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漆黒の下り藤 5






 加納屋に着いた頃には空は漆黒に染まっていた。


「九条様」


 表戸を開けようとする蒼弥を、由紀は制止した。


「どうかしました?」


「和花さんは作業部屋にいらっしゃいます。私はここで人が来ないように見ておりますので……和花さんをお願いしてもよろしいでしょうか?」


 信忠の怒りが暴走している今、蒼弥と鉢合わせでもしたら大変なことになる。長い間主人のもとで働いていた由紀は、彼の性格をよく分かっているつもりだ。 

「分かりました。あ、由紀さん――」  


 蒼弥は力強く一つ頷くと、声を潜めて由紀に耳打ちした。聞き終えた由紀が頷くのを確認すると、蒼弥は「では行ってまいります」と小走りで店に向かった。


 心配そうな由紀をよそに手慣れた様子でどんどん店の奥へ進んでいく。

 薄暗い廊下を進むにつれ誰かが鼻を啜る音、微かに嗚咽する音が耳に届いた。

 いつも訪れている和花の作業部屋からはぼぅっと明かりが漏れ、音の正体はそこから聞こえていた。

 部屋に駆け寄り、そっと襖を開ける。


「――っ!」


 蒼弥は目前の光景に言葉を失った。

 床に置かれたいくつもの着物。

 絵付けされた着物が床に綺麗に並べられ、乾かされている様子は今まで訪ねた際に何度も見てきた。

 だが、今日はどうも様子がおかしい。整然と並べられているのではなく足の踏み場もないくらいに乱雑に散らかっている。

 そして着物はいつものように繊細で人の心を動かす芸術的なものではなく、なぐり書きをしたような何を描いているのか判断するのが難しい出来栄えだった。

 和花はその中心に座り込み、こちらに背を向けて啜り泣いていた。

 どうやら彼女は襖が開けられたことも、蒼弥の存在にも気付いていないようだ。

 初めて見る彼女の泣く姿に、蒼弥の心が抉られる。どんな言葉を掛けようか悩む蒼弥の耳に、和花の小さな声が届いた。 


「私にはもう……何もない……お父様、お母様の所へ……行きたい」


 全てを諦めたかのような絶望感が滲み出る涙声。そんな声が聞こえた瞬間、蒼弥は無意識に咄嗟に言葉を発していた。


「そんなこと言わないで下さい」


 ゆっくりと和花が振り返る。目は真っ赤に腫れ、鼻も赤くなっている。頬には涙の雫がいくつも付いていた。

 泣いたことが一目瞭然で分かる顔。会う時間が増えていくたびに柔らかくなっていった笑顔も、今は欠片も見られない。

 和花は視界に蒼弥を捉えると目を丸くした。


「そんなこと言わないで下さい。私はあなたと会えなくなるのは嫌です」


 和花の目が見開かれる。


「それは……どういう……」


「そのままの意味です。私はあなたのそばにいたい。だからどこにも行かないで下さい」


 蒼弥の心地良い声と言葉が和花の涙を少しずつ止めていく。

 和花は涙を止めようと、濡れている目元を強く擦った。


「あまり強く擦ってはいけませんよ」


 和花を宥めるように優しく声を掛けながら、床の着物を跨ぎ彼女の元に近付く。


「どうして……ここに……?」


 突然現れた蒼弥に疑問を抱く。蒼弥は和花の前に跪き目線を同じにすると、優しく微笑みかけた。


「由紀さんが教えてくれました。和花さんを助けて欲しいと」


「由紀さんが……」


「えぇ。勝手に申し訳なく思いますが、これまでのこと、ご両親のことをお聞きしました」


「……」


「お辛かったですね。今までよくお一人で耐えてきましたね」


「……っ」


「お母様の為に慣れない家での生活や仕事を一生懸命こなし、理不尽なことを言われても自分を押し殺して笑顔を向ける……これは簡単に出来ることではありません。先程、何もないとおっしゃっていましたが、あなたには優しい美しい心があります。人を思いやる温かい気持ちがあります。それは生きていく中で最も大切なものだと私は思います」

 和花の目がまたじわじわと濡れ出した。

 きっと彼女は今まで一人で耐えてきたのだろう。弱音も愚痴もこぼさずに。

 誰かの為に一人で我慢し、荷物を背負い込んだ頑張り屋な和花がとても愛おしく思えた。


 そっと彼女の体を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。

 ふわりと彼女の優しい香りが鼻を掠めた。男性とは違う細くて柔らかい背中に手を回し、子どもをあやすように優しく摩る。こんな小さな背中にどれだけ大きな荷物を背負っていたのだろう。

 和花は抵抗することなく静かに蒼弥に身を任せていた。

 蒼弥の胸元が徐々に温かくなる。顔を覗き込むと和花の目からは涙がとめどなく流れては、蒼弥の服に跡を残した。



 

 

  

 

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