新しい力
仮声帯とは、人間の声帯の上に存在する器官だ。この仮声帯には発生機能はなく、主に異物の侵入を防ぐ弁の役割のようなものを持っているという。
そしてボイスパーカッション、ビートボックスの技にはこの仮声帯を閉じ、振動を与えることによって声にノイズを乗せる技が存在し、それを喉ベースと呼んでいる。某動画配者の有名なあいさつに使われるあの声もその技を使っている。
だが俺が今からやろうとしている技はそれじゃない。
「すぅ」
息を吸う。そして、その息を仮声帯にぶつけ振動させる。つまりは吐くのではなく、吸った息で仮声帯を振動させる通称インワードベース。これは超超超高難易度の技で習得に何年も掛かる人がいるほどだが――
「grrr……な、鳴った!」
その音を例えるなら魔物。もしくは地の底から聞こえる悪魔の声か。インワードベースは普通の人間では絶対に出すことが出来ない極低音が出すことが出来る。そしてこの音は振動の粒を細かくすることによって奇妙な高音に変化させることも可能だ。
俺はそのまますぐにビートの構築へ入る。
目下一番の目標は――メリヌの魔力だ。
これが何度も回復できてさえしまえば『シャークブロウ』の制限を気にせず一瞬にしてこの場を片付けることが出来る。
仮説。もし、吟遊詩人のバフの種類は『楽器』により決まるのでなければ、何で決まるのか。
これは七割ぐらいの確率で『ジャンル』とか『bpm』や『雰囲気やイメージ』なんじゃないかと思う。何故ならドラムンベースのアップテンポとノリ具合は確かに肉体強化に繋がってもおかしくないと思えてしまうからだ。
……魔力回復。体力じゃない。体力だったら少しゆっくりで、チルな感じ。回復のイメージにはスローテンポだが魔力はなんというか俺の手に届かないところというか。でもやっぱり魔力は精神的なものだからテンションは上げられるものがいいか?
まずはインワードベースから入る。攻撃的で暴力的だが少し怪しい雰囲気を足す。bpmは上げない。電子音っぽくしてゆっくりノレるような……。
「オイ! 目閉じてる余裕なんかねぇだろヒイロ!!」
Aメロはゆっくり。鼻歌とノーワードの技を同時に出してアンビエントな雰囲気を出す。よしよし、いい感じだ。ノーワードの鼻歌と同時出し出来るのがいいところだ。
「ヤバいぞ! 悠長に歌ってねぇでそっから早く動け!」
Bメロにはハンドクラップを入れて期待感を増させる。ここで少し高いインワードベースを混ぜ、
「クソ、あぶ…………チックショウが!!」
一気に音圧を上げ、爆裂に低いインワードベースを使ってサビは落とす!!!
「吹っ飛びやがれ! 『シャークブロウ』!!」
目を開けると、飛びかかってきた一匹の巨大ゴブリンが体をくの字に曲げ吹き飛んでいくところだった。
「ヒイロお前ェ! 何してやがる! これで私の魔力は………………アレ」
最後の一発。魔力を使い切ったメリヌの体は足の先から頭の先、そして俺の胸元を掴む細い指まで晴れの日の空のように澄んだ水色に覆われていた。
「魔力が……これ、まさか……ヒイロ!」
俺は喋れないので必死に頷くことで意思を伝えた。どうやらうまくいったらしい。
何度もサビ部分を繰り返すたび、メリヌの体が発光していく。
「う、うぉおおおおお!? 一気に全回復!?」
メリヌは信じられない、といった様子で俺の顔を見る。
「ま、魔力が回復はウィスクエスの大聖女すら無理だって…………いや、今はそんな細かいことどうだっていい」
メリヌはギザ歯を見せつけるように笑ってからちょっとだけ悪そうな表情を浮かべる。
「ヒイロ。肉体強化とシャークブロウの回数が切れたらすぐにその魔力回復を交互に頼むわ。多分、一分掛からねぇぜ!」
俺が親指を立てると、メリヌは地面を蹴って砲弾のように飛び出していった。
その後、戦闘はメリヌの見立ては外れ、なんと三十秒も掛からずに終わった。合計七回放たれた連続シャークブロウの前に立っていられる魔物など誰もいなかったからだ。
◇◇◇◇◇◇
『ウガルゥゥウ……!!』
木の幹が二つ不自然に折れ曲がたった中に描かれた円の中、薄い紫色の膜が広がっており、禍々しい雰囲気とともに一定間隔で心音を打ち、その度に膜が揺れる。
あれが正真正銘の門。こちらの世界とバルコニーを繋ぐ災厄の元凶だ。
その前に、先ほどデコイシールドに釣られた巨大ゴブリンより小さな体躯ではあるが、その肉体の中にはこれでもかというほどに筋肉が詰まった危険な雰囲気を醸すゴブリンが立っていた。
「……ふん。そこそこ強そうなナリじゃねぇか。おい! お前らイケるな?」
「お、おう! 勿論だ」
「リナ……お前は?」
「え!? あ、うん……だ、大丈夫……」
「ったく。お前らもジニーみたいに使えなかったら仲間から外すからな。気合い入れてけよ」
ガハハ、とミステマは豪快に笑うが、他の二人の笑顔は心なしかぎこちない。
「うし、それじゃあいっちょやるか。アイツを倒しさえすりゃ、門は破壊したも同然だ。一分以内に片付ける」
ゴキ、とミステマは首を鳴らし、リナと呼ばれるヒーラーに持たせていた予備の剣を引き抜いて盛大に決めポーズを取る。
「そこを動くなよクソゴブリン。俺ァイライラしてんだ。お前を殺した後にあのクソガキどもを逃がさ――」
「――『シャークブロウ』!」
『グギィアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』
頬の横。一陣の風が吹き抜ける。
その瞬間、目の前が盛大に爆ぜ、筋骨隆々のゴブリンはまるで石ころのように吹き飛ぶと、森の奥にあった川の水を切りながら、崖に向かって思い切り叩きつけられる。
そして先ほどまでゴブリンが立っていた場所には、あの忌々しい少年少女たちの姿が。
「ぐ、な……なんだと!? お前らあいつらを見捨てたっていうのか!? それじゃなきゃこんなに早く追いつけねぇはずだ! この薄情者どもがァ!」
「お前ェにだけは言われたくねぇわこのクソカス!」
べー、とメリヌはギザ場の間から短く舌を出す。
「お前が呼んだ魔物は全部片づけたんだよ。そんであの人たちと……そうだ! あとお前がぶん投げたあの男もついでにシジの街に戻って救護施設に叩き込んできてやったんだ。感謝しろよ!」
「ジ、ジニーも助けてくれたのか!?」
「貴方たちは恩人よ!!」
「テ、テメェらうるせぇぞ! 誰の許しを得て勝手に喋ってんだ!!」
おかしい。怒鳴りながら、ミステマの心の中に疑問が浮かんだ。
亜人は体内魔力が低い。打てるスキル数はかなり少ないはずだ。ミステマが見ていた『シャークブロウ』は確かに威力は凄いが、多く見積もってまだ新人冒険者であるメリヌは五発撃てれば上々といったところだろう。
しかも魔物が集まる前に一回使っていたはずだ。あそこに集まった魔物を四回以内に片付けられることなど――
そこで、ようやくミステマは気づく。
メリヌの後ろにいる少年。その少年の口から漏れる不思議な音の数々。それが織りなすリズムやメロディが先ほどとは違う。と思えばリズムが元に戻ると同時、メリヌの体を包むオーラが澄んだ水色から薄い緑色に変わる。
「まさか……あのガキ……」
あのメリヌの身体能力。そして"魔力回復"をしたとしか思えないこの状況。
――あり得ねぇ。筋力強化は百歩譲って発動できたとしてやる。だが魔力回復なんてもの吟遊詩人如きが使えてたまるかってんだよッッ!
ミステマの顔が瞬間的に赤く染まっていく。その色は見た者にとって鬼をも連想させるほどの色に見えるだろう。
「ふざけんな……んなこと、あり得てたまるかァアアアアアアアア!!」
体に込めた魔力を爆発させ、スキルを多重発動させたミステマの体が爆発的な加速を得る。飛び上がったその巨躯が彗星のような軌道を描き、あっという間に門へ飛びかかる。
あまりの一瞬の出来事に忌々しい少年少女は全く反応できていなかった――わけではない。
気づく。
遅すぎる。自分の身体にいくらスキルを重ねて突進したところでこのスピードは先ほど対峙したメリヌの半分もない。
なら、普通は反応できるはずだ。それなのに、なぜ?
答えは簡単。二人はすでに、ミステマなどを見てはいなかった。その視線は――門。鼓動を打っていた膜の奥、その膜に男の顔のようなものが押し付けられ、今にも破れん限りに伸びきっている。
視線の主と目が合った。
「……ぐ、はぁ?」
その瞬間、ミステマの体は細長い口に体を貫かれていた。
「な、なんだこれ……」
そして瞬きするよりも早く、目や鼻、口から飛び出した老婆のようにしわがれた枝のような『手』が飛び出し、一瞬にしてミステマの体は粉々に砕け散り、真っ赤な血の雨を噴き出す。
そしてその血と肉は、門の中の何かに吸い込まれるように消えていく。そしてその間、まるでまだその肉片に意思があるかのように、その一帯にはミステマらしき男の許しを請う声と、痛みに悶絶する叫び声が木霊していた。