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蒲公英と菊 3




 

 まるで先日のことが嘘だったみたい。

 夜遅く、仕事中だというのに和花は筆の手を止め、ふと数日前の夜のことを思い出していた。


 蒼弥から向けられた温かい視線、笑顔、そしてぬくもり。

 きっと彼にとっては何気ない言動だったのかもしれないが、普段冷えた居場所にいる和花にとって、その何気ない立ち居振る舞いに優しさを強く感じ、心が温かくなった。


 机の上の卯の花色のハンカチーフを見つめる。これが蒼弥との出来事が幻ではないことを証明してくれた。


『心から笑っていらっしゃる感じではなかったので……』


 彼の言葉が思い出される。

 自分では笑っていたつもりだったが、初対面の人に違和感を与えてしまう程お粗末な振る舞いだったのか。


(心から笑うだなんて、この家ではできっこないもの)


 自分の立ち居振る舞いに反省しつつも、無理難題を突き付けられているような気持ちになった。


(だめだめ。仕事しないと)


 気持ちを切り替えて筆を握り直す。あと少し。これが終われば注文の山は大体終わり、少しは落ち着く。

 落ち着いたら母の所へ見舞いに行こう。母に会えばまた気分も変わるはず。少しの楽しみを見つけた和花の手は踊るように動いた。


「和花さん?失礼致します」


 顔を覗かせた由紀は今日も手にお盆を持っている。お盆の上のお椀からはもくもくと湯気が立っていた。


「いつもありがとうございます」


 毎晩のように夜食を持って来て和花の仕事を少し手伝ってくれる由紀。

 お盆を受け取ろうと手を伸ばすが、いつもと違う様子に和花の動きも止まった。

 彷徨う視線に何か言いたげな顔。


「どうかされましたか?」


「あ、あの……」


「はい?」


「和花さんにお客様が来ております」


「お客様?」


 自分を尋ねる人なんてそう多くない。いや、ほぼいない。

 親戚付き合いはなかったし、学校の時の友達には加納屋に嫁ぐことを告げられないまま別れてしまった。

 いくら考えても思い浮かばない。


「それが、九条様という方で……」


「……え?」


 聞き覚えのある名前に和花は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。

 一週間前にお会いした紳士の姿が思い出された。

 また来るとは思わなかった。というか、何のために来たのだろう。


「和花さんの水筒をお返しに来たみたいです」


 心を読み取ったのか蒼弥が来た理由を述べる由紀は心配そうに和花に目を向けた。


(すっかり忘れたわ。寧ろそのまま捨てて頂いても構わなかったのに)


 手元にあっても困ると思い手放したはずなのに律儀に返してくれるとは思わなかった。

 彼の誠実さが伝わる。

 和花も貰ったハンカチーフのお礼をきちんと言えていなかったことを思い出した。


「この部屋に通してくださいますか?」


「分かりました」


 由紀が表に向かったことを確認すると、散らかっていた机を簡単に片付ける。

 染料の瓶を気持ち程度綺麗に並べ、筆を一箇所にまとめる。乾かしている反物はしょうがないからそのままだ。

 最後に着ていた割烹着を脱ぎ、外していた手袋をはめて身なりを整える。

 ちょうど終えた頃に二人がやって来た。


「失礼致します。和花さんいらっしゃいましたよ」


「どうぞ」


 ほんの少し緊張する。彼は人の心を読むことが上手い。また今日も何かを見破られてしまうのではないかと気が気じゃなかった。


「また夜にすみません」


 蒼弥は今日も美しい。

 彼を見た途端、緊張が高まった気がしたが、それを悟られないように平然を装った。


「いえ。お待たせ致しました」


「私はお茶を淹れて参ります」


 そっと由紀が退室すると、静かな空間に二人きりになった。


「汚い部屋で申し訳ございません。よろしければこちらにお掛けになりますか?」 


 なんとなく気恥ずかしく、彼の顔がまともに見られない和花は視線を床辺りに向けながら普段作業中に座っている椅子を差し出した。


「ありがとうございます。でもあなたの分が……」


「あっ、ここに予備の椅子がありますのでお気になさらずに」


 蒼弥は本当によく気が回る人だ。

 部屋の端から椅子を引っ張り出しながら頭の中は彼のことでいっぱいだった。


(待って私……どこに座ろう)


 隣に並べていいのだろうか。それとも机を挟んで座るべきか。

 必死に頭を動かし思い悩んだが、埒が開かないと覚悟を決め、机を挟んで真正面に座る。

 しかしどこを見たら良いのかまた頭を悩ます羽目になった。静かな空気に耐えられず視線を外しながらも口をゆっくり動かした。


「……あの」


「……あの」


 とりあえず先日のお礼をと口を開くと蒼弥と声が重なる。驚いて蒼弥を見ると視線がぶつかった。

 薄茶色の優しげな瞳。虎目石のような綺麗な瞳に吸い込まれてしまいそうで目が逸らせない。

 彼も初めぽかんとしていたが、ふ、と小さく笑みをこぼす。それにつられて和花の口元も緩んだ。


「被ってしまいましたね。お先にどうぞ」


「い、いえ……九条様からどうぞ……」


「いえいえ。お先に……」


 譲り合いが始まった。でも全く嫌ではない、心地の良いやりとり。

 終わりの見えない言い合いにとうとう和花はおかしくなって吹き出してしまった。


「ふふふ。いつまで続くのでしょうか」


 口元を手で押さえながら声を出して笑う和花を見て、一瞬目を見開いた蒼弥もすぐに目を細めて笑った。


「本当ですね。果てがありませんね」


 こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

 とても温かくて幸せな気持ち。

 和花はひとしきり笑うと穏やかな表情で頭を下げた。


「では私から言わせて頂きます。先日は素敵なハンカチーフをありがとうございました。きちんとお礼が言えていなかったと気になっておりました。大切に致します」


「こちらこそ色々とありがとうございました。――これ大切なものだと思いまして。お返し致します」


 鞄から風呂敷に包まれた水筒を出す。思い出の品が手元に戻り嬉しさ反面、瞬時に過去の思い出が蘇りそうになる。複雑な気持ちで受け取った。


「……わざわざありがとうございます」


 いつの間にか和花の緊張はほどけていた。久しぶりに笑ったからだろう。身体中がほかほかと暑い。気が緩んだ和花は蒼弥に自然と話しかけていた。


「妹さんの体調はいかがですか?」


「お陰様ですっかり良くなりました」


「それは良かったです」


 なんてことのない日常会話。

 しかし普段家で会話もままならない和花にとっては新鮮だった。

 由紀が淹れてくれた茶を飲みながら机を囲む。


「そういえば、ここは何をする部屋なのですか?」


 蒼弥は興味津々にぐるりと部屋を見渡した。

 簡易的には片付けたが、お世辞にも綺麗とは言えない。部屋は彩豊かな反物や染料、描きかけの着物で溢れかえっていた。

 整理整頓もできない女だと思われそう。消え入りたい思いから目を伏せた。


「ここは私のお仕事部屋です」


 がたん、と椅子から立ち上がる音が聞こえる。蒼弥は何も言葉を発さずに、誘い込まれるように部屋の中心部に躍り出た。それに釣られるかのように和花も不安気に立ち上がる。


「……あの」


 背中を向けられている為、彼がどのような表情をしているか分からない。

 沈黙を貫く蒼弥の背中に不安を抱いた。


「もしかして、ここの着物は貴方が作っているのですか?」


 顔だけをこちらに向け莞爾として笑う。

 予想外の質問にこくり、と頷くと更にその顔を綻ばせた。


「ずっと気になっていました。ここのお店の着物は繊細で美しい。一目見た時から魅了され、ぜひ私の分を仕立てて頂きたいと思っていました」


 着物を仕立てている人がこんなに近くにいるとは思わなかったと、蒼弥は胸が熱くなった。

 少年のように熱く語る蒼弥の珍しい姿に和花は圧倒された。

 九条蒼弥という男は、世間一般には落ち着いていて、実年齢より年上に見られるが、今は別人のようだ。子どものような可愛らしさが垣間見える。

 褒められて素直に嬉しい。和花は頬を緩めながら言葉を発した。


「ありがとうございます。――知っていますか?着物の柄には一つずつ意味があるのですよ」


「意味……?」


「はい。四季の移ろいを表現したり、人の思いや願いを込めたりと。その人のことを思って絵柄を描くのはとても楽しいんですよ」 


 生き生きと和花は語る。

 振り返った蒼弥は明るい和花の表情を見て目を見開いた、そして、勢いのまま和花に近づき、固まっている和花の右手を取り優しく握りしめた。

 手袋越しに伝わる彼の手の熱。

 蒼弥の突拍子のない行動にただただ驚いた。

 自然と二人の距離が縮まり、視線が絡む。

 もしかしたら手を振り解くことも視線を逸らすことも出来たかもしれない。だが、和花の頭は何も考えられなく動けなかった。


「……あなたの素敵な想いがたくさん詰まっているから、こんなに素敵な着物になるんですね。それに、貴方のような美しい人が、この様な美しい物を描けるのですね」


「……」


「もちろん貴方の容姿はとても美しい。けれど、芸術作品は人の心の中を写す。華麗な着物たちは、まさに貴方の心の美しさを写している物だと私は思います」


 我を忘れて熱弁する蒼弥に、羞恥が和花を襲う。

 話が進むにつれ握る手に力が込められる。

 呼吸をしているはずだが、上手く酸素が身体に行き渡らない。

 暑さでおかしくなってしまいそう。

 彼の優しい言葉に溺れてしまいそう。

 薄茶色の瞳に吸い込まれてしまいそう。

 時が止まった気がした。

 幼い頃、両親は大袈裟なくらい褒めてくれていたし、加納家は冷淡な人の集まりだが、その中でも由紀や常連の客も誉めてくれた。

 褒められて嬉しい感覚は今まで一度も経験していない訳ではない。

 それなのに蒼弥に褒められると違う感情に支配された。

 照れ臭さ、恥ずかしさ、温かさ、そして段違いの嬉しさ――

 心臓がばくばくと大きな音を立てている。

 彼に見つめられると蕩けてしまいそうでおかしくなる。でも何故か目が逸らせない。


「そういえばお名前を聞いていませんでしたね」


「……藤崎、和花と申します」


 消えそうなか細い声。自分の名を名乗ったことは数え切れないが、生きて来た中で最も小さな声で名を告げた。


「和花さん。素敵な名前ですね。貴方の作る美しい着物をもっとみたい、あなたをもっと知りたいと思いました」


 上から降ってくる穏やかな声色に顔から火が出そうだった。


「今日は和花さんの事をたくさん知れて嬉しかったです。ではまた」


 上機嫌に去っていく蒼弥を無言で見送る。


 (どうにかなってしまいそう……)


 一人になった途端、両手で顔を覆ってしゃがみ込む。身体に力が入らない。

 鏡を見なくても自分が赤面していることが分かった。

 蒼弥の手のあたたかさ、鼻をくすぐったほのかな香の匂い、間近で見た麗しい顔。全てが和花の記憶に残る。


 (これは……なに?)


 蒼弥に対して抱く感情が何か分からなかった。

 ただ、両親や由紀に抱くものとは違う事は確かだった。

 会いたい。もっと彼のことを知りたい。――嫌われたくない。

 揺れ動く気持ちを落ち着けるように和花は一人深呼吸をするのだった。


 


 

 

 

 

 

 

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