第三話 最初の授業(レティシア)
わたしは黙って先生を見つめていた。
わたしが、先生を不機嫌にしているのは確かだった。
あきらかな負の感情を向けられ、わたしはどうすればいいのかわからない。
何かの本に、自分に非があるのなら素直に謝るべきと書かれていたのを思い出し、何が悪いのかはわからないけれど、謝ることにした。
「ごめんなさい」
「何に対する謝罪でしょうか?」
そうだ。他の本には、無闇に謝るのは良くないと書かれていた。
「先生が……」
わたしは、どう弁解すれば良いかわからず言葉を濁した。
「あなたは、私のことを先生と呼ぶのですか?」
先生が首を傾げた。
「間違いでしょうか……では、なんとお呼びすれば?」
「私が勝手に、この家の使用人と同じように呼ばれるのかと思っていただけです。どうお呼びいただいてもかまいません」
表情が少し和らいだ気がした。声も先ほどまでよりは優しい。
「それならば、先生とお呼びします」
先生は「どうぞ」と、一枚の紙をわたしの前に置いた。
「テスト……ですね?」
アカデミーが舞台の小説で、仲の良いもの同士がテスト勉強をする場面があった。
わたしは嬉しくて、思わず、紙を抱きしめそうになった。
「何がそんなに嬉しいのですか?」
「テストに憧れていたので」
先生は少し驚いた表情をした後で、「とりあえず、問題を解いてください」と、手のひらで、紙をさし示した。
帝国の歴史に関する問題だった。
初代皇帝や、その当時の帝都の名前が空欄になっている。歴史書は好きで何度も繰り返し読んだ。
わたしは、羽ペンの先をインク瓶につけた。
一文字目が滲んだけれど、読めなくなるほどではなかった。次々と、空欄を埋めていく。
問題は、600年以上続く帝国の歴史の中で起こった主要な事件や自然災害、周辺国との大きな戦争など様々だった。
現在、大陸でまだ帝国の統治下にない国については、特徴や位置を記述するよう求められていた。
わたしは夢中で回答していた。
ふと、顔を上げると、先生と目があった。先生が目を見開いたあとで、「まだ、少し残っていますよ」と、言った。
回答し終わり先生に紙を渡そうとすると、「すべてあっています」と言われた。
「先生が易しい問題にしてくださったから……」
「易しく作った覚えはありません」
先生がそう言ってくれたのは、きっとわたしにやる気を出させるためだと思った。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、先生がなぜかわたしから目を逸らした。
「今日は、間違った箇所を解説するつもりでいたのですが、必要なさそうですね」
正解してしまったせいで、授業は終わってしまうのだろうか。わたしは、少し間違えればよかったと思った。
先生が「時間はまだあるので、いくつか質問をしても良いですか?」と、話しかけてきた。
「わたしに、答えられるでしょうか?」
「問題を出すわけではありません。今後の授業を計画するにあたり、少しあなたのことを知っておく必要を感じたのです。私が思っていた以上に、あなたには知識があるようです」
わたしも、先生のことが知りたかった。わたしが質問にちゃんと答えたら、教えてもらえるかもしれない。
わたしが了承すると「では、早速」と、先生はわたしの顔をじっと見つめてきた。緊張が増して、また鼓動が速くなった。
「私の家の者は、侯爵家から大変懇意にしていただいていますが、誰も、あなたとお目にかかったことがありません。あまり、社交の場に出ないのですか?」
わたしは、最初の質問から答えに困ってしまった。社交の場とは、本で読んだ、お茶会や舞踏会を指すはずだ。
社交の場に出たことがないではすまない。先生に本当のことを話して、嫌われはしないかと心配になった。
「心配しなくても大丈夫ですよ。私はここで知ったことを外で口にはできません。『箝口の魔法』がかけられていますので」
『箝口の魔法』は本で読んで知っていた。ここのことは、魔法をかけてまで守らなければならない秘密のようだ。
「わたしは、社交の場だけでなく、この塔から一度も出たことがありません」
「一度も?」
わたしは頷いた。
「どうして……」
わたしも、なぜ自分が塔の中にいるのか知りたかった。
「あるメイドから、生まれてすぐに、ここへ移されたと聞きました」
うっかり口を滑らせたのはアンヌだったが、罰せられるといけないので、名前を伏せた。
「ここに隠されている理由はわかっていますが、一度も出さないというのはあまりにも……」
「先生は、理由をご存じなのですか? 教えてください」
先生は口元に拳をあてながら、しばらく、考え込んだ。
「間違ってはいないはずですが、私からお話しするのは、やはり問題があるかと」
「どうしても、ダメですか?」
「はい、差し控えたいと……申し訳ございません。私が軽率でした」
わたしは、先生を困らせて嫌われてはいけないと思い、いったんは諦めることにした。
「次の質問です。私より前に、家庭教師はいたのですか?」
「いえ、先生が初めてです」
先生は、眉根を寄せながら、わたしをまっすぐと見つめた。
「では、知識はどのように身につけたのですか?」
「本を読みました。ここでは、他にすることがないので……」
わたしの答えを聞いて、先生は、目を閉じ深いため息をついた。
「あなたがいかに不幸な境遇にあったとしても、私には関係のないことです」
「不幸……」
母や乳母から、時折、哀れむような目を向けられはしたけれど、わたしの境遇を不幸だと指摘した人はいなかった。
「わたしは、やはり、不幸なのですね」
急に、こみ上げるものがあり、目から涙があふれ出した。自分が不幸なのは、塔から抜け出そうとした時からわかっていた。
いつしか、目を背けていた。
「泣いても、何もかわりません」
先生は怒ったような声で、そう言った。