蒲公英と菊 9
加納宅の応接間で男二人が真顔で向かい合って座っている。
一人はこの家の家主である加納信忠。
いつもより眉間の皺を濃くして向かいの男を見ていた。
もう一人は年若い男。
紺色の短い髪を後ろで一括りに結び、スーツを着こなしている。口元は微かに笑っているが、紫色の目は鋭い。
「突然如何されましたか?」
信忠の言葉に男は眉をぴくりと動かした。
「どうやら何故私がこちらにお伺いしたのか理由が分からないようで」
「ええ。私は貴方様の言う通りに致しておりますが、何かご不満でも?」
淡々と平行線な会話が続く。
信忠の間に痺れを切らした男はスーツの胸ポケットからひらりと一枚の写真を取り出した。
「これは一体どういうことなのでしょうか?加納さん」
差し出された写真を受け取り、まじまじと見つめる信忠の顔に焦りの色が見えた。
「こ、これは……!」
「こんなに嬉しそうに笑っておられて……約束が違いありませんか?」
信忠の手の中にある写真には互いを見つめて笑い合う和花と蒼弥が写っていた。
写真に写る背景や服装からして、先日病院前でばったり出会した時のものだろう。
「こ,これはいつどこで撮られたものですか?彼女は外出することなど滅多とありませんし、仕事ばかりしていたのでこのような知り合いはいないはずです……!」
動揺から信忠の声が若干震える。
彼女を無断で外出させるなどあり得ない。不審な動きがあれば報告するように使用人たちは話を通していたが、言いつけを守らない者がいたのか?
(もしやあの日か?)
旅行のために家を空けた三日間。
自分勝手な行動を制限する為に仕事を山ほど置いていったが、その合間を縫い自由にしていたというのか。言いつけていた仕事が綺麗に片付いていたから、それに満足し、確認を怠っていた。
(くそっ、あの娘。もっときつく縛りつけておくべきだった)
「私の家の者がたまたま通りかかった時に目撃したらしいのです。不思議なんですよね。以前報告を受けた際は、ただこちらに篭って仕事やら家事やらをさせていると聞いていましたのに、いつの間にこんな親しい人ができたのかと……ね」
恐々しい重い空気が漂う中男は怪しく笑った。
「頼みますよ、加納さん。彼女にはたっぷりと不幸を味わって頂かなくてはいけないのですから」
「……分かりました。彼女をよく見ておきます」
家族や使用人の前では、ふん反り返って威張り散らしている信忠の姿は今ここにはない。年下である男の機嫌伺いながら小さくなっている。異様な光景だ。
「お願いしますよ。彼女には不幸になってもらわなくてはならないのですから」
言葉の最後に、わずかに抑えきれない狂気のような熱が混じった。
信忠は唇を噛み、問いかける。
「……なぜそこまでして不幸にさせたがるのですか? あの女が何をしたというのですか?」
和花に対し冷酷に接している信忠だったが、契約時にこの男から頼まれたからそうしているのであって、初めは本意でしている訳ではなかった。
だが、どんなに突き放しても折れない和花を見ているうちに苛立ちを覚え、いつのまにか自分の意志で罵るようになっていた。
男は力なく笑うと、やれやれと首を振った。
「本当にあなたは何も知らないのですね。確かに今回のことを提案したのは私ですが、こんなにも知らないまま受け入れていたとは」
「……っ」
「良いでしょう、教えてあげます。何故彼女を不幸にさせたいのか……それは彼女が持つ不思議な力を衰えさせる為、です」
「不思議な力……?あの娘が?」
初めて知る事実に信忠の思考回路が一瞬停止するも、頭を振り、嘲笑った。
「冗談は辞めてください。あの娘は少しばかり愛想が良く、手描き職人として働くことしか能のない女です。そんな奴に一体どんな力があるというのですか?」
男は額に手を当て深いため息をついた、
本当にこの男は何も分かっていないし、分かろうともしていない。一年も彼女をここに置いて何を見てきたというのだ。
本当に自分中心で他人に興味のない男。
……だが、そのくらいの方がこちらも助かる。
深く詮索されたり、手を貸してもらえなくなったりしたらとても困る。
ようやくここまで順調に計画が進んでいるのだから。
「あなたは彼女の右手を見たことがありますか?」
「右手……ですか?いや特には」
「それでは何故いつもレースの手袋をしているのかと疑問に思ったことは?」
「確かにいつ見ても同じ手袋をはめていますね」
「はい。彼女の手には不思議な力が宿っています。『彩色の手』ご存知ありませんか?」
男から出た言葉に信忠の顔付きが変わった。目を大きく見開き固まる。
「その様子ですとご存知なようで」
「さ、彩色の手といいますと、この国に古くから伝わる伝承話なのでは……?」
「はい。多くの方がそう思われておりますが、伝承話でも誰かの作り話でもありません。実話なのです」
――彩色の手
遥か昔、この国は色が存在しなかった。
空の青も山の緑も花の柔らかな色もなく、全ての物が白黒。さらには洒落た模様もなく、着物も装飾品も無地。彩りがなく寂しい貧しい所だった。
ある時、眩い黄色い光が天から降り注ぎ、色神様が降り立たれた。黒く長い髪を靡かせ、背中からは色鮮やかな羽が生えている女性。優雅に微笑む美しい姿に誰もが目を奪われた。
口をあんぐりと開け動けないでいる人々を横目に、彼女がスッと白く細い右手を天に向けると、淡い水色の光が手から放たれ、それまで白色だった空が穏やかな水色になったのだった。
皆、彼女の力に驚きながらも、空を見上げる。今までに見た事がない美しい色に笑みや歓声が溢れた。人々はこの時初めて鮮やかな色を目にしたのだった。
次に手を近くにいた女性の着物に向かって伸ばす。すると、黒い無地だった着物が赤色に染まり、大小様々な花の模様が浮かび上がった。
女性は華やかな自分の姿に歓喜し、他の女性たちからは羨ましがる声が聞こえた。
その後も色神様は、優雅な動きで次々と物に色と模様を与えていった。
植物には安らぎの緑を。
夕日には心を癒し、前向きにする橙色を。
宮城の襖や箪笥には繊細な模様を……
そして色神様は周囲にいた人達の中から一人の男を見出した。手や服に染料が付いている男は絵師として仕事をしていた。その人の元へ寄っていき、手を握る。
「貴方にわたくしの力を分け与えましょう。この国を豊かに平和にしていくのです」
色神様の手からはあたたかい光が放たれていく。
色神様は、男に「彩色の手」と呼ばれる不思議な力を与え、自分の代わりにこの国の美しさを守る役割を課して、天に戻っていったのだった。
この手を与えられた男は、絵を描く才能を授かり、その手で様々なものに色と模様をつけていった。
ある時は宮廷の意匠を、ある時は帝都の街並みを、その時々に必要な物の色や模様をつけていく。これにより国は見違えるほど美しくなっていった。
色が生まれたことにより、人々の生活は鮮やかに、そして物に繊細な模様が付いたことで、より豊かになった。
そして不思議なことに彩色の手で描かれた絵や模様、意匠には見た人を幸せにする力があり、人々の幸福度は右肩上がりだった。
それから数百年、すっかり美しく平和になった帝都では、彩色の手を持つ者の表立った行動は見られなくなり、いつの間にかこの国の伝承物語として代々子に受け継がれるようになった。
しかし、この手を持つ者は伝承物語でも伝説でもない。なぜなら、この力は男から子、そのまた子へ代々と受け継がれ、今現在も国のどこかにひっそりと、その不思議な力を宿した人が生きているのだから。
――それが和花なのだ。
「……ま、まさかあの娘が……」
信忠は開いた口が塞がらなかった。
それもそうだろう。ずっとこの国の言い伝えだと言われてきた事が実話だったのだから。さらに当の本人がこんなに身近にいたとは誰が想像出来ただろう。
「だから彼女が仕立てる着物は飛ぶように売れるのですよ……ただ」
淡々と話していた男が言葉を濁し、血相を変えた。
「私達はその才が憎くてたまらない」
「……!」
男の表情は翳り、唇を噛む。手には力が入り、血が出そうなほど握りしめていた。
恨めしさが滲み出る姿に戦慄を覚えた信忠は言葉を失った。
詳細は理解できないが、この男を敵に回してはいけない。そう自身の中で警戒音が鳴る。深い事情を追わず、言われたことを筒がなく達成させる他ないと己に言い聞かせた。
「そういうことです。くれぐれも失敗のないようにお願いしますよ。加納さん」
「か、かしこまりました……」
ただ、加納屋にとっても彼女の存在は必要である。彼女が着物を仕立てるおかげで自分達は楽にお金が稼げるのだから。
男の企みに疑問を抱きつつも、やはり信忠は自分中心に物事を考えるのだった。