二つの宝物
「エドリック様。少し前の私の身体と、今の私の身体……比べてどう思いますか?」
エドリックが裁判官を辞してから約四カ月が過ぎた、ある晩の事だった。いつものようにフローラを抱くつもりで彼女の寝巻の紐をほどくと、フローラは眉を下げながらそう聞いてきたのだ。
質問の意図がわからずきょとんとしてしまったが、何か変わったかと考えながら紐を外した寝巻をそのまま滑らせる。相変わらず、絹のようなすべすべの白い肌。女性らしい柔らかさ……特に何かが変わったようには思えない。
「特に、気にならないけれど?」
「嘘です! 私、最近お腹が気になりまして……。よく思い出してください。数カ月前と比べたら……」
フローラはそう言いながら、両手でお腹を押さえるようにする。その手の隙間から覗いた臍に興奮しているなんて事は言えそうな空気ではない。
エドリックは初めてフローラの肌をまじまじと見た夜の事を思い出してみるが、確かに彼女の言う通り若干だが腹が出ている気がした。
「確かに、以前より少しお腹が出ているような……? でも君は痩せすぎているから、少しくらい太ってもいいんじゃないかな」
「そんな訳には参りません! 外出時にはコルセットで締め付けていますが、これ以上ふくよかになってしまったら……私、恥ずかしくて外に出られません!」
男性に抱き寄せられた際に片腕で回るような細い腰が、淑女たちの身だしなみ。そのため女性達は外出時にはコルセットで腰を締め付けているという事は聞いている。
だが実際、フローラはそんな事をしなくても十分に細いとエドリックはそう思っているのだが……彼女にとって腹回りが大きくなってしまうのは大問題なのであろう。
「そこまで言う? ……でも、おかしいな」
「何が、ですか?」
「食べ過ぎで太ったのなら、お腹以外だって肉付きがよくなるはずだろう? 顔や腕や、足は以前のまま変わっていないよ」
エドリックはフローラの二の腕をツンツンとするが、顔や顎、太ももや二の腕は特に変わったように思えない。フローラが言うように、腹だけなのだ。
「そ、そうですか?」
「あぁ。……そう言えば、あれきり『穢れ』は無いね」
ふと、思った。穢れだから別の部屋で寝るとフローラが言って、気にしないから一緒に寝ようと言った日。あれから四カ月ほど経っている。思えばその四カ月、どんなに疲れて帰って来ても毎晩フローラを抱いていた。と、すればある可能性が浮上してくる。
フローラもやっとその可能性に気づいたようで『あっ』と言うような表情を見せた。
「もしかしたら、お腹に子供がいるのかもしれないよ」
「子供……? で、ですが子ができると女性は気持ちが悪くなったり、体調が優れなくなったりするものだと、私乳母にそう聞きました。私、そんな事は一度も……」
「そう言うのは、個人差があったりするんじゃないかな。明日、医者を呼ぼう」
「……もし、子供がいるのだとしたら……」
フローラは再びお腹に手を当てて、優しく撫でるように……エドリックはそんなフローラを見ながら、乱した彼女の寝巻を整え始める。
「……エドリック様?」
「身体を冷やしちゃだめだね」
もしも子供がいるのだとしたら、フローラの身体を冷やすのはいけない。寒くなってきた秋の夜、寝巻を脱いで何もしなければ身体は冷えてしまうだろう。
それに、彼女を抱いてそのせいで流産なんてしてしまったら大変だ。寝巻を整え終えた後、彼女の隣に寝転んでそっと抱きしめた。
「その、しないのですか……?」
「子供が出来ているかもしれない。表向きの理由としては、子供が出来ればもうする必要のない事だから」
「……その言い方ですと、他の理由もございますね?」
「子供がいるかもしれないと思うと、腰が引けてしまって」
「まぁ、ふふ……」
エドリックが苦笑いをすれば、フローラは可愛らしく微笑む。その可愛らしい妻に口づけし、その日はそのまま眠ることにした。
「エドリック様、もし私のお腹に子が宿っていたら……嬉しいですか?」
「何を言うんだい? 当然だよ」
「私も、とても嬉しいです。……でもお医者様に診て頂いて、ただふくよかになっただけだと言われてしまったらどうしましょう。……立ち直れないかもしれません」
「出来てるんじゃないかなぁ……。こんなにも毎晩、愛し合っていたわけだし」
そう言えばフローラは顔を赤くして『もう』と唇を尖らせる。可愛らしい妻のその瞼に口づければ、フローラはまたふふっと笑う。
「……でも、私が父親になるのは少し変な感じだ。きちんと父親になれるかな」
「エドリック様ならきっと良いお父様になりますわ。だってエドリック様はこんなにも私を大事にしてくださいますもの。きっと子供の事だって大切にして……」
「うん? フローラ?」
「……もし子供が生まれたら、子供ばかり可愛がって私は二の次になってしまったりしませんか?」
「何を言うんだい? そりゃあ子供の事は可愛がるだろうし大切にするだろうけど、君がいてこそだよ。君と子供のどちらが大切かなんて計れないだろうけれど、等しく大事にするから安心して」
「……はい、エドリック様」
「それに、君にも同じことが言えないかい? 子供ばかり構って、私の事なんて構ってくれなくなるんじゃないか?」
「ふふ、そんな事はいたしません。ご安心下さいませ」
そう言うフローラを更にぎゅっと抱きしめて、幸せを噛みしめながら……そのうちフローラの寝息が聞こえてくる。すやすやと眠る姿が愛しくて、この寝顔をずっと眺めていたいとそんな気分にさせられた。
「子供……かぁ」
エドリックはぽつりと呟く。子供が早いとは思ってはいない。エドリックと同い年で、十五、六で早々と結婚した男性には既に子供がいる者だっているし、エドリックだってフローラと結婚してもう九か月。
だが、自分が父親になる姿は想像できない。女性が出産に不安を抱くのと同じように、エドリックもまた立派な父親になれるのか……その不安を抱いていた。
「……やぁ、久しぶりだね。今日はどうしたの?」
「お主に子供が出来たと聞いてな」
その日、エドリックは夢を見た。夢と言っても、夢には違いないが……ある男の意思でこの夢を見ている。それが目の前にいる、皺枯れた老人。長い耳、水晶のような透き通る瞳、そして言語も人間のそれとは違うが……エドリックは、その異なる言語も難なく使いこなしている。
初めて『彼』と出会った時には、何を言っているのかわからなかった。だが、エルフの言葉を知っている祖父に、エルフの言葉を教えてもらって理解した。祖父が作ったエルフの言葉の辞書に書かれている事も全て覚えたし、文法も問題ない。
そう、彼はエルフ。既に忘れられた種族の一つ。この夢の世界は、彼の意志の中である。
「まだ出来たと決まった訳じゃない。そうかなって段階で」
「そうかそうか、だが初子はそろそろだろう」
「……貴方がそう言うなら、きっとそうなんだろうけど……明日、妻を医者に診せる。そこでわかると思う」
「ほんの二十年前にはまだ赤子だったお主が父親になれるような年か。人間が年を取るのはあっという間だ」
「今日はそれだけかい?」
「いいや、忠告じゃ」
忠告、と言う言葉にエドリックは真顔になる。この男はエドリックの人の『過去を見る力』とは逆の……『未来を見る力』を持っているのだから。
エドリックが見る予知夢も、彼の仕業だ。彼はエドリックに予知夢を見せ、そして時と場合によっては重要な決断をエドリックへ迫らせる。全くもっていい迷惑だが、きっと何か意図があるのだろうと……エドリックは自分が『選ばれた』ことについてそう思っていた。
「……忠告?」
「そうじゃ。お主は今後、子供を五人授かる」
「五人も?」
「あぁ、五人だ。だが、五人目の子……その子は大きな災いを抱えて生まれることになる。生まれたらすぐに殺せ」
「……なんだって?」
「生まれたらすぐに殺せとそう言った。そうでなければ、お主は成長したその子に首を刎ねられるだろう」
「…………」
「そして、お主を殺したその子は大陸中を闇に陥れるだろう。まるで悪魔のようにな」
「悪魔……? うっ……!」
その瞬間、エドリックは息が出来なくなった。突然目の前が真っ暗になって、苦しくて……まるで首を絞められているような。
「良いか、忘れるでないぞ。五人目の子は必ず、生まれたらすぐに殺すのじゃ。それが出来なければ、お主は子に殺され、大陸は混沌と化す。儂と約束してくれ」
返事も出来ないし、苦しくてそれどころではなくて……意識を失ったと同時に現実の世界へ戻ってきた。夢が覚めて、見慣れた天蓋の天井がそこにあった。左腕に、愛しい温もり。
ちょうどフローラも目覚めたのだろう。身体を起こし、エドリックの顔を覗き込む。
「エドリック様……。おはようございます。何か、悪い夢でも……?」
「あぁ、おはよう。……何でもないから気にしないでくれ」
「何でもないは、無いですわ。私には心配させないための嘘だってつくなと仰るくせに、エドリック様はそうやって嘘をつくのですか?」
「嘘ではない、本当に……何でもないんだ。少し良くない夢を見ただけだよ」
「……その良くない夢は、予知夢ですか?」
「予知夢……いや、『預言者』の夢だ。彼は私に、最悪を避ける方法を教えてくれた。だから大丈夫、彼の言うとおりにしていれば最悪の事態は起こらないから」
まだ息苦しい感じがする。だがエドリックはフローラの問いにそう答える。そう、予知夢ではない。彼は……『預言者』だ。
エドリックも身体を起こせば、フローラは心配そうに眉を下げている。夕べまであんなにも幸せそうにしていたのに、自分が『悪い夢』を見たせいでフローラの表情を翳らせてしまった事が申し訳なくもなる。
「エドリック様、『預言者』とは……?」
「……すまない、いくら君でも『預言者』の事は教えてあげられない」
「……そうですか」
そしてフローラは寂しそうな顔をする。『預言者』の事は、誰にも言えない。父にも祖父にもレオンにも、誰にも言っていない。自分の胸にだけ秘めている存在。
いくら妻だといっても、彼女に隠し事はしたくないにしても……彼の事は、ましては今日の夢の内容は言えないだろう。
『五人の子を授かるが、五人目の子は生まれたらすぐに殺せ』だなんて……フローラには絶対に言えない。言えるはずがない。
「そんな悲しそうな顔をしないで」
エドリックはそう言ってフローラの頬に手を添える。そのまま軽く口づけて、笑顔を作って見せた。
なんでも一人で背負わないでと、私にもあなたの重荷を背負わせてと……フローラはそう言いたそうだ。だが、こればかりは『選ばれた者』である自分の問題であって、彼女に背負わせるわけにはいけない。
「すまない、少し寝汗が酷い。入浴して汗を流すから、少し待っていてくれるかい?」
「はい。もちろんお待ちしております」
フローラにそう言って、執事を呼ぶための鐘を鳴らす。入浴したい事と、できるだけ早く医者を呼んで欲しいとそう伝えて……湯が沸くのを待って、エドリックはべたべたの寝汗を流した。
入浴後、父へ『フローラの診察が終わってから仕事へ向かう』と伝えてから朝食、その後医者が来るまでの間フローラの手を握っていたが……フローラは子供がいるのかいないのか、ドキドキとしているようでその姿はやはり愛しかった。
そんな彼女を見て『五人目の子が災いを呼ぶならば、五人目の子は作らなければいい』……エドリックは、心にそう秘める。子供は四人までにしておこうと、そう心の中で誓ったのだ。
「今日はどうされたのですか」
「妻に子が出来たのではないかと……」
「そうですか、それはそれは。少し診せて頂きます。奥様、寝台へ横になって頂いても?」
「はい……」
食後暫くして医者がやってくる。彼は従前よりグランマージ家のお抱えであり、エドリックが幼い頃に発熱をしたりした時にはよく世話になったものだ。そのため彼はエドリックの事を畏怖しない数少ない人間であるし、エドリックは彼の事を信頼している。
フローラが寝台に横になり、医者は鞄から筒を取り出す。腹の中の音を聞くための道具だ。それをフローラの腹に当て、耳を近づけ……すぐにうんうんと頷いた。
「ど、どうでしょうか?」
「ふむ、奥様。ご懐妊しておりますな。ジルカ男爵、おめでとうございます」
「そうですか……! フローラ、子供がいるって」
「はい、エドリック様……。嬉しいです……!」
フローラは医者のその言葉に涙ぐんで、エドリックもなんだか胸がいっぱいになる。彼女の瞳から零れる涙を指先で掬い、エドリック自身も瞳の奥が熱くなるのを感じた。
「……もう、子は随分と大きくなってきていますな。奥様のお腹が目立ち始めてきているように思います」
「えぇ、妻は特に悪阻のようなものもなかったようでして……腹が出てきたと、そう言われたものですから子供ができたんじゃないかと思って」
「そうでしたか。恐らくはもうしばらくすれば、奥様には子供の動きもわかるようになるでしょう」
「子供の動き……あぁ、早くそれを感じられるようになりたい。きっと、とても可愛らしくて愛しいのでしょうね」
「えぇ、それはきっと。奥様、これから冬へ向けて寒くなっていきますから、お身体を冷やさぬようご注意くださいませ」
医者は子供の頃から見てきたエドリックに子供が出来たのを、自分の孫が出来たような気持ちで見ていたのかもしれない。フローラの事を気遣う言葉を告げ、グランマージ家を後にした。
医者が帰った後で、エドリックはフローラと向き合う。
「フローラ、君のお腹に私達の子がいるって」
「はい、エドリック様」
「ああ、どうしよう。今日は嬉しくて仕事が手に付きそうにない。父上へ使い魔を送って、仕事は休んでしまおうかな」
「まぁ、エドリック様ってば」
「だって仕方がないだろう? 本当に嬉しいんだ」
「私も、とても嬉しいです」
「フローラ、ありがとう。愛してる」
「エドリック様……私も、あなたをお慕いしております。愛しています」
そう、それは本当に幸せで……。フローラを強く抱きしめて、口づけて、笑って、喜んで。レフィーンの公女に求婚しようと手紙を書いていた時には、こんな風な幸せが訪れるとは夢にも思っていなかっただろう。
まさか、自分が誰かを愛せるなんて。父親になるなんて。あの時には想像もしていなかった。
それから少し経つと、フローラは胎動を感じるようになったようで時折『今お腹を蹴りましたよ』と教えてくれるようになった。エドリックが腹の上から触ってもわからないが、そう言う度にフローラが幸せそうに微笑むから、エドリックも幸せだ。毎朝毎晩フローラの腹を撫で、おはようとおやすみを腹の中の子供にも言うのが日課になった。
更に少し経てばエドリックが腹の上から触っても子供が腹を蹴るのがわかるようになって、本当にフローラのお腹の中に子供がいるのだと言う実感がより沸くようになる。
毎日がとても幸せだった。こんなにも幸せで良いのかと、そう思ってしまうくらいには。
「エドリック様、雪が降ってきました」
「そうだね、もう冬だ」
「……最近、とても寒いですからね。レフィーンで生まれ育った私には、この冷え込みはとても辛いです」
「今も寒いかい? 暖房にもっと薪を入れて火を強くしようか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。貴方がこうして、抱きしめてくださっていますから暖かいです」
窓の外を見るフローラを後ろから抱きしめながら話していれば、妻は大きくなってきたお腹を撫でながらそう可愛らしい事を言う。
エドリックも腹へ手を伸ばして、腹を撫でるフローラの手に自分の手を添えた。
「そうだフローラ、何か欲しいものはあるかい?」
「欲しいもの、ですか?」
「あぁ。もうすぐ創造祭だから」
「そうですわね……あなたとゆっくり過ごせれば何も要りませんわ。いつもお忙しいあなたの時間を、私のためだけに頂ければ他には何も望みません」
「本当に物欲がないね。いつもそれだ。君の誕生日の時だって……」
「ふふ、でもエドリック様は素敵な髪留めを贈ってくださったじゃないですか。貴方がいれば何も要らないと申しましたのに」
「あれは私の気持ちだよ。私の時間を君にあげても形には残らない。形に残る物をあげたかった。今度の創造祭の日も、何か形に残る物を贈りたいんだけどな」
「もう……ありがとうございます。では、靴を一足新調しても良いでしょうか?」
「当然だよ。では近いうちに靴屋を呼ぼう」
「はい、ありがとうございます」
毎日が幸せで、幸せで……いつかこの幸せが崩れてしまうんじゃないかと思えば怖いくらいだった。お腹の子も順調のようだし、夫婦仲も非常に良い。
子供が生まれるのは春先になるだろうと言われている。フローラは相変わらず可愛らしいが、最近少し幼さが抜けて母親らしい顔つきになってきたと……エドリックはそう思っていた。
「ただいま。……フローラは?」
そして、結婚一年目の記念日を過ぎ季節は春へ。雪解けも進み、庭や沿道に新芽が見え始めた日……エドリックが屋敷に戻ってくれば、いつもは出迎えてくれるフローラの出迎えがない。
エドリックを出迎えた執事に聞けば、執事はエドリックの渡した外套を受け取りながら言った。
「奥様は、先ほど……二時間ほど前から陣痛が始まったようでして」
「産気付いたって事かい? どうして魔術師団へ連絡を寄こさなかった?」
「お産は、特に初産は時間がかかります。エドリック様のお勤めももう少しで終わるでしょうから、御帰宅されるまでには産まれないだろうとのことで連絡は不要だと奥様がそう仰られて……」
「……それでも、使いを送るべきだ。フローラのところへ行く。食事は二人分、部屋へ運んでくれ」
「畏まりました」
エドリックは部屋へ急ぐ。この後陣痛の感覚がもっと短くなれば部屋は男子禁制になるという事でエドリック部屋の隣、フローラの私室の寝台に彼女は横たわっていた。
部屋には産婆と、見慣れない椅子がある。分娩椅子と言って、子を産み落とすときにはこの椅子に座るらしい。知識としては知っていたが、実際に見たのは初めてだった。
「フローラ」
「エドリック様、おかえりなさいませ」
「産気付いたと聞いた。大丈夫かい?」
「定期的にお腹に強い痛みが……あっまた、いたたた……」
フローラが陣痛で苦しそうなのを見て、エドリックは産婆に尋ねる。痛みを感じさせなくする魔法をかけては駄目か、と。
だが当然のように、痛みが無くなると生まれる頃合いがわからなくなるので駄目だとあしらわれてしまう。そうだよなと思いながら、エドリックはフローラの腰を撫でてやった。
まだフローラも食事を取るだけの余裕はあるようで、これから長丁場になる事も考え食事はしっかりと食べさせる。食事中にも何度か痛がる様子があったが、出されたものを全て完食する事は出来たようだ。
そのうちに深夜になって、エドリックは部屋を追い出された。もうそろそろ生まれるかもしれないと……男子禁制なのだから仕方がないが、部屋を出る際に小さな使い魔を部屋に置いておいた。一応、化粧台の上と言う見つかりにくい場所である。
……もうすぐ生まれるかもしれないと言われて部屋を追い出されたが、実際に生まれたのは明け方になってからだった。エドリックは椅子に腰かけながら、どうしてもうつらうつらとしてしまっていたのだが、ギリギリ保っていた魔力で……使い魔の方で子の産声を聞いたのである。
『奥様、元気な男の子です』とそう言っている。エドリックは立ち上がって、すぐさま隣の部屋へ向かう。
「産声が聞こえた! 産婆、入っても良いか?」
「いけません、ご主人! 奥様と赤ん坊の処置が終わりますのをお待ちください!」
だが、まだ入るなと言われてしまう。早く子をこの目で見たいと、頑張って自分の子を産んでくれたフローラを労りたいと……エドリックは落ち着かない。
エドリックの声で、近くにいた使用人達が数名気づいたようだ。皆が『お生まれになったのですか?』『エドリック様、お子様のご誕生おめでとうございます』など声を掛けてくれた。
「エドリック様、どうぞお入りください」
数分部屋の外で待たされたあと、扉が開いて産婆が言った。エドリックはすぐさま部屋の中へ入り、寝台にフローラがいる事を確認しそちらへ向かおうと思ったのだが……それよりも前に、産婆が生まれたばかりの赤ん坊を抱かせてくれた。
とても小さくて軽い。勿論、なんて可愛らしく、そして尊く儚い存在なんだと……エドリックの両目に涙が溜まった。
「男の子だから、君の名前は『エルヴィス』だ。元気に育つんだよ」
名前は、祖父の名を頂いた。男の子だったら祖父の名を頂くと、そう決めていた。エドリックが誰よりも尊敬する、師匠でもある自慢の祖父。その祖父の名をもらおうと……
「フローラ、母子共に無事で、元気で本当に良かった。君も疲れただろうし、ゆっくり休んで」
「ありがとうございます、エドリック様」
「そう言えば乳母だけれど、母上の知人が紹介してくれると……」
「その事ですが……乳母はいりません」
「え?」
「私、自分のお乳で育てたいんです」
フローラが言い出した事は、この時代の貴族にはまずない考えだった。貴族は乳母を使うのが一般的……と、言うより使わない選択肢がない。
理由としては社交のため、そして胸の形が崩れるなんて理由もあるようだが……確かに、エドリックが社交の場に出るつもりがない以上、フローラが社交を理由に乳母を使う必要はないのかもしれない。
だが、エドリックがあまり社交に出ない事を実際のところ両親は良く思っていない。父は忙しい中でも他の貴族との交流は持っているし、そこで商機を見出してきたりもしている。
もちろん、エドリックが人の多い場所が苦手だという事もわかっているので、頻繁に社交をしろと言っているわけではないが。
「でも……」
「私が社交の場に出る事はほぼ無いでしょうし、自分のお乳で育てる事に不都合はございません。私が自分の手で、育てたいんです。勿論、アンや使用人達にも手伝ってもらう事もたくさんあるとは思いますが……」
フローラは案外、頑固だ。一度決めたら自分が納得できない限りは頑として譲らない。彼女を説得できるだけの理由を、エドリックは持ち合わせていない。
「……君がそう言うなら、君の意思に従おう。だが、乳母を使いたくなったら言ってくれ。その時には紹介してもらおう」
「えぇ、わかりました」
「ふえぇぇ……」
と、その時エドリックの腕の中に居た小さな赤ん坊が弱々しく鳴き声を上げる。エドリックは慌てて産婆の方を見ると、産婆は『きっとお腹が空いたのでしょう』とそう言った。
一度産婆がエルヴィスを受け取り、そしてそのままフローラの元へ。既に、産婆とフローラの中では乳母を使わないことについて話がついていたのだろう。産婆はフローラに乳を出すように言って、フローラが服をはだけさせれば赤ん坊の小さな口をフローラの乳に近づけ咥えさせる。
……まだ母乳は出ないかもしれないが、それでもこうやって吸わせるうちに出てくるようになるようだ。フローラが乳母を使わないと言った以上、フローラの乳がまだほとんど出ずに赤子の腹が満たされないようであればその時は砂糖水を飲ませると産婆は言う。
その後、やはりまだ乳の量が不十分だと砂糖水を飲ませ、エルヴィスは眠った。再びエドリックが抱く。フローラは子に満足に乳をやれない事を悔やんでいたが、産婆に『精神的な余裕の無さで更に母乳が出なくなるから焦らない方が良い』と言われていた。
「お前がいっぱい吸えば、母上の母乳もしっかり出るようになるんだって。だからお前は、お腹が空いたら頑張って吸うんだよ」
エドリックは寝台に腰かけ、エルヴィスの頬をツンツンとしながら言う。あくまでも乳が足りないのはフローラのせいではないと、フローラにそう言って聞かせるためでもあった。
そうしているうちにフローラが少し眠くなってきたと言う。エドリックも、そう言えば一睡もしていなかった。エルヴィスが生まれた時には半分寝かかっていたが、決して寝てはいない。
エルヴィスをフローラの隣に寝かせ、エルヴィスを挟んでエドリックもフローラと共に眠ることにした。一度部屋へ戻り、着替えてから寝台に入る。
フローラとエルヴィスを同時に抱きしめれば、なんて幸せなんだと……フローラも同じように幸せを感じていたのだろう。微笑みながら、瞳に涙を溜めるからその瞼に優しく口づける。
結婚して以降、エドリックはフローラが何よりも大切だった。だが、ここにもう一つとても大切な宝物が出来た。フローラと二人で、この小さな手を守って導いてあげようと誓う。
小さな手に指を差し出せば、ぎゅっと握ってくれるのがとても可愛らしく、そして幸せを感じる。
その幸せを感じながら、エドリックは深い深い眠りへと落ちていった。