漆黒の下り藤 3
――時は少し遡る。
和花から一人にして欲しいと頼まれた由紀は、作業部屋を出たその足である場所へ向かっていた。
(もうこれ以上、和花さんを苦しめたくない)
どうしても外せない用事が出来たと、使用人の仕事を他の人に任せ、着のみ着のまま帝都の街を早歩きで進んだ。
加納屋を出た時は弱かった雨がだんだん強くなる。足元がぬかるみ、転びそうになるし、着物の裾が泥や水で汚れる。
それでも由紀は気にせず歩き続けた。
(こんな雨くらい、和花さんの心の傷に比べればなんてことはないわ)
先刻見た和花の絶望的な顔が脳裏に浮かぶ。
今まで加納家の人々からどんなにきつくあたられようが、無視されようが、何食わぬ顔で耐えていた。和花のことを助けたいのに、目をつけられる恐怖から主人の前では素っ気ないふりをしていた臆病な自分に対しても、少しも嫌味を言わずに優しく接してくれ、気を遣ってくれた。
そんな和花の暗く悲しい表情は見るに堪えられなかった。
(加納家と和花さん、どちらかを選べと言われたら私は職を失ってでも和花さんを選ぶわ……だから……!)
加納家に未練はない。
田舎の家族を養う為に、割りの良い使用人の仕事を選んだまでだ。仕事なら探せば他にもあるだろう。それよりも今自分が優先させたいのは和花だった。
「っはぁ……っはぁ……すみません……九条様は……いらっしゃいますか……?」
大きな門の前にたどり着いた由紀は、息も絶え絶えに目の前の男二人に声を掛けた。
傘は差しているのにずぶ濡れで、息が切れている女を目の前にして、門の前で立っていた男たちはぎょっとした。
「すみませんがどちら様でしょうか?」
「こちらは約束がなければ立ち入ることはできかねます」
「そこをなんとか……お願い致します……」
「そうは言われましても難しいですね」
「そっそんな……」
「お引き取りを」
唯一頼れる蒼弥に、和花を救う協力を頼もうと宮廷まで一目散に来た由紀は、男たちの厳しい言葉に肩を落とした。
ざあざあと強い雨の音のみが由紀の耳に聞こえる。
立ち去らない由紀に怪訝な顔を向ける門番の男たち。
「……もう九条様にしかお願いできないのです。お願い致します。お話だけでも……」
「お引き取りください」
「そこをなんとか……」
帝都の中枢を担い、最も高貴な方が住まう宮廷に簡単に入るなんて難しい。自分が無理なことを言っているのは百も承知。
だが、由紀も必死だった。なんとかして蒼弥に会って話をしたい、和花を救う為に力を借りたいと、頭はそれでいっぱいだった。
「和花さんを……和花さんを助けたいだけなんです……どうか、どうか……」
「何かございましたか?」
深々と頭を下げていた由紀は、別の方向から聞こえた声に、緩やかに身体を起こした。
紺色の傘を差し、黒色のスーツを着た男がこちらを見ている。
男はジロジロと由紀の頭からつま先まで眺めると「あ……」と声を漏らした。
「あなたは……」
「小山様のお知り合いですか?この者は約束なくいらせられて……お引き取り願っていたのですが……」
門番が決まり悪そうに事の詳細を伝える。その間、由紀はだんまりと足元の水たまりを眺めていた。
「なるほど。分かりました」
一連の流れを聞くと、小山は由紀に向き直った。
「あなたは確か、先日、藤崎様と一緒にいらっしゃいましたよね?」
「……はい?」
あいにく由紀は小山に会ったことを忘れていた。いや、先ほどのことで気が動転し思い出せなかったのだろう。
「蒲公英色の着物の時です」
「あ……」
最近のことが遠い昔のように思い出される。そうだ。和花の母親の見舞いに行こうとした時に、蒼弥と部下たちと会ったことを思い出した。
その時に彼も、小山もいて一度挨拶したではないか。
我に返った由紀は慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません。以前お会いしましたね。帝国病院の近くで……」
「思い出せたようで良かったです。それよりも何かございましたか?こんなに濡れてしまって……」
小山の言葉に自分の身なりに目をやる。今更だが、自分の酷い姿に穴があったら入りたい気持ちになった。
「九条様にお願いしたいことがありまして……」
「九条さんにですか?どのようなことを?」
「和花さんを……助ける為にお力を貸して欲しいのです……!」
真っ直ぐに小山の目を見る。はっきりものを言う由紀に小山は目を大きく開いた。
「そうは言われましても難しいものは難しい……」
「分かりました。九条さんの所へご案内します」
「こ、小山さん?!」
決まりは決まりだと言い立てる門番に被せるように、小山は承諾した。
「良いのですか……?勝手に素性の知れない者を入れてはいけないのでは……」
「全く知らない方ではありません。もし何かありましたら私が全責任を負いましょう」
「そ,それならば……」
きっぱり言い放つ小山に根負けした門番たちは渋々門を開いた。
「さぁ、九条さんの所へ急ぎましょう」
「はい。ありがとうございます」
なんとも言えない顔をしている門番たちに軽く頭を下げると、由紀は小山の後に続いた。
道を進む度にすれ違う人々の視線を感じる。文官副長の小山が、ずぶ濡れの女を引き連れて歩いているのだから皆が訝しげな顔をしていた。それに気付いているのか気付いていないのか分からないが、小山はどんどん奥に進んで行く。歩くのが早い小山に置いていかれないよう由紀は必死に追いかけながらも、何故すんなり通してくれたのか不思議でならなかった。
「あの……」
人通りのない廊下までくると、由紀は思い切って前を歩く小山の背中に声を掛けた。
「どうかされました?」
足を止めた小山は顔だけ後ろを向く。
「無理を言って申し訳ございませんでした……あの、ですが、何故入れてくださったのですか?一度お会いしたことがあると言いましてもほんの少しの時間ですし……」
言葉が上手く出ない由紀を見て、小山はふっと力無く笑い、身体ごと由紀に向けた。
「確かに通常ならばあなた様を宮廷に入れることはできません。ですが、九条さんの為にと私が勝手に判断させて頂きました」
「……」
「お父上から文官長という責任ある立場を若くして引き継いだ九条さんは、休む間もなく働いていました。仕事が生きる意味とでもいうくらいに仕事しかしていませんでした」
「……そうなのですね」
「私は九条さんが文官長になりたての頃から共に仕事をしていますが、いつか身体を壊して倒れてしまうのではないか心配していました。彼が身も心も安らぐ為にはどうしたら良いか考えていた時に彼は出会ったのです――藤崎様と」
「……和花さんと?」
「はい。藤崎様と出会い九条さんは変わられました。万年文官長室に閉じこもっていましたが、仕事を切り上げ藤崎様に会いに行くようになり、様々な表情をされるようになりました。私はその姿を、彼の優しい目を見てとても安心したのです」
「それでは九条様は和花さんのこと……」
「えぇ。そうだと思います。まぁ、仕事人間だった九条さんはぴんとこなくて困っているようですけど」
思い出し笑いをする小山につられ、由紀もくすりと笑った。
恋愛に疎い和花も同じような反応をしていたことを思い出した。
不器用だが愛おしいと思ってしまう。
やはり和花を救い、出来るなら蒼弥と共に過ごして欲しい。お節介かもしれないが、由紀の中で新たな願望が芽吹いた。
「似たもの同士なのかもしれませんね。九条様と和花さんは」
「そうかもしれないですね。さぁ、二人のために急ぎましょうか」
「はい」
二人は顔を見合わせて笑った。
お互い大切な人の幸せを願い動いたまでだ。それが合致するのであれば、共に力を合わせて和花と蒼弥の為に手を尽くそうではないか。
後先考えずに宮廷にのりこんだ由紀は強力な味方ができたようで心から安堵した。