を持っていると言われても理解は難しいだろう。蒼弥の反応が気になったが、怖くてただ下を向くことしかできなかった。


(でも、もうこの力は使い物にならないのよ……)


 悲しみに暮れる中、何故か自虐的な笑みが浮かんだ。このことを伝えたら義父は自分を解放してくれるだろうか。そんなことがふと頭を掠めた。


「……もうこの力は使えません」


「……は?」


 気付けばそんな言葉がこぼれ落ちていた。あ、と慌てて口を塞ぐも時すでに遅し。信忠の顔が歪んだ。


「なんだと?もう使えないだと?どういうことだ?」


「……私にも何故か分かりません……」


「ふざけるな!お前のその力がなければ、お前なんて生きている意味も価値もないんだからな!?」


 信忠は足音を立てながら大股で和花に近づき、彼女の右手首を強引に掴んだ。

 ぎりぎりと握られる手首が痛む。

 信忠は手袋を外そうと強く引っ張った。


「辞めてくださいっ!」


 和花は手袋を取られまいと必死に抵抗した。足を踏ん張り、思い切り手を振り払おうとするが、信忠の強い力には勝てない。


「い、いやっ……」


「辞めなさい!」


 すくっと立ち上がった蒼弥は二人の間に入った。

 突如目前に現れた蒼弥に驚き、信忠の力が弱まって離れる。

 重心が前のめりになっていた和花は、そのまま前に倒れそうになり、思わず目を瞑った。


「……っ!」


 いつまでたっても痛みはこない。いや、痛みではなく、温かい何かに包まれている感覚に包まれた。

 そっと目を開くと、和花のお腹あたりには蒼弥の逞しい腕が回り、優しく抱き留められていた。


「大丈夫ですか?和花さん」


 蒼弥は支えながら、和花の体制を元に戻してくれる。衝撃から今なおぼんやりしている和花の肩を優しく抱く。


「……はい」


 ふと掴まれていた自分の手首を見ると、くっきりと赤い跡が残っていた。蒼弥もそれに気付き、跡を優しく撫でる。

 

「こんなに赤くなってしまって、痛かったでしょう?」


「……大丈夫です。このくらい」


 和花の顔を覗き込み、優しく笑いかけているが、目の奥は笑っていない。

 普段穏やかな蒼弥が、怒りの感情に支配されている姿を和花は初めて見た。

 蒼弥は身体を反転させると、ぎこちなく作り笑いを浮かべた。


「女性にこのような扱いをされるのは感心致しませんね」


 涼しい顔をしているが声には怒りがこもっている。怒りの感情を抑えようとしているのが、ひしひしと伝わってくる。

 我に返った信忠は、今度は蒼弥に食いかかる。


「お前には関係ない話だ。いいか?その娘と関わることを禁ずる。さもないとこちらも然るべき対応をさせてもらうからな!」


「然るべき対応とは何でしょう?」


「警察にでも突き出してやる」


 ふんっと鼻息を荒くして笑う信忠を見て、蒼弥はやれやれと呆れ返った。


「お言葉ですが、警察に差し出されなければならないのはどちらの方でしょうか?」


「な,何だと?!」


 売り言葉に買い言葉。冷淡なやりとりが進む。

 淡々と返された信忠の顔は真っ赤になり、掴み掛かろうと蒼弥に手を伸ばした。

 蒼弥はその手を軽く交わすと、信忠に対して軽蔑した目を向ける。


「さて傷害罪、器物損壊罪、侮辱罪、あなたは何に該当しますかね」


「て、てめぇごときが俺を犯罪で捕まえようってか?笑わせんな!」


「ここまできて、まだごたごたと物を言いますか?」


 蒼弥の目つきが鋭くなり、信忠を睨みつけた、


「な、なんだ?この俺を警察にでも突き出すってか?」


「いいえ。その必要はございません」 


「……は?」


「名乗るのが遅くなり申し訳ございません。私、九条蒼弥と申します」


「く、九条?!」


 怒りで赤くなっていた信忠の顔がさーっと青くなる。

 それもそうだ。あの有名な名家を敵に回したも同然だ。九条家の権力を行使すれば、加納の家を潰すことも帝都から追い出すことも出来るだろう。それを理解している信忠は口をつぐんだが、紗栄子は違った。


「そんな名家の出のお坊ちゃんが、婚約中の女を口説きにかかるなんて……これを世間に広めればあなたは帝都の笑い者よ」


 怯んでいる信忠に代わり、紗栄子が嗤いながら言う。美しい容姿からは想像もつかないような卑劣な笑い方に鳥肌が立った。


「お、おい……」


 慌てて信忠が宥めるも紗栄子の口は止まらない。


「あなたもどうして黙り込んでしまうのよ! 本当のことでしょう? まさか九条の名に怯えているの? 情けない」


 高価な服や化粧道具、お金と自分のことにしか興味のない紗栄子は、九条家の持つ絶大な権力についてよく分かっていなかった。

 今まで勢い良く突っかかってきた信忠が撃沈し、紗栄子を止めようとする姿に和花は肝を潰した。


「私のことは何と言っても構いません。ですが彼女に対する今までの無礼は見過ごせません」


「……っ!」


 断言した蒼弥の目は刃物のように鋭い。その場に居合わせた誰もが固まり言葉を呑んだ。 


「和花さん」 


「は、はい……」


 不意に名を呼ばれ、声が裏返った。蒼弥は和花の方を顧みず、前を見据えたままはっきりと問いかけた。


「先程の話は本心でしょうか?」


「……え?」


「ここに居たくないというのは本心ですか?」


 振り返った蒼弥は彼女の瞳を凝視した。綺麗な薄茶色の瞳から目が離せない。


「ほ、本心です!」


 表情を強張らせながら和花は明言した。言い切った和花を見た蒼弥は、満ち足りた顔をして、にっこり笑った。


「では、行きましょうか」


「え?」


 戸惑う和花をよそに、蒼弥は彼女の左手を優しく掴んだ。唖然とする和花の手を引きながら、義父母が立ち塞がっている廊下へ続く襖と反対の方、店へと続く襖を大きく開き、足を進めた。 


「ちょっと!どこに行くのよ!」


「お、おい!」


 背後から喚く声が聞こえたが、蒼弥は足を止めることなくどんどん進んでいく。

 戸惑いはある。しかし、繋がれた左手が温かくひどく安心する。蒼弥がいれば怖いものは何もない気がしてきた。

 そんな思いを胸に和花は振り返ることなく前へ前へ進んだ。

 

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