プロテイン 割れた腹筋の向こう側
「…よし、これで良し、と」
トレーニングジムに設置された、大型の全身鏡の前で、俺は静かに、しかし確かな重みを持つダンベルを床に置いた。床が、僅かに軋む。
そこに映るのは、見事なシックスパック…いや、それ以上の、もはや芸術的とも言える、完璧に割れた腹筋。溝の一つ一つが、まるで彫刻刀で削り出されたかのように深く、陰影に富んでいる。
鏡の中の自分自身に、思わず、ふっと笑みがこぼれた。
「ふぅ…我ながら、見事な筋肉だ…」
そう、人呼んで、腹筋 シックス ザ 割男。それが、この俺だ。
しかし、我ながら、良い名前をつけてもらったものだ。元の世界じゃ、「筋肉ドクター」なんて呼ばれて、揶揄されることもあったが、まさか「シックス」なんて、神の領域を思わせるミドルネームを頂戴するとは。しかも、「ザ」付きだ。「ザ」付き!
「おい、シックス。いつまで鏡見てんだ。患者さんが待ってるぞ」
背後から、聞き覚えのある、そして、どこか呆れを含んだ声が響く。声の主は、筋骨隆々…を絵に描いたような、いや、それ以上に岩のようにゴツゴツとした、ドワーフのガンガンだ。この異世界、アルカディアで、俺の「筋肉医療」を手伝ってくれている、頼もしい相棒…なのだが、いかんせん、この男、筋肉に関しては、俺以上に暑苦しいところがある。
「すまんすまん。つい、自分の筋肉に見惚れてしまってな」
「たく、相変わらず、筋肉バカはしょうがねえな」
呆れを隠そうともしない、ガンガンの言葉に、俺は苦笑いを返す。
「筋肉バカとは失礼な。筋肉は全てを解決…するとは、さすがに俺も言ってないぞ」
「言ってなくても、思ってるだろ」
鋭い、的確すぎるツッコミ。ぐうの音も出ない。
「む…まあ、否定はしない」
実際、この異世界に来てから、筋肉が役に立った場面は数知れない。モンスターとの戦闘はもちろん、医療行為においても、この強靭な肉体は、大きな武器となっている。
「それにしても、ガンガン。お前、いつからそこにいたんだ?」
「ああ?俺は、さっき来たばっかだ。…が、お前さん、もう30分は鏡の前で、自分の筋肉と睨めっこしてるぞ」
「……なんだと?」
ガンガンが、呆れたようにため息をつく。
「ったく、この筋肉ナルシストめ…」
「なっ…!誰が、ナルシストだ!」
「じゃあ、なんだってんだ、そのニヤケ顔はよ」
「これは…その…なんだ、筋肉の成長を確認していたというか…」
「はいはい、言い訳は結構。さっさと行くぞ」
全く、このドワーフは、口が悪い。
そんな軽口を叩きながら、俺は、はち切れそうな白衣…ではなく、特注のタンクトップを身にまとう。はち切れそうな胸筋、力こぶが際立つ太い上腕二頭筋、そして、波打つような背筋が、露わになる。
「よし、行くか」
「おう」
俺とガンガンは、並んで診察室へと向かった。
俺、腹筋 シックス ザ 割男は、元はといえば、地球という星の、日本という国で、外科医として働いていた、ごく普通の人間だった。
しかし、ある日、俺は、文字通り「突然」このアルカディアへと転移してしまった。原因は不明。神の気まぐれか、はたまた、俺の筋肉が強すぎたせいか…。今となっては、確かめる術もない。
(…あの時、俺は確か…)
不意に、転移する直前の光景が、脳裏に蘇る。
あれは、確か、木枯らしが吹き始めた、晩秋の頃だったか。
その日、俺は、大学病院での、いつも通りの長い1日を終え、帰路についていた。目的は、近所のスーパーでの、特売品の鶏胸肉1kgの購入だ。
「ふんふふ~ん♪」
俺は、上機嫌で、鼻歌交じりに歩いていた。今夜のメニューは、鶏胸肉のステーキ、ガーリックバターソースだ。想像しただけで、腹筋が喜びの声を上げている。
「あの特売品の鶏胸肉は、柔らかくて、ジューシーで、実に美味いんだよな…」
俺は、思わず、生唾を飲み込んだ。
「…ん?」
その時だった。俺は、ふと、違和感を覚えた。
「…あぶない!」
交差点の向こう側、幼い女の子が、母親と繋いでいた手を離れ、ふらふらと車道に飛び出したのだ。彼女の小さな手には、真っ赤な風船が握られていた。そして、その風船が、まるで悪魔の誘いかのように、風に乗って、ゆらりゆらりと、車道の中央へと流されていく。
「あ!風船さん、待って~!」
幼い女の子は、その風船を追いかけようと、さらに車道へと足を踏み入れようとしていた。
「危ない!!」
次の瞬間、大型トラックが、けたたましいクラクションを鳴らしながら、その小さな命を目掛けて、猛スピードで突進してきた。
周囲の人間は、恐怖に凍りつき、ただ、その光景を、呆然と見つめるだけだった。母親と思わしき女性は、顔面蒼白になり、その場にへたり込みそうになっている。
しかし、その時、俺の体は、考えるよりも先に動いていた。
「間に合え…っ!!」
俺は、無我夢中で、駆け出していた。まるで、ロケットスタートを切ったスプリンターのように。
(そうだ、俺は…あの女の子を助けようとして…!)
そして、俺は、女の子の小さな体を、力強く抱え上げ、歩道へと放り投げた。
「しっかり!」
女の子の母親が、間一髪で、その小さな体を受け止める。しかし、俺自身は、トラックを避けきることができなかった。
「…っ!!」
強烈な衝撃。全身を貫く、激痛。そして、俺の体は、まるで、人形のように、宙を舞った。
「健太!!」
遠くで、誰かが、俺の名前を叫んだ気がした。
(あぁ…エターナル・ホライゾン…やりたかったな…)
激痛と、急速に薄れていく意識の中で、俺は、なぜか、そんなことを考えていた。最近ハマっていた、VRMMOゲームの新作。発売を楽しみにしていたのに…。
そして、俺の意識は、完全に闇に呑まれた。
(…ここは、一体…)
次に、俺が意識を取り戻した時、最初に感じたのは、全身を包み込む、柔らかな光だった。まるで、母親の胎内にいるような、安心感と、温もりに満ちた光。
(俺は…死んだのか…?)
しかし、それにしては、妙に、体が重い。そして、何よりも…
(なんだ…?この、筋肉の…「圧」は…)
まるで、俺の体の中で、何かが蠢いているような…そんな、奇妙な感覚だった。
ゆっくりと、目を開ける。
最初に視界に入ってきたのは、見慣れた病院の無機質な天井ではなかった。
俺の視界を埋め尽くしたのは、どこまでも広がる深い緑。青々と茂る巨大な樹木の葉が、まるで天蓋のように、俺を覆っていた。
(ここは…どこだ…)
全身に感じる、鈍い、しかし確実に存在する痛み。まるで、何時間もハードな筋トレをした後のような、心地良い疲労感にも似た感覚だ。しかし、それ以上に、俺を支配していたのは、この、異様なまでの「筋肉」の存在感だった。