序章
「お前は俺の婚約者だが、お前には少しも興味がない。何をしようが勝手だし、他に好きな男を作ろうがどうだっていい」
氷のように冷たい声が頭上から降ってくる。
畳の上で礼儀正しく正座し、頭を深々と下げる藤崎和花を見下ろす男――加納直斗の目には光が宿っておらず、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
二人きりの部屋は水を打ったような静けさに包まれる。
彼がどのような感情でこんなことを口走ったのか、和花にはよく分からない。ただ、自分に対して強い嫌悪感を抱いていることは確かだった。
先程まで婚約の祝いで彼の両親と四人で食事をしていたが、その時も彼は祝いの席だというのに口を聞かずに黙々と目の前の食事に手を伸ばしていた。
この部屋に移動し、二人きりになった途端、彼は豹変してしまった。失言が止まらない。
「かしこまりました」
動揺するわけでもなく、上品な佇まいで頭を下げる和花を見て、直斗は面白くなさそうに更に顔を歪めた。
和花は今日からこの男の婚約者となる。
愛の無い、形だけの婚約。
互いの家の利益だけの為に結んだ婚約。
両親から有無を言わさず婚約させられ、それを良く思わない直斗は和花に辛く当たるのだった。
しかし和花は何を言われようが、無視されようが、何の感情も湧かなかった。怒りも、寂しさも、虚しさも……
和花にはどうしても婚約しなければならない理由がある。その約束を守るためにここにいるのだから、直人が和花に対してどう思っているかなんて正直どうでも良いことだった。
八畳の部屋には丁寧に二人分の布団が隣同士で敷かれている。この家の誰もが、今晩から寝室を一緒にするものだと思っていたが、どうやら彼本人は違うらしい。忌々しそうに布団を見た。
「この部屋はお前が使え。俺は自分の部屋に戻る。金輪際、寝食を共にするつもりはないし、俺に干渉することも許さない」
「はい」
恨み辛みの篭った、冷めた物言いにも屈することなく、視線を落としたまま返事をする。
和花の視界には青みがかった緑色のい草が広がっていた。
「……婚約などしたくなかった」
和花に背を向け、捨て台詞を吐くと、ピシャリと勢いよく襖を閉めて出ていった。
直斗の足音が遠ざかると、ゆっくり頭を上げ大きく息を吐く。息が詰まりそうだった和花は一人になってやっと呼吸が楽になった。
「初日からすごい嫌われようね……」
良く思われていないことは理解しているつもりだった。ただ、こんなにもあからさまに態度に示されると流石の和花もほんの少し挫けそうになる。
ふと横を向くと大きな姿見に正座をする自分が映る。
これからの幸せを願って母が用意してくれた桃花色の、優しい色合いの打掛を身に纏った自分、
四季折々の小さな花々が丸く連なって咲き誇る――その華やかな意匠が、かえって和花の心の静けさを際立たせていた。
婚約というめでたい日にふさわしいはずの一枚。
――しかし
(私には分不相応ね)
鏡に映る自分に思わずため息が出た。
晴れやかな打掛を身に付けているはずなのに、今の和花の表情は全くといって良いほど晴れやかではない。明るい色の打掛とは対象に和花の心は深海の底のような、深い深い青い色をしていた。
(でも私が……)
自分の右手を眺める。
右手には繊細なレースが施された高価な白色の手袋が嵌められている。
母からもらったお気に入りのお守りのような手袋。
自分を奮い立たせるように手を握って力を込めた。
(私が頑張らなくては)
明日からの生活を心許なく思いながらも、ここで生きていく他ないと自分に言い聞かせるのだった。