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3 漆黒の下り藤






 長雨が続き、ジメジメとした嫌な空気が肌にまとわりつく。

 どんよりとした天気に活力が全て奪われてしまいそう。

 そんな中、加納屋では夏に向けて涼しげな意匠の着物の注文が殺到しており、和花は今日も今日とて着物の仕立てに追われていた。


 作業部屋の至る所には、華やかな朝顔や涼やかさを連想させる雪輪模様、色鮮やかな花火をあしらったもの等、夏らしい絵柄の着物たちが衣桁にかけられ並べられていた。


 机の上の調色板には淡い紫や水色、青などの涼しげな色の染料が出され、見ただけで爽やかな気持ちになれた。


 和花の集中力は凄い。

 これまで五時間ずっと着物を仕立て続けていたというのに、今だに集中を切らさない。真剣な表情で、細い筆を手に黄色の染料で花びらの輪郭をゆっくり丁寧に縁取っている。


 白地に黄色の大きな花。夏の暑さに負けず、大きく華やかに咲く向日葵柄の着物が今まさに出来上がろうとしていた。そこに由紀の声が響く。


「和花さん?入ってもよろしいですか?」


 心なしかいつもより声色が明るい気がした。

 向日葵を描き終えた和花はふぅと息を吐くと、筆を置き、急いで手袋をはめる。


「どうぞ」


「お仕事中にすみません!ですが急ぎお伝えしたいことが……!」


 珍しい由紀の慌てぶりに和花は何事かとぎょっとした。


「由紀さん落ち着いて下さい。何かありましたか?」


 息を弾ませている由紀の元に駆け寄り、背中を摩ってとりあえず落ち着かせた。

 何か悪いことが起きたのかと緊張が走ったが、由紀の表情からは特に負の感情は読み取れない。


「ふぅ……取り乱し失礼しました。早く和花さんにお伝えしたくてつい……」


「……なんでしょう?」


 由紀は不思議がる和花の手ををがっしり握り、目を輝かせた。


「今晩、九条様がいらっしゃいますよ!」


「……はい?」


 九条様が、今夜、来る……?

 想定外の言葉に和花は目を瞬かせた。驚きすぎて由紀の言葉の意味を理解するのに少々時間がかかる。


 蒼弥とは、先日ばったりと帝都の街で会ってから一回も会えていなかった。

 きっと蒼弥も仕事に追われているのだろうし、和花も立て込んでいたからどっちにしろ、のんびりする時間の確保は難しいししょうがないと割り切っていたつもりだったが、ふとした瞬間に彼のことを思い出し寂しくなっていたのも事実だ。

 だから久しぶりに聞く彼の名に和花の心臓が跳ねた。


「え?え?あの……何故わかるのですか?」 


 戸惑う和花をよそ目に、由紀は得意げに笑った。


「先程、買い物に出かけた際に、仕事中の九条様とお会いしたのです。そこで、全然行けずにすみません、今夜お伺いしますと和花さんに伝言を承りました」


「まぁ!九条様が……!」


 突然の朗報に和花の表情がぱっと明るくなった。


(久しぶりにお会いできるのね! 九条様が来る前にお仕事を終わらせて、そしてお茶を用意して……)


 あれこれやることを頭に浮かべ、今後の計画を立てる。蒼弥とのことを考えると頬が緩みっぱなしになった。

(誰かと会えるって、こんなに楽しいことなのね。その前にこの仕事を片付けないと……!)


 ふわふわと浮ついた気持ちを抑えつつ、目の前の仕事に向き合うよう自分に喝を入れた。

 くるくると表情が変わる和花を微笑ましそうに由紀は見た。


「ふふふ。喜んで頂けて早く帰ってきた甲斐がありましたわ」


「あ、え、ははは……」


 舞い上がっている自分を見られ、恥ずかしさから苦笑いを浮かべ頭を掻いた。


「本当にお好きなんですね。九条様のこと」


「……そうですね」


 もう由紀の前では嘘は付けない。ぽっと顔を赤くして頷く和花に由紀は勢い良く抱きついた。


「っわ!」


「もう本当に可愛らしいですねぇ!和花さんは〜」


「ゆ、由紀さん!は、恥ずかしいです……!」


「九条様が惚れる理由が分かる気がします〜」


 褒めちぎられ、もみくちゃに撫で回され、恥ずかしさでいっぱいになりつつも、悪い気はしなかった。

 むしろこんなに褒めてくれる、大切に思ってくれる由紀の存在が嬉しく胸がいっぱいになったその時ーー


「おい、入るぞ」


 突然、作業部屋ではあまり聞くことがない濁った太い声が耳に入る。

 一瞬にして空気が張り詰め、二人は顔を見合わせながら、どちらともなくそっと身体を離した。

 和花の返事も待たずして、勢いよく襖を開け放ったのは信忠だった。

 忠信がここに来るなんて珍しい。

 じろじろと鋭い目つきで部屋中を見られる。粗探しをされているかのような気持ちになった。


「ここで何をしていた」 


 ギロリ。信忠の視線が由紀を捉える。


「あの……えっと……」


 主人に睨まれ、和花の隣にいる由紀は怯えた表情になり口籠る。


「用もなくここに立ち入ったのか?」


「そ、そういう訳では……」


 信忠の剣幕に慄く由紀を見ていられず、和花は彼女の前に躍り出た。


「私です。私が彼女にお願いをしました」


「お前が?」


「はい。自室から持ってきて欲しいものがあるとお願いしました」


 苦し紛れな言い分かもしれない。だが、由紀が非難されないよう必死に弁解をした。いつも和花に心を配ってくれる由紀を悪者にされたくなかった。


 珍しい和花の反抗に信忠は和花を睨みつけたが、こればかりは譲らないと和花も信忠を見つめ返した。


「ふん。まあいい。お前は下がれ」


「か、かしこまりました。失礼致します」


 不安そうな顔をする由紀に、和花は大丈夫だと安心させるように、にこりと笑って見せた。足早に由紀が立ち去ると部屋は静寂に包まれた。


「……なにかございましたか?」


 用件を尋ねると、信忠は部屋に入る訳ではなく、入り口で太い声を一段と太くしてあっさりと衝撃的なことを告げた。


「今連絡が入った。お前の母親が死んだらしい」


「……え?」


 自分の耳を疑った。ぴたりと思考が停止する。


「えっと……それは何かの……間違いでは……?」


「俺が嘘を付いているとでも言いたいのか?」


 しどろもどろになる和花に信忠は声を大にして叱責した。


「……」


 だが、そんな声も耳に入らない。和花は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、目の前が真っ暗になった。


(お母様が……亡くなった?この前元気だったのに……これは嘘?)


「葬儀などはこちらが済ませておく。お前は自分の仕事を責任持って終わらせなさい」


「ま、待ってください!」


 仏頂面のまま早々に立ち去ろうとする信忠を、和花は慌てて引き留める。この男は大好きな母の最期にも会わせてくれないと言うのか?怒りが込み上げ、つかつかと信忠の元へ歩み寄り、至近距離で訴える。


「私にとってたった一人の母なのです……!最期に顔だけ見させて下さい……!」


 加納家に来て初めて大声で訴えるも、信忠は鬱陶しそうな顔をした。それでも引かずに懇願し続けた。


「お義父様お願いです!お仕事も責任持ってきちんとやります……!ですので……!」


「っうるさい!!」


「きゃっ!」


 しつこく縋る和花を、信忠は思い切り突き飛ばした。

 和花の身体が後方に大きく傾き、鈍い音と共に派手に尻餅をつく。

 ひりひりとお尻が痛む。しかし、今はそれよりも心が痛い。


「……」


 顔を下に向け唇を噛み締める。

 もう目の前に立ちはだかる信忠を見上げる力も、言い返す力も残っていなかった。


「何度も言わせるな。お前は俺の言うことをただ聞いてれば良い。余計なことはするな。分かったな?」


 苛立ちを抑えきれない信忠は声を荒げると大股で部屋を後にした。


「……」 


 一人取り残された和花は何も考えられなかった。

 座り込んだままの床がひんやりと冷たい。今の和花の心の内のようだった。


「和花さん……」


 信忠と入れ替わるように顔を覗かせたのは由紀だった。部屋から出た後もどこかに身を潜めていたのだろう。

 由紀は和花に駆け寄るとゆっくり優しく彼女の背中を摩った。


「……」


 もう和花には言葉を発することも、作り笑いを浮かべる余裕も無かった。

 ただ茫然と虚な目で床を見つめている。人は衝撃が強すぎると涙が出ないと言うが、まさに今の和花はそうだった。


「どうして……」


 由紀の目からは涙が流れた。和花を想っての涙。泣けない和花の代わりに由紀の目からは、とめどなく涙が溢れてくる。

ずっと下を見ているから和花の表情は見えないが、失意に沈んでいることがよく分かる。

 由紀は何と声をかけて良いかわからなかった。簡単に言葉をかけられなかった。

 慰めも優しい言葉も今の彼女には鋭い刃にしかならない。そう感じた由紀はどんな言葉を口にすれば良いのか悩んだ。


「……すみません。少し一人にして頂いてもよろしいでしょうか?」 


 思い悩む由紀に力の入らない弱々しい声が掛かる。

 ここで一人にさせても大丈夫なのか、新たな疑問が浮かんだが、和花の思いに寄り添うことにした。


「……分かりました。何かありましたら必ず声をかけて下さいね」


 部屋の戸が閉まり一人になった途端、視界がぼやけ、鼻の奥がつんとした。


「……っう、っつ……」


 今まで堪えていた涙がぽとりと床に落ちた。一粒落ちると後から後からとめどなく流れていく。

 幸せとは無縁の暮らしになると分かって自らここに来た。だから泣いてはいけない、弱みを見せてはいけないと思い、この一年涙を堪え、笑顔で耐えてきた。

 ただこれはあんまりだ。

 これではこれから何の為に生きていけば良いか分からない。

 少し前に会った母の優しい笑顔が頭をよぎっては頬を濡らす。

 にわかに信じがたかった。

 だって、先日楽しそうに話をしたじゃないか。顔色も良く元気そうにしていたじゃないか。

 こんなことになるのなら今までの感謝をたくさんたくさん伝えておけば良かった……

 後悔が押し寄せる。


「おかあさまっ……」


 しんと静まり返る部屋に啜り泣く声が響いた。

 和花は今までの悲しみ、悔しさ、怒り、寂しさ全てを吐き出すかのように床に伏せ、泣き続けた。

 このまま干からびてしまいそう。それでも涙は止まることを知らなかった。



 

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