第1話 「落ちる」
「改めまして、私たち……」
「お話大好き!」
「みんなが大好き!」
「口から生まれた」
「おしゃべりアイドル!」
「Lipp'inガールズでした! ありがとうございました!」
「まったねーっ!」
舞台の上に立つ推しは、今日も驚くほどに尊い。スカートが短くて可愛いとか、生まれてこの方モテたことのない自分にも優しく接してくれるとか、そんな下心はもはやそこには存在しておらず、俺は一心不乱にペンライトを振った。
それはまさに信仰のひとつだった。
舞台袖にはけていくメンバーが客に手を振っている。〝みゆん〟はいつだって、この俺をきょろきょろと探して手を振りながらにっこりと笑ってくれる。
それだけで次のライブまでの2週間を万全の体調で過ごすことができるのだ。それはよもや魔法と呼べる代物だ。
このあと行われる物販で特典のもらえる1万円以上の買い物をせずにはいられない。
……はずだった。
だが、その日はなぜか、なかったのだ。その聖なる魔法が。〝みゆん〟の特別な微笑みが。
舞台の上でリーダーの〝きりえ〟としっかり者のメンバー〝あーちー〟が物販の説明をしている後ろで〝みゆん〟は客全体に手を振っていた。そしていつものように俺の姿を見つけると――――ふいと目をそらして、そのまま舞台袖へと消えてしまったのである。
……な、なんで……?
今年で28歳になる男の心は、それだけでみっともないほどに打ち砕かれる。おかしい。そんなはずはない。前回の定期公演の時だって、その前のお祭りの特設ステージでだって〝みゆん〟はちゃんと俺のことを見て手を振ってくれた。
おしゃべり大好きアイドルの彼女たちは普段から生配信やチェキ会、あるいはワンマンライブの特典会などで他のローカルアイドルよりも多くファンとやりとりをしてくれることが売りのアイドルだ。
もちろん、既にチェキだけで100枚以上(1枚につきなんと2分も喋ることができるので、これだけで3時間以上)溜まっている俺が忘れられたなんてはずはなく、原因は全く持ってわからない……。
「み……みゆん……」
体調が悪かったのだろうか。いや、身体は華奢だがそんなことを言い訳にするほどヤワじゃわない。
だとすれば、俺が気に障るようなことをしてしまったのだろうか。思い起こせば昨日は新メンバー〝かのん〟の配信で定期公演の景気付けにとそこそこ高額の投げ銭をしたが、それは〝みゆん〟の配信が仕事で見られなかったからこそ投げたものだ。
そもそも、俺が〝みゆん〟担であるのはメンバーも承知で、ランダム特典(ランダムで選ばれたメンバーにその人のピンチェキを手渡ししてもらえる)では「みゆんじゃなくてごめんなさい」と言われてしまうほどなのだ。
もちろん、Lippin'ガールズのことは箱推しでもあり、誰に手渡されてもうれしいのには変わりないのだが……。
「み、みゆん……」
俺はその場で一人呟く。彼女は天然なところがあるからうっかり忘れていたのかも。何しろ今日だって新曲の歌詞を飛ばしたのだ。
むしろあとでチェキ撮影の際に何か言ってくれるかもしれない。そうだ。そうに違いない。
半ば無理やり自分を納得させ、念のためおろしてきた金をすべて使い果たす覚悟を決めて俺は物販が開始するのを待った。ファンたちは会場内で撮影可能タイムに撮った写真データを見せ合ったり、今日のライブの感想を言っていたが俺はそんな気分にはなれなかった。
「お待たせしました〜!」
盛り上げ上手なサブリーダー〝かなかな〟を先頭にメンバーが会場の特設ブースに戻ってくる。メンバーは衣装の上に各メンバーカラーのTシャツを着ており、その中には〝みゆん〟のカラーであるグラスグリーンが…………。
「いない?!」
俺の声に反応するように、会場内の50人近い男たちがどよめく。
「あっ、あの……みゆはちょっと――」
「メンバーの相原みゆですが、今回は大変申し訳ございませんが体調不良により物販はお休みとさせていただきます。えー、本人は大変元気と言っているのですが、少し張り切りすぎたようで……ただの脱水症状だと思われますが、今回は念のため不参加とさせていただきます」
リーダー〝きりえ〟のことばを遮ってスタッフが淡々と説明する。だが、ファン歴2年の俺にはわかる。それは嘘だ。
体調を崩しても元気だなんていかにも〝みゆん〟が言いそうなことだが、彼女にとってライブはそんなに簡単なものではない。
今日のため、ライブのために彼女が体調管理を徹底しているのは配信を見ればすぐにわかるし、〝きりえ〟をはじめメンバーの顔色もどこか心配とは違っている。
素直な女の子たちに嘘をつくのは無理だ。
みゆん……。
気がつくと俺は会場の外に出ていた。
彼女たちは北関東のローカルアイドルで、定期公演も北関東の某市のライブハウスで行われている。外に出ると地方都市特有の低いビルと廃れたシャッター通りが見える。
「みゆん……」
そこに彼女の姿はない。
振り返るとそこにはライブハウスの看板が寂しげに掲げられているだけだ。
【ライブハウス グレアロック】
そのとき、どこからか微かだが声がした。
「……リオンさん」
搬入口と書かれた看板の向こうからだろうか。小さな声は俺の名前を呼ぶ。本名の利雄をもじってつけたSNSのアカウント名で、メンバーやファン仲間からはリオンとして認識されているのだ。
「その声は……!」
そしてもちろん、〝みゆん〟もまた、俺のことをその名前で呼ぶ。俺は路地から建物の反対側の搬入口に駆け出した。
そこにはLippin'ガールズのロゴが貼られたミニバンが停められており、人の気配は全くなかった。
「……リオンさん……! ……て!」
だが、声は確実に聞こえてくる。やはり間違いなく〝みゆん〟の声だ。
「……けて! リオンさん……!」
搬入口は楽器などを持ち込むためか、鉄の重たくて大きな扉になっており、声は確実にその向こうからしている。どうして俺を呼んでくれるのだろうか? そしてなんと言っているのだろうか?
思い切り扉を開き、その向こうの暗がりに飛び込んだ俺の耳に再び〝みゆん〟の――最推しの声が届く。
「助けて! リオンさん。助けて――!」
明かりがついていないのか、扉な向こうは真っ暗だ。そう思ったそのとき――! 突然足元の床の感触がなくなり、まるで何者かに脚を掴まれたかのように俺は闇の中へと引き摺り込まれた。
「うわぁぁああっ!」
開けっ放しの扉から漏れる外の光は、あっという間に遙か頭上に消え、それでもなお俺の身体は暗闇を滑り落ちてていた。
一体何がどうなっているのだ……。
だが、俺の心には恐怖などなかった。〝みゆん〟の声は確実にこの闇の奥から聞こえてきたのだ。それも俺の名を呼ぶ声だ。
彼女がその名を呼ぶのなら、俺はどんなところだって行くだけだ。どんなに険しくとも、どんなに暗くとも、それが正しい道なのだ。
「みゆん……!」
俺はバッグの〝みゆん〟のアクキーに手を触れた。
次の瞬間、滑り落ちていた俺の身体がどこかに放り出されて、身体がふわりと浮いたかと思うと地面が目の前に迫ってきて、頭を強かにぶつけてしまった。
次に霞む視界の中見えてきたのは俺の手の中収まる〝みゆん〟の尊い姿。みゆん、君が求めてくれるのなら……必ず助けてみせるからな…………。
俺は声にならない声でそう誓いながらも、気を失ってしまった。