漆黒の下り藤 6
温かくて心地良い。
蒼弥の腕の中にいる和花は、この上ない安心感に包まれていた。
自然と流れ出てくる温かい涙。
どれだけ泣こうが、服を濡らしてしまおうが、蒼弥は決して和花を責め立てることはしなかった。
遠い昔、父や母もこうやってそっと胸に抱いてくれた記憶が朧げに蘇り、さらに涙を誘う。
蒼弥は和花が落ち着くまで背中を優しく摩ってくれていた。
「……お見苦しい姿を……申し訳ございません……」
安心しつつも申し訳なさが勝った和花は、途切れ途切れ掠れた声で、ぽつりと呟いた。
「見苦しいだなんて思いません。涙が出るのは今まで頑張った証拠です。何も恥じることはありませんよ」
「頑張った証拠……?」
心優しい言葉に誘われるように、和花は身体を蒼弥の胸に預けたまま、すっと顔を上げた。目線の先、すぐ近くに麗しい顔があり、目を見張る。
そこでようやく和花は自分が蒼弥にしっかりと抱きしめられている今の状況を把握したのだった。
慌てて視線を蒼弥の胸元に戻す。
一度この状態を認識すると、急に五感が研ぎ澄まされた感覚がした。
蒼弥から香る安らぐ匂い、大きな身体から伝わる温かい体温、とくんとくん、と服越しに耳に伝わる心臓の音……
「ご、ごめんなさい」
恥ずかしくて堪らない。和花は消え入りたい衝動に駆られ、離れようと身を翻したが、蒼弥が力を込めてそれを阻止した。男の人の力には敵わない。和花は大人しく元の抱きしめられる体制に戻った。
「どうして離れようとするのですか?」
「そ,それは……」
「嫌ですか?」
「そういう訳では……」
「それではもう少しこのままで」
顔から火が噴き出しそうになる。どくんどくんと脈が速くなるのが分かる。
それでも、腕の中の居心地の良さから蒼弥の胸に寄り掛かり、そのままの姿勢で蒼弥の言葉に耳を傾けた。
「和花さんはとても頑張っています。だから私はあなたを助けに来ました」
「助けに……?」
「はい。人の為に生きるのではなく、自分の幸せの為に選択して欲しい」
「私の幸せの為に……」
「自分の幸せの為に少しくらい我儘になったり、誰かを頼ったりすることは、決して悪いことではありません。まぁ、偉そうなことを言っていますが、私も今まで自分のことを優先にせず、色々言われてきたので完全なる受け売りですが」
頭上からうっすらと笑う声が漏れた。
「ですが、私は今回は我儘になり、部下を頼ってここに来ました。私が幸せになる為に」
「……どうして九条様が幸せになる為に、ここにいるのですか?」
蒼弥の胸から顔を離し、ゆっくりと向かい合って座り直す。
二人の視線が交わった。
吸い込まれそうな綺麗な瞳に見つめられ、恥じらいも感じるが、この問いの答えをしっかりこの耳で聞かなくてはならない気がした。目を逸さずじっと蒼弥を見つめる。
「私が和花さんのそばにいたいと望んだからです」
「……え」
思いがけない言葉に和花はあっけにとられた。唖然としながらも一語一語聞き逃すことがないように傍聴する。
「いつからかあなたと共に過ごす時間が、穏やかな会話が私にとってかけがえのない大切なものになっていました。あなたと一緒にいると幸せを感じます。だからこれからもそばにいたいし、支えたい、和花さんが安心して笑えるように助けたい。そう思います」
蒼弥の優しい言葉が和花の胸に染み込んでいく。暗闇の中にいた和花に、一筋の光が差し込み、明るい世界への道標を作ってくれたよう。
「ただ、ここへ来たのは、あなたを助けたいという私自身の勝手な気持ちからです。もしかしたら和花さん自身は助けを求めていないかもしれないし、自力でなんとかしたいと思っていることも考えられます。だから――あなたの口から直接聞かないと、私は動けないし意味がないのです」
真っ直ぐな蒼弥の視線が和花に降り注ぐ。嘘偽りのない真剣な目。
伝えなくては。私を思ってくれる大切な人に、自分の思いを。
『自分の気持ちがしっかりあるのだから、あとはそれを行動するのみよ。動くことは怖いかもしれない。それでも動かないと何も始まらないからね』
いつかの母の言葉が思い出される。
(彼なら受け止めてくれるかもしれない)
私は蒼弥と過ごす時間が好き。ひだまりに包まれているような心温まる幸せな時。これからもたくさん会いたいし、話したい。出来るならそばにいたいし、出来ることは限られているが、和花自身も蒼弥の力になりたい。
「和花さんはこれからどうしたいですか?」
「わ、私は……」
喉が狭くなり声が出しづらくなった気がした。緊張やら不安やらで声が細くなる。
でも、もう答えは決まっていた。後はこれを言葉に表して伝えるだけ。
本音を人に伝えることはとても恐ろしい。否定されたり、無かったことにされたりするかもしれないし、うまく伝えられないかもしれない。それでも蒼弥の思いに自分の口から応えたい。
兎の置物が視界に入った。可愛らしい瞳は和花を勇気づけているようだった。
蒼弥は急かしたり話の腰を折ったりせず和花が話すまで穏やかで、けれども真剣な表情で待っていてくれていた。
和花は大きく息を吸い込んだ。
「私は……」
「お,お待ちください!旦那様!!」
和花が腹を括って話し始めた瞬間,廊下が異様に騒がしくなった。
ぴたりと二人の動きも止まり廊下に繋がる襖の方を見る。
「お、奥様もどうかされましたか?」
焦りが含まれた由紀の大きな声。
「な,何……?」
騒々しい部屋の外に思わず顔を見合わせた。
「うるさいっ!邪魔だ!」
「お待ちくださいっ!」
怒鳴り声や悲鳴のような声、大きな物音がどんどん近づいてくる。
荒々しく開け放たれた襖の奥には、鬼のような形相の義父母と顔面蒼白な由紀がいた。




