漆黒の下り藤 4
「こちらに九条さんがいます」
そう言いながら小山が戸を叩くと、中からおっとりした声が聞こえた。
「失礼致します。小山です」
「どうぞ」
「失礼致します」
急に緊張が走る。小山に促されて部屋に入ると、机に向かう蒼弥と目が合った。突然現れた由紀に蒼弥は目をぱちくりさせている。
「由紀さん?どうされたのです?」
ガタンと音を立て立ち上がると、由紀に駆け寄った。
「突然申し訳ございません。あの……お願いがございまして……」
「お願い……?なんでしょう?」
由紀は首を傾げる蒼弥をまっすぐ見据え、大きく息を吸い込むと、平身低頭した。
「和花さんを助けて頂きたいのです」
蒼弥からの返事がない。物音一つない空間に不安が増して頭を上げられない。急な訪問がいけなかったのか、そもそも頼るべきではなかったのか、と気が気でなかった。
「お顔を上げてください。何があったのか教えて頂けますか?」
いつもより少々冷たい声が上から降ってくる。やはり怒らせてしまったと観念し、そっと前を向いた。
目の前の蒼弥は険しい顔をしている。
普段穏やかな分、何倍も怖く感じた。それでも、ありのままを伝えなくてはと目を逸らしながら、起きたことを詳しく話した。話を進める度に蒼弥の表情は強張っていく。
「――ということがありました」
ちらと蒼弥を見ると唇を噛み締め、悔しそうな怒りのこもった表情をしていた。蒼弥の迫力に思わず謝罪を口にする。
「も、申し訳ございません……お忙しいのに……」
「……許せない」
「申し訳……っ」
「いや、違います」
「……え?」
そこにいる蒼弥は別人のようだった。丁寧な言葉も和やかな雰囲気は皆無。その代わりように由紀は息を呑んだ。
「彼女を苦しめている加納家の人々も許せませんが、彼女が辛い時に近くにいなかった自分自身も許せない」
全てを聞いた蒼弥は相当お怒りのようだ。だが、その怒りの矛先が自分に向いてないことを知り、胸を撫で下ろした。そして背筋を伸ばし、遠慮なく渇望した。
「お願いします。どうにか和花さんを助けて頂けないでしょうか?……彼女の辛そうなお姿を見るのは私も辛い……です」
この方なら和花を救う手立てを一緒に考えてくれるかもしれない。
そう確信した由紀は再度頭を下げた。
(やはり遅かったか……)
由紀から事の詳細を聞いた蒼弥は、腑が煮え返る思いだった。
強い怒り、憎しみが自分の中を支配する。
加納家のことはもちろんだが、和花が冷たい環境にいると分かっていながらすぐに手を差し伸べられず、さらに辛い思いをさせてしまった自分にも腹が立った。
「色々準備をしていましたが、間に合わず申し訳ございません」
「……準備ですか?」
由紀は何が何だか分からないとでも言いたげな、きょとんとした顔をした。
「はい。実は加納家について色々と調べさせて頂きました。和花さんを現状から救う為に」
あんなに素敵な人に悲しい思いをさせた罪は重い。
和花の屈辱を晴らし、制裁を受けさせよう。
その思いから仕事の合間を縫って、膨大な量の資料を読み漁り、関係のある者に聞きに行き徹底的に調べ上げた。
調べれば出てくる加納家の黒い噂の数々。頭が痛くなるほどに彼らは隠れて色々やってきたようだ。
「さぁ、行きましょう。和花さんを助けに」
蒼弥は手早く身の回りを片付け、荷物を待つ。ふと入り口を見ると小山と、いつの間にか冴木が立っていた。
「お帰りですか?九条さん」
「冴木さん、いつの間に」
緊迫した時だというのにも関わらず、にやにやと口元を緩める冴木に蒼弥は一瞬顔を顰めた。
だが、それもほんの束の間に過ぎなかった。
冴木の顔付きがきり、と変わり蒼弥に対して品行方正に敬礼した。
「後のことはお任せ下さい」
「仕事の方は私達が片付けておきますし、何かあればすぐに駆けつけますから。九条さんは早く彼女の所へ行ってあげてください」
小山も冴木に倣って敬礼し蒼弥を促す。
「冴木さん、小山さん……」
あぁ。なんて良い人たちに囲まれているのだろう。改めて実感する。
冴木と小山で分けても手が足りない程に期限までの仕事が山積みになっているのに。快く送り出してくれる二人に感慨無量だった。
「本当にありがとうございます」
最大限の感謝の気持ちを込めて一礼すると「やめてくださいよ〜」と冴木の間伸びした声や「こんな状況なのに何でそんなに楽観的なんです?」と呆れ返る小山の声が耳に入った。
「ふっ」
いつも通りの部下たちのやりとりに強張っていた蒼弥の表情が和らぎ、小さな笑みが漏れた。
知らない間に身体に力が入り過ぎていたのだろう。頭の中は如何に和花を救い出すか、加納家に天罰をくらわせるかで埋め尽くされていた。
しかし、怒りの感情に任せれば、見えるものも見えなくなってしまう。それに気付いた蒼弥は目を閉じると一つ大きく深呼吸し、冴木、小山の顔を見渡してきっぱり言い放った。
「後は頼みます」
従来の蒼弥であれば自分の事、気持ちを後回しに仕事を優先にしていた。だが、今回は譲れない。頼れる部下に一任し、自分は自分の為にやることをしよう。
心なしか後を任された二人も清々しい顔をしていた。
仕事以外に、さらには一人の女性に興味を持った上司の表情を見て安心しているようにも見える。
「それでは参りましょうか」
「はい!」
蒼弥と由紀は二人に見送られながら、日が傾きはじめた外へ足を踏み出した。