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漆黒の下り藤 2




 


 泣き続け疲れた果てた和花は、いつの間にかその場で眠りについていた。

 だいぶ時間が進んだのだろう。日の光で明るかった窓の外は藍色になり、ぼんやりと月が見えた。

 床で寝ていたからか身体中が痛む。痛みを感じながらゆっくり起き上がると、自分ではかけた覚えのない布団が掛かっていた。

 周囲を見回すと机の上には冷たくなったお茶とおにぎりが置かれている。


(きっと由紀さんね……)


 ありがたいが、正直お腹は空いていない。泣きすぎて頭も痛い気がするし、目も開けづらい。

 机上のおにぎりから視線を横にずらすと、母からもらった兎の置物が目に入った。それを手に取ると知らず知らずのうちに目がまた潤んでくる。

 さっき散々泣いたのにまだ涙が枯れていないことに自分でも驚いたが、もうどうすることもできなかった。


「……っう、っ……」


 涙が落ちては床に模様を描いていく。

 むせび泣く和花の涙を止めたのは突如開けられた戸の音だった。驚いて音の方を見ると眉を釣り上げた信忠が仁王立ちしていた。


「おい。いつまでそうしている。仕事は終わらせたんだろうな?」


 耳障りな声に身震いした。

 信忠はぐるりと部屋を見渡すと、先ほどと何も変わっていない状況にいきり立った。


「まさかお前!何もしていなかったのか!?」


 きん、と耳を劈く声が響く。


「も、申し訳……ございません……」


 頭が回らないが、これまでにない信忠の剣幕に、恐れ慄いた和花は慌てて姿勢を正し、額を床に擦り付けて謝る。

「馬鹿げた女だ。お前の母親は死んだ。もう済んだことをいつまでもいつまでも!感情に溺れて仕事を放棄するとは……これで加納屋に支障が出たらただじゃおかないからな!?」


 冷たく見下すように言い放つ。


「……申し訳ございません」


 ただただ謝罪を口にすることしかできなかった。

 この義父は本当に人なのだろうか。

 自分の母親が亡くなっても悲しむことも許されないのか。

 そんなに仕事が大切なのか。

 和花の目から光が消えた。奈落の底に突き落とされていく。深い深い底は真っ暗で、這い上がる気力ももう無かった。


「明日までに全て終わらせろ。いいな?!」


 ピシャリと戸が閉められると、再び深々とした空気に包まれた。

(もう嫌……)

 着物の絵柄を描くことは好きだから、決して苦ではない。だが、今日だけは気が乗らなかった。

 それでもやらなくてはいけない。やらなくては次は下手すると命が危ないような気がした。


 まぁ。もうこんな命などどうだっていいのだけれど。

 このまま何も食べないで寝ないでひたすら仕事をしていたら、母や父の元へいけるのではないかと最悪の案が頭を掠めた。


 よろよろと立ち上がる。泣き疲れと何も食べていないことが相まって身体に力が入らなかった。やっとのことで椅子に辿り着きどさりと座り込む。


 調色板に出していた夏色の染料はとっくに乾いて固まっている。無惨な姿を気に留める余裕はない。黙々とやるべきことをこなしていく。

 向日葵の着物の続きを描こうと緑色の染料を作り始めた。


「……あ」


 力がうまく働かず染料の瓶が机の上で倒れ、緑の水溜りを作る。

 布巾を取ろうと手を伸ばすと、和花の着物の袖に筆立てに立てられた筆先が引っかかり、大きな音を立てて床に落ちた。

 何をやっても上手くいかない。ほんの些細なことなのにまた目が潤んできた。


(駄目……着物を作らないと……)


 信忠に怒られるのはもう御免だ。目を強く擦り、強制的に涙を止めると、一つ深呼吸をして心を落ち着かせた。


 レースの手袋を外す。母からもらった大切なもの。母の形見になってしまった。

 そんなことをぼんやり思いながら袖に仕舞い込み、筆を取り着物に色を付けていった。

 緑の葉の輪郭を丁寧に描いていく。


(あ……れ……?)


 和花はすぐ異変に気付いた。何故か手が震え上手く描けない。

 まっすぐな線を描きたいのにガタガタ汚くなってしまう。

 枠の中の色を塗りたいのに、思い切りはみ出してしまう。

 向日葵の花の黄色に緑が混ざってしまうーー


(どうして……)


 何度も描いてみたがどうしても上手く描けなかった。

 自分の身体なのにまるで別人の身体を操っているかのように言うことをきかない。

 さっと血の気が引いた。

 筆を置き、恐る恐る自分の手を見る。右手を見た和花は絶句した。


(……っ!)


 右手の五本指の爪が、全て黒く染まっていた。

 「彩色の手」を持つ和花の右手指の爪は、普通の人と違う。

 親指から赤、橙、黄、緑、青と一本ずつ爪の色が変わっている。

 これが彩色の手を持つ者の特徴だ。

 その特徴が跡形もなく全て漆黒色に染まっているのだから衝撃を受けた。


(……色が……)


 試しに布で擦ってみたり、左指の爪で引っ掻いたりしてみたが変わることはない。闇のような漆黒色。


(い、いやっ……!どうして?! どうして色が変わってしまったの……?!)


 気が狂ったように右手の爪を布で擦り続ける。強く強く強く……

 自分の身体の突然の変わりように恐慌に陥った。


(私……もう何もできない……)


 自分から絵をとったら何も残らない。生きる意味ももう分からない。

 今日何度目だろう。また視界がぼやけていく。

 父や母から自分の手が持つ力の話は、なんとなく聞いていた。人を幸せにする素敵な力があるから大切にして欲しいと。だが、爪の色が変わるなんて聞いたことがない。


 ――あぁ。もしかしたら色神様が怒っていらっしゃるのかもしれない。

 不甲斐ない出来損ないな自分を。

 義父に自分の気持ちを伝えることもできず、最愛の人の最期にも立ち会えない親不孝な娘。

 だから罰として唯一の取り柄であるこの力が使えなくなったのかもしれない。

 そう考えると一人納得したが、自分の不甲斐なさにさらに気持ちが暗くなった。


 自分の異変を嘘だと思い込みたい和花は、その後狂ったように絵を描き続けた。

 筆を強く握りしめ、まだ模様を付けていなかった反物に片っ端から絵を描いていく。

 無我夢中で描いた。

 描いているうちに元通りの爪の色になるかもしれない。また絵が上手に描けるようになるかもしれない。と心の中で何度も唱えながら――

 ふと手を止め振り返ると、床一面は子どもが描いたような拙い絵の反物で溢れ返っていた。


「もう……駄目なのね……」


 椅子から崩れ落ちるようにへなへなと床に座り込む。涙が頬を伝う。止めようと強い力で顔を擦るが、涙は止まることを知らない。


「私にはもう……何もない……お父様、お母様の所へ……行きたい」


 温かい家族も絵の才も一気に失い、喪失感に襲われた。

 静かな部屋には和花の鼻を啜る音だけが響く。


 ――そんな時だった。背後から耳馴染みの良い低い声が聞こえたのは。


「そんなこと言わないで下さい」


 優しさが溢れる穏やかな声。

 和花の肩が跳ね上がった。

 おそるおそる振り返るとそこには和花を凝視する蒼弥がいた。



 


 

 

 

 

 

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