蒲公英と菊 2
蒼弥の仕事がすべで終わり、落ち着いたのは一週間後のことだった。
(やっと片付いた……)
思わずため息が溢れた。
今日中に仕事を終わらすと意気込んで書類と睨めっこをしたものの膨大な量の紙と、後から後からくる新たな仕事に負けてしまった。
文官長室の机に向かいながら、ふと部屋の片隅に置かれた竹の水筒を眺める。
(長らくお借りしてしまった)
そんなことをぼんやり考えながら帰り支度をする。
借りた物をすぐに返さないなんて非常識にも程がある。真面目な蒼弥は自分を責めた。仕事が忙しいなどとこちらの都合にすぎない。これがとても大切な物かもしれないし、必要なものかもしれないのに申し訳ない。
例の水筒を綺麗に風呂敷に包み、革の高級そうな鞄に仕舞い込んで、颯爽と部屋を出た。
「お疲れ様です。あれ?今日はもうお帰りになられるのですね」
「えぇ。この後予定がありますので。すみませんがお先に失礼します」
「お疲れ様でした」
廊下ですれ違う部下たちは、早々と帰路に着く文官長を物珍しげに見た。
早朝から夜遅くまで文官長室で仕事をしている蒼弥が定時に帰るなど珍しい。
「九条さんどんな用事があるのでしょうね」
「どこぞの女性と会うのでは?」
「とうとう身を固めるとか?」
「いやぁ九条さんは……どうだろう」
ひそひそ話す部下の声が背後に届いた。
(私が早く帰ることはそんなにおかしなことなのか……?)
確かに早朝から夜遅くまで仕事をこなしている仕事人間だが、蒼弥とて人である。用事ぐらいあったって何もおかしくないはずだ。それなのに早く帰るだけで逸り立たれるのもおかしな話である。
自分は周りにどのような印象を与えているのだろうかと自問自答した。
正直恋愛や結婚など興味ない。
仲睦まじい両親を見ているから悪いものだとは思わないし、いずれとは思うが、今は仕事が中心の生活である。相手の為に自分の時間を割くことも難しいし、相手に苦労させるのも納得がいかない。
言い寄ってくる女性はごまんといるが、その気になれないのも一因だ。
(早く行かねば)
日が傾きかけている帝都の街を急ぎ足で進む。
「あの方素敵……」
「とっても男前ね」
「あれ?あの方九条家の……」
「あ!そうよ!」
これから飲みに行くであろう集団や仲の良い恋人など陽気な人々とすれ違う。人とすれ違うたびに自分へ視線が向いていることがいやでも分かった。
街を歩けば麗しい容姿に向けられる憧れや嫉妬の眼差し。職場である宮廷を歩けば九条家の息子として向けられる目。
生まれ持った羨ましい程の美貌と九条家の名のせいで、蒼弥は幼い頃からどこにいても注目の的になった。
異性からのうっとりした視線や言い寄られた時はにこりと微笑を浮かべれば大抵は思う通りになった。惚れ惚れとこちらを見る人々には愛想を振りまいておけば良い。
同性からの嫉妬や妬みは自分の落ち度を少し見せ、相手を褒めて解決させる。女同士のいざこざはに巻き込まれた時はお互いの話を聞き、間に入ってどちらも気が良くなる言葉を掛ければ良い。
蒼弥は、自分がどのように立ち振る舞えば丸く収まるかを理解しているつもりである。
人と良好な関係を結ぶことは仕事をする上でも普段からでも都合が良い。面倒臭いいざこざを起こさず、穏便に人と関われるように穏やかな笑みを常に浮かべていた。
もう閉店したというのに加納屋には明かりが付いていた。
(まだいらっしゃるだろうか?)
表戸を叩き声を掛けようとした蒼弥の背後から女性の高い声が聞こえた。
「申し訳ございません。本日はもうお店は終わっておりまして……何か御用でしょうか?」
振り返ると小豆色の色無地を着た年若い女性が不思議そうにこちらを見ている。
見た感じ使用人か従業員だろう。手にはお椀の乗ったお盆を持っている。
突然現れた蒼弥に少々警戒しつつもその美貌に目を見開き、若干頬を赤らめた。
「突然申し訳ございません。私九条と申します。こちらにいた女性の方に用がありまして……」
「……女性の方ですか?」
蒼弥の言葉に一気に熱が冷めたようだった。頬の赤みが引き、困惑した表情で蒼弥を見る。
「女性と言われましても、この店には女性が数人おりますので、どの方なのか……」
加納屋の従業員、それからたまに出入りする加納家の使用人は女性しかいない。合わせて二十人の中から一人を探すには特有の何かを持っていないと難しいだろう。
「一週間前にこちらに寄らせて頂き、具合を悪くした妹の為にお水やお薬を頂きました。その時に出てきてくださったのが、亜麻色の髪を一つに結えたお綺麗な方でして、その方にこちらをお借りしました。お名前を聞きそびれてしまいまして……」
「亜麻色の髪……」
特徴的な髪色と革の鞄から取り出された水筒を見た女性は「あ……」と小さく声を漏らした。
見覚えのある竹製の水筒。これが誰の物かすぐに分かった。だってこれは女性が――由紀が戸棚に隠したものだから。
紗栄子に捨てられたこの水筒をこっそり取って洗い、誰も開けないであろうあそこに隠していたのだ。
「和花さんの水筒……あっ……」
無意識に自然と彼女の名を口にしていた。口元を手で覆う。
「和花さんのお知り合いの方ですか?」
何故か周囲を見回し、声を潜めて遠慮がちに尋ねる。
知り合いというわけではない。会ったのは一度きりだし、名前も今初めて聞いた。
だが、由紀の様子から本当のことを言えば会わせてもらえないような気がして咄嗟に嘘をつく。
「はい。彼女には九条と告げれば分かるかと思います」
九条の名は時に人の気を張ってしまうことがある。あの日も名乗ろうか迷ったが、名乗っておいて良かったと今ここにきて思った。
「かしこまりました。知らせてまいりますので少々お待ちください」
「よろしくお願い致します」
一人残された蒼弥は加納屋を改めて見た。
年季が入っている店舗や看板。少し古い印象も見受けられるが、隅々まで手入れが行き届いている。
名家がこぞって仕立てを頼むと耳にしたことはあるが、蒼弥を始め九条家の人々は別の呉服屋を贔屓にしている為、注文をしたことはなかった。
しかし、この前訪れた際に見た梅柄の着物は上等品だった。
あんなに繊細な美しい着物は初めてだった。
宮廷にて勤務し、帝や皇后様など位の高い方々の煌びやかな衣服をたくさん見ている蒼弥だったが、それにも負けず劣らずだと感じた。
ただ純粋にこの着物を手掛ける人が気になる。
あわよくば、新調する予定の和装を仕立ててもらいたい。
蒼弥の中で新たな欲が渦巻いた。
「お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
あれこれ考えているといつの間にか由紀がこちらを凝視していた。
「ありがとうございます」
二人は明かりが灯る店内へ足を運んだ。