1 黒紅の桜
「おはようございます」
鈴を転がすような声が静かな部屋に響く。
季節は明るい春だというに、和花は黒紅色の着物に、使用人と同じ前掛けをしていた。
和花の心の中の黒い感情が溢れ出て着物を染めたような黒紅色の着物には、全体に濃紅の桜花が散りばめられている。
桜花は儚さというよりも静かに、しかし強くそこに『咲き留まっている』印象を与えた。
まるで今日という一日を穏便に終わらせようと懸命に心を抑え込む和花のように。
明るい春の陽気の中で、彼女が身に纏うのは決して春らしい喜びを映す色ではなかった。
それは、言葉にできない想いを静かに訴える無言の装い。
居間に現れた義両親に丁寧に頭を下げ挨拶をする。
「……」
こちらを一切見ることなく、ずかずかと居間に踏み込んだ義父母は所定の場所に腰を下ろした。
漆塗りの和箪笥や木製のちゃぶ台が置かれ、天井にはフリル型の電笠が吊るされた洒落た居間は、朝だというのに清々しさの欠片もなく粛々とした空気に包まれていた。
「直斗はどうした?」
「はい、お坊ちゃまは大学に行かれました。本日は朝早くから講義があると申しておりましたよ」
「そうか」
「直斗も頑張っているのね」
まるで、二人には和花の姿が見えていないようだった。和花の挨拶を綺麗に無視し、淡々とした口調で初老の使用人と話し出す。
和花は深々と下げていた頭を上げると、黙ってその場から立ち去り、使用人と共に朝食の準備に取り掛かった。
老舗呉服屋の息子、加納直斗と婚約して一年になる。
義両親のこのような態度は、婚約をした次の日から日常茶飯事のことであり、和花にとってはもう慣れたものだった。
罵声を浴びせられたり、手を出されないだけましな方。機嫌が悪いと目の前に茶碗やら箸やらが飛んでくることもある。周囲の使用人たちも憐みの目で和花を見るが、主人には物を言えない。皆いつも見て見ぬふりだった。
何故このような仕打ちなのかは正直よく分かっていない。
ここに来たばかりの頃は自分の行いが悪いのかと試行錯誤やってみたが、特にそういう訳でもないようだ。
ただただ和花の存在が気に入らないのだと割り切って過ごす日々。
婚約者の直斗は帝都大学に通い、美術を専攻しているらしい。
直斗は和花にとんと興味がなく、二人で話すことなんてほとんどない。必要最低限の連絡くらいだ。
すぐに婚姻する話も出たが、和花がまだ十六だったこと、直斗が学生だったこともあり延期になっている。
自分に興味がない婚約者と自分を使用人のように扱う義両親。
冷たい家族と一年過ごし、心が折れそうになりながらも、穏便に過ごそうと愛想笑いを振りまく。少しでも婚約者として認めてもらおうと加納家の為に家事や仕事をこなしてきたが、相変わらずである。
別に和花も好んでこの冷えた家族と一緒になろうと思った訳ではない。
ただ、和花にはここにいなくてはいけない、譲れない理由があるのだ。
「お待たせいたしました」
義父の前にお膳を置く。
出来立ての料理からはほかほかと湯気が上がり、いい匂いが鼻をくすぐった。
「……」
当たり前だが、感謝の言葉もない。義父はふん、と鼻を鳴らすと、箸を手に取り、白米を口に運んだ。義母も隣で味噌汁をすすっている。
息子の婚約者だというのに、和花の食事は用意されていなかった。婚約したての頃、「血が繋がっていない家族と共に食卓を囲みたくない」と言い放たれてから和花は一人自室で食事をしているのだ。
だが、その方が良いと思っている。
重苦しい空気の中で、緊張から味も分からない物を食べるよりかは、一人で落ち着いて食べた方が断然ましだ。
二人が食べ始めたことを確認すると、棚から急須と湯呑みを取り出し、お茶の用意をする。
「ねぇ、あなた、今日少し出かけてきても良いかしら?新しくできた甘味処に行ってみたいの」
義母は甘えるように猫撫で声を出す。
「あぁ。分かった」
「本当?ありがとう」
義父は義母に甘い。
綺麗な手入れが行き届いた肩までの黒髪、派手な化粧とほっそりとした身体。和花の義理の母である加納紗栄子は目鼻立ちがくっきりとした美人だった。年齢を感じさせない美貌と佇まいは、同性である和花も羨望のまなざしで見てしまう。が、良いのは外見だけである。
新しい物好きである紗栄子は金遣いが荒い。さらに怒りっぽい性格であり、気に入らないことがあるとすぐ顔に出ている所をよく見る。
礼儀がなっていないだの可愛げがないだの、和花自身もしょうもないことで小言を何度も言われてきた。
きっと義父にとって紗栄子は自慢の妻なのだろう。今も嬉しそうにする紗栄子を横目に口元を微かに綻ばせている。
「お茶でございます」
お膳にお茶を置くと朝食の仕事は全て終わり。自分も食事をとろうと立ち上がり、襖に手を掛けた。
「おい」
低い声が和花を呼び止める。何か気に障るようなことをしてしまったのかと和花の表情が強張った。
「はい、いかがされましたか?」
振り返りその場に腰を下ろし、姿勢を正す。
義父の方を見るも目は合わない。視線をお膳に向けたまま不愛想にしている。
「先日頼んだものはできているか?」
「はい。昨日できました」
「……それなら日中は店番をしていろ」
「で、ですが……!」
和花には他にやるべきことがあった。それを伝えようと口を開くも、ギロリと睨まれ何も言えなくなる。
「なんだ?私の言うことが聞けないというのか?」
「……滅相もございません……承知いたしました」
威圧的な態度には叶わない。渋々と了解すると義父は盛大にため息をついた。
「お前は何のためにこの家に来たと思っているんだ。文句は受け付けない。言われたことをやればいい。だが、お前のやらなければならない仕事も疎かにするなよ。手抜きや怠惰は許さない」
「……はい。失礼いたします」
気を落とし、とぼとぼと部屋を出る。
実家ではこれでもかと惜しみなく愛情を注いでもらい天真爛漫だった和花。
自分の考えを持ち、それを相手に伝えられていたはずだったのに、この一年でだいぶ変わってしまった。
少しずつ和花の心を灰色の雲が覆い、感覚を鈍らせた。
伝えても意味がない。
それが分かってからは全てを諦め、人形のように言いなりになる日々。
ここで生きていくためにはそうした方が楽だった。
和花はいつの間にか自分の心に重い重い蓋をして全てを諦めるようになった。
それは自分の気持ちの伝え方を忘れてしまうほどに。
お気に入りの白いレースの手袋をつけた右手をじっと見つめながら和花は顔を曇らせるのだった。