蒲公英と菊 4
店を出た蒼弥はたった今起きたことを頭で思い返していた。
上品な佇まいだが、どこか哀愁漂う雰囲気の彼女のことを、一目見た時から気になる存在になっていた。
前回会った時の黒紅の着物も彼女の持つ雰囲気が伝わり魅力的だったが、今日着ていた浅縹色も素敵だった。
裾の方には水流模様と群青色の撫子柄があしらわれた落ち着いた雰囲気の着物。
一つ一つ着ているものをきちんと観察している自分に対し、それがどのような意味を持っているのか己に問い掛けるも、気付かないふりをしている自分もいた。
だが、今日また会って声を上げて笑う姿、握った手の柔らかい感触、赤く染まる頬、恥ずかしそうな表情を見たら芽生えている感情を認めざるを得なかった。
(これは困った)
別に避けて生きてきた訳ではない。自分には無縁だと思い遠ざけてきたのだ。ただ、彼女の笑った顔をもっと見てみたい。できることなら近くで。と、一度思えばその欲は強くなっていった。
「九条様!!」
悶々とする蒼弥の耳に控えめだが、はっきりと自分の名を呼ぶ声が入った。
「あなたは……」
追いかけてきたのはさっきまで対応してくれた使用人、由紀だった。
急いで追いかけてきたのだろう。蒼弥の前に辿り着くと前屈みになりはあはあと息を整える。
「どうかされましたか?」
「あの……!」
呼吸が落ち着いた彼女は、勢いよく顔を上げ、強い目力で蒼弥を見た。
「ありがとうございました」
「……はい?」
唐突な礼に訳もわからず蒼弥は素っ頓狂な声を出す。
自分は借りたものを返し、少し話しただけ。何もお礼を言われるようなことはしていない。
「あんなに声をあげて笑う和花さんを私は初めて見ました。だから、ありがとうございました」
由紀は腰を折り丁寧に頭を下げる。
「いえ。そんな!頭を上げてください」
由紀はゆっくり顔を上げた。二人の間になんとも言えない空気が流れる。
「あの、和花さんはあまり笑わないのですか?」
笑っているようで笑っていない。それは初対面の時から感じていた。なんとなく寂しそうな笑顔がやけに印象的だった。彼女が礼を言うのであれば何か心の底から笑えない理由があるのだろうか。
「和花さんはここの使用人でも従業員でもありません。彼女は店主のご子息の――婚約者です」
「婚約者……」
仲の良い両親を見て育った蒼弥にとって恋愛、婚約,結婚は喜ばしいもの、互いを思い合うものだと漠然と思っていた。
それなのに婚約者として加納家で過ごす和花は笑えない環境にいることに衝撃を受けた。
「一年前に加納家に来てからというもの彼女は義家族に冷遇されております。なぜそうなったのか、私も詳しい理由は分かりませんが、家では使用人として家事を行い、呉服屋では手描き職人として働く日々。彼女には心休まる場所が無いのです」
由紀は悔しそうに顔を歪める。
蒼弥は呆然と話を聞くしかなかった。
「婚約者の直斗様も和花さんに興味はなく、寧ろ婚約を嫌がっているご様子です。冷たい家の中であっても……少しでも皆が快適に過ごせるようにと心を無くして懸命に動いていれば、心から笑えなくもなりますよね」
苦々しく笑う由紀の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「私のようなしがない使用人は助けたくても何もできない。それがとても悔しいのです。彼女は……和花さんはとても素敵な方……ただただ幸せなって欲しいと願うばかりです」
「……」
彼女を取り巻く環境は思っていた以上に深刻なのかもしれない。
彼女の笑顔が頭に浮かんだ。冷酷な状況下でも笑顔を取り繕う彼女に「心から笑っていない」など心無いことを言ってしまった。そんな冷めた日々を過ごしていればにこやかに笑うことなんて難しいのに。後悔の念が押し寄せる。
「九条様。時々和花さんに会いに来てくださいませんか?私は少しでも多く彼女の笑った顔が見たいです。その為には九条様のお力が必要かもしれません。どうか、どうかよろしくお願い致します」
由紀が和花を思う気持ちが痛いほど伝わる。そしてこの話を聞いた蒼弥も同じ気持ちだった。
「……私も和花さんのことをもっと知りたいと思います。また教えて下さい」
「……! もちろんです!」
彼女の笑顔を守り増やしたい。
何か自分にできることはないか。自問自答を繰り返しながら蒼弥は帰路に着くのだった。