初夜
レフィーンでフローラと寝室を共にすることになって、その日以降の滞在も帰りの道中でもエドリックとフローラは共に寝た。とはいっても、まだ添い寝だけの関係であるが……エドリックとしては、早くこの美しい妻を抱きたいと言うのが本音だっただろう。
だが、初夜は国に戻ってから。そう、決めていた。喪に暮れているレフィーンで、帰りの道中に泊まる宿の粗末な寝台で、初めての夜を……彼女にとっては一番の思い出になるであろう日をそんな場所で迎えたくはないと言う一心からである。
そしてレクトに帰国したその夜。まだ乾ききっていない、濡れた髪のままフローラはエドリックの部屋を訪ねてくる。寝巻だってやや薄着で、ガウンを羽織ってはいるもののエドリックの劣情を煽るのには十分だっただろう。
「エドリック様……」
「あぁ、フローラ。待っていたよ。こっちへおいで」
「……はい」
フローラが一旦自分の部屋で入浴してから、エドリックの部屋を訪ねてくることは想定済み。だからそわそわとしながら、気持ちを落ち着かせるために小説を読みながら待っていた。
持っていた本を机の上に置いて、手招きすればフローラはちょこんと隣に座る。照れ臭そうにしているフローラを、抱き寄せる。
「……良い匂いがする」
「は、はい。その、身を清めてきましたので……」
「入浴した事は、まだ乾ききっていない髪を見ればわかるよ」
顔を赤らめているフローラが可愛いと、エドリックはその頬を撫でた。フローラはビクンと機敏に反応して、その反応は更にエドリックを煽る。
優しく口づける。ついばむように……触れては離れ、すぐにまた触れては離れを何度か繰り返しているうちに、先ほどよりも更に頬を赤くした可愛らしい妻が口を開いた。
「……あ、あの……エドリック様」
「何だい?」
「そ、その……わたくし、緊張していて……」
「どうして?」
「は、初めてですから……その、何をどうしたらいいのか……」
……彼女が生娘なのは当然だろう。レフィーンでは男性に縁がないまま、エドリックの妻になった。かといって、エドリック自身も女性経験は無いに等しい。
本当なら、貴族の男と言うのは結婚前に少しばかり女遊びをして女性の扱いを学び、妻を満足させる術を身に着けてから結婚する。
こればかりはエドリックも、正直『しまった』と思ったものではある。自身が潔癖で女性と遊んでこなかったツケが、ここに回ってきたのであろう。それは即ち、どうすればいいのかわからない。
彼女を組み敷くのは簡単かもしれないが、組み敷いた後はどうすればいい? 不安の色が見えるフローラに、なんて声を掛ければいい? 正解が、わからないのだ。今日のところは、逃げるしかない。
だからフッと笑って見せる。フローラは、何が可笑しいのかと言うように眉を下げた。エドリックはそんなフローラが愛しくて、たまらずに頬に口づけた。
「ごめんごめん。レフィーンから帰ってくるのに、馬車で五日も揺られていたんだ。滞在中だって休まらなかっただろうし、疲れているだろう?」
「それは、そうですが……」
「だから、今日は寝よう?」
「そ、そうですか? ですが、その」
「焦らなくていいよ。それとも、私の事を野獣か何かだと思っているのかな」
「そんな事、思っていませんわ。……エドリック様」
なんとか誤魔化したと、エドリックはそう思いながら今度はフローラの唇に自分のそれをそっと押し当てた。今日のところは、口づけまでが精いっぱいだ。
内心は早く抱きたくて仕方がないが、どうしていいかわからず紳士のフリ。フローラには悟られずに済んだが、なんと格好悪いと自分自身に幻滅せずにはいられない。
そのまま二人で寝台に入り、エドリックはフローラを抱きしめて瞳を閉じる。男の自分と違って、柔らかい肌。本当はこのまま彼女の寝巻を脱がせ、その柔らかい肌に吸い付きたいところだが……その想いにはグッと蓋をした。
自分の事を信じ切って、安心して目を瞑っている彼女を裏切るような事はできないと……可愛らしい寝顔にそっと口づけ、エドリックは悶々とした想いを抱えたまま眠りに就いた。
翌日から、エドリックは仕事へ。予定よりもレフィーンへの滞在が長引いた事もあり、もう一日休暇を貰う事はできない。『お前がいなかったせいで、魔術師団は猫の手も借りたいくらい忙しかったんだ』と、父の疲れた顔がそう言っていた。
「エド、戻って来ていたのか」
「あぁ、昨日ね」
「……久々に魔術師団から離れて、息抜きは出来たか?」
「羽を伸ばすための旅行じゃない。ちょっと色々あって、疲れたよ」
「そうか」
「……なぁレオン、君を友人と見込んで話がある」
「なんだ、改めて」
王宮に着いて、魔術師団の溜まりに溜まった仕事を片付けているとレオンがやってきた。特に魔術師団に用があった訳ではなく、魔術師団演習場の横を通ったらエドリックの姿が見えたから立ち寄っただけという事だったが……
「まだ結婚もしていない、エミリア一筋で女遊びに興味のない君に聞くのは間違っているのはわかっているけれど」
「……あぁ」
「女性って、どうやって抱けばいいか知ってるか?」
「…………」
レオンはそう問うエドリックの顔を見て、怪訝そうな顔をした。レオンもレオンで、エミリアからエドリックとフローラがまだ関係を持っていない事は聞いていたのだろう。
そして、エドリックの性格もわかっている。エドリックが恥を忍んで、こんな問いをしてきた事も。だが、返事は素っ頓狂なものだ。
「お前の記憶力でも、思い出せない事があるのか?」
「そうじゃない! 『成人の儀』は、相手は手練れの娼婦だろう!? フローラを、そんな女と一緒にしないでくれ!」
「す、すまない」
「何と言うか……脱がせてしまえば後はどうにでもなるんだろうけれど、どうやって脱がせるところまで進めれば良いのかがわからなくて」
「それこそ、どうにかするしかないだろう」
レオンはやや呆れた顔でそう言う。……レオンが言った、過去。エドリックに女性経験はほぼ皆無ではあるが、一度だけ女性と関係を持ったことがある。
それは『成人の儀』と呼ばれ、貴族の男なら誰でも経験する事だった。嫌だと言っても拒否権はない。満十五歳の誕生日を迎えてから一月以内に女性と関係を持つことが求められ、その証明書の提出まで求められるほど大事な儀式とされていた。
ウルフウェンド大陸の各国において、男は十五歳で『第一成人』を迎え王宮に出入りするような仕事に付けるようになる他、結婚もできるようになる。結婚すれば当然、妻と関係を持つことになるが……いざその時に恥をかかないため、予め女性経験を積ませておくと言うのがこの儀式の目的である。
夫婦間での子作り目的以外の性行為が悪とされる宗教感の中で、なぜかこの『成人の儀』だけは教会にも認められている。庶民にはこの風習はないものの、貴族には根強い風習であった。
だが、当然そう都合よく相手になる女性がいる訳ではない。そのため貴族の子息を専門に相手をする高級娼館が王都内では数軒営業をしており、例に漏れずエドリックも娼婦の世話になっていた。もちろん目の前の、エミリア一筋のレオンも同じく……である。
「……昔、エヴァン叔父上に言われたんだ。毛嫌いしていないで女と遊んでおかないと、将来困るかもしれないぞって。私は自分が結婚すると思っていなかったし、その時は聞き流していたけれど……叔父上が言っていた意味が、ようやく分かったよ」
「そ、そうか」
「レオン、君だってそうだ。エミリア一筋な事には感心するけれど、いざエミリアと結婚して子供を作ろうとした時に困るんじゃないか? 君に寄ってくる女性は引く手数多だろうし、少し遊んでおいた方が良い」
「……そのつもりはない。女遊びは神の教えに反するし、エミリアを裏切るような事もできん」
「君も本当、真面目な男だね。まぁ、妹を大事に想ってくれているのは、将来君の義兄となる身としては安心だけどさ」
そう言いながら、はぁとため息を吐く。恥を忍んで聞いてはみたものの、こと性的なことに関してはレオンもエドリックも経験値は同じで頼れる相手ではなかった。
そもそも、一度きりの『儀式』で経験なんて積めるものではない。妻を満足させるための技術が身につく訳もない。いざその時に慌てないで済む程度の、気休め程度の物でしかなかった事をエドリックは思い知った。
「……手慣れた男の行動を真似すれば良いんじゃないか?」
「真似をするって言ったって……」
「こんな事にその力を使うのは不本意かもしれんが、お前は他人の過去が見えるんだ。騎士団にも娼婦に入れ込んで、娼館通いが止められない奴もいる」
「……そうか! どうして気が付かなかったんだ! レオン、その娼婦に入れ込んでいる騎士は今どこにいるんだい? 遠目でいいから会わせてくれ!」
レオンも、騎士団の中に神の教えを守らず欲に溺れている騎士がいる事を口外するのは不本意であっただろう。だが、表向きには夫婦が子作り目的で行う行為以外は禁じられているにしても、実際のところ娼館は教会にも国にも黙認されている。むしろ、娼館の営業には国の許可が必要で、国公認なのである。
曰く、娼婦として仕事をしなければ食べていけない女性がいる事、娼館がある事で性のはけ口となり性犯罪を抑制できる事。あとは汚い役人が娼館から賄賂を受け取っている事や、役人や高官への接待にはもってこいの場所だから……などがその理由であろう。
もちろん娼婦は娼館勤めの公娼だけではなく、無許可の私娼も数多くが存在している訳ではあるのだが……
エドリックはレオンに連れられ、騎士団の詰め所へ。用があるフリをしながら、レオンが目配せした騎士を確認した。彼の記憶を探らせてもらえば……つい先日も娼館に行ったばかりのようで、その時の行動がエドリックの頭の中にすっと入ってくる。
「レオン……あと二、三人くらい娼婦に入れ込んでいる奴はいないかい? 一人だけの行動で、どう動くかを参考にはしたくない」
「入れ込んでるかどうかはわからないが……彼とよく一緒に娼館へ行っている騎士は知っている」
「ここに居る?」
「あぁ」
レオンは二人の騎士に目線を送る。木剣で藁を打って訓練中の騎士と、鎧を磨いている騎士だった。エドリックは順にその二人の記憶を覗かせてもらう……
「……参考になるか?」
「あぁ、これはすごい。どう動けばいいか分かった気がする」
「そうか、それは良かった。……今夜、実戦するのか」
「そうだね。フローラも、期待していると言うか……早く本当の意味で夫婦になりたいと、そう思ってくれている。このまま私が手を出さなければ、私が彼女に襲われそうな勢いだ。初めてなのに、女性にそんな事をさせる訳にはいかないだろう?」
「あぁ、そうだな」
エドリックはレオンに礼を言って仕事に戻る。夕方、まだ仕事は山のように残っていたが早めに切り上げ屋敷へ。夕食と入浴を済ませ、フローラが部屋を訪れるのを待つ……そわそわとしてしまって、落ち着くために明日予定されている裁判官の仕事……罪人の資料を確認することにした。
罪状を確認している間に、部屋の扉がコンコンと叩かれる。平然を装ってフローラを迎え入れれば、今日も彼女の頬はほんのりと赤く染まり照れ臭そうに眉を下げていた。
「何を見ていらっしゃるのですか」
「……君が見て面白いものではないよ。明日の裁判の資料だ」
「裁判……」
「……あぁ。これは明日の朝、裁判の前に確認しよう。折角君が部屋に来てくれたのに、こんな胸糞悪くなるようなものは見ていたくない」
資料を机の上に置く。さっと目を通しただけだが、強盗に押し入り家の主夫妻を殺害、年ごろの娘を誘拐監禁し強姦した挙句、娘も殺害して河原に遺棄した……などの詳細が書かれていた。エドリックの勘では、明日は余罪も見つかるだろう。
だが、今はどうでも良い。隣に座ったフローラを抱き寄せ、口づける。何度か触れるだけの口づけをした後、彼女の口内へと舌を伸ばした。
「……!」
驚いて身体を強張らせたフローラだったが、彼女の口内を犯すように舌を動かす。いつもより深く、深い口づけを終えると、エドリックはフローラの目を見て言った。
「フローラ。私は、君を愛してる」
「エドリック様……」
フローラの眉が下がって、瞳が潤んでくる。すっと、その大きな瞳から大粒の涙が頬を伝って流れて行った。
まさか泣いてしまうとは思ってもいなかった。もしや今まで感じていた好意も勘違いだったのか、自惚れだったのか? と、エドリックは焦る。
「泣かないでくれ、フローラ。……泣くほど嫌かい?」
「違います。もう、エドリック様……わかっていらっしゃるくせに。やっと言ってくださったのが、嬉しいんです」
「ごめんよ、フローラ。……私は嫌われ者だから、君からの好意を感じていてもどうにも自分に自信がなくて。君に愛を伝える勇気がなかった、私が臆病なだけだ」
「そんな事、ありません。……私もお慕いしております、エドリック様」
「……ありがとう、フローラ」
エドリックはもう一度フローラに口づける。深い、深い情熱的な口づけ。フローラもエドリックの舌の動きに合わせ、応じてくれているようだった。不慣れなたどたどしい動きが愛しい。
強く抱きしめれば彼女の手もまた、エドリックの背を強く抱きしめる。今この世には自分達二人しかいないのだと、そう錯覚してしまいそうな甘美な時間。
唇を離せば、フローラの瞳をじっと見つめる。先ほどよりも赤くなった頬が、とろけるような潤んだ瞳が可愛らしい。エドリックは立ち上がって、フローラを抱き上げた。
「エ、エドリック様。一人で歩けますわ」
「私が君を寝台まで連れて行きたいんだ。すぐそこだよ」
「……はい」
すぐそこの寝台へとフローラを連れて行き、彼女を寝台に下ろす。天蓋の柱に括りつけられていた帳を降ろし、寝台は小さな密室と化した。エドリックはシャツを脱ぐ。既に身体が熱いし、今からフローラを抱くのだと……そう思えば滾ってくる。
フローラの着ていたガウンを脱がせようと手をかけると、フローラは言った。
「エドリック様、明かりを……」
寝台の外も中も、いくつかの蝋燭が灯されたままだった。夜は暗く蝋燭と言えば中々の貴重品であるが、エドリックの部屋に関しては蠟燭を惜しむことなくふんだんに利用していて昼間の……とまでは言わないが、かなり明るい。
明かりを消してほしいと懇願する妻の、恥じらう姿に興奮したのは事実だろう。だが、もとより明かりを消すつもりはなかった。特に今日は初めての夜なのだから、彼女の姿をきちんと確認したい。暗がりの中で触れて、何か間違っても困る。
「消さないよ。突然誰かが入ってくることもないだろうけど、天蓋の帳は降ろしたし……万一誰かが来ても、君の肌は誰にも見えないから安心して」
「で、でもエドリック様には……」
「私に見られることを、恥ずかしがる必要はないだろう? 夫婦なんだし……それに、お互い様だろう? 私は、もう上は脱いだよ」
「だ、男性は脱いでも恥ずかしくないかもしれませんが……!」
「そんな事はないよ。私はレオンのような肉体美を持っている訳ではないし」
フローラはあれやこれやと言って明かりを消させようとするが、応じるつもりはない。フローラは胸元を手で防御するようにしていたが、その手はひょいと避けて寝巻を肌から滑らせてゆく。
彼女の白い肌が、何より美しかった。絹のようと表現するのが良いのだろうかと、エドリックは考える。肌触りもしっとりとしているがそれでいて艶やかで、ずっと触っていたいとそう思わせた。
「それに、君の裸は侍女がいつも見ているだろう? 君の入浴も着替えも、彼女らがやっているんだから。君は子供の頃からそうやって育っているはずで、人に見られるのには慣れてるだろう。恥ずかしいなんて、私に見せられない理由にはならないよ」
「そ、それはそうですが……女性に見られるのと、男性に見られるのでは……あっ」
「……綺麗だよ、フローラ」
寝巻を脱がせて、彼女の露になった肌をまじまじと見る。名画家や彫刻家の絵画や彫刻に負けないくらい……いや、それ以上だ。こんなにも美しいものがこの世に存在したのかと、思わず喉がゴクリと鳴る。
真白な肌が、微かに朱で染まっている。恥ずかしさのあまりフローラは瞳を潤ませていたが、今のエドリックには彼女のそんな表情すら欲情を煽るだけに過ぎない。
そっと、白い肌に口づけながら柔らかな膨らみに触れる。その後はもう、夢中だった。
何度も愛していると囁き、甘い吐息を重ね、フローラの白い肌に赤い花を散らす。心だけでなく身体も一つになって、それでやっとフローラを自分のものにしたと……エドリックのフローラに対する支配欲が満たされていった。
「ごめんね、痛かったね」
「はい……でも、私これでやっとあなたの本当の妻になれました。嬉しいです」
「あぁ、そうだね。私も嬉しいよ。……君の初めてを私がもらったと言うのを君の身体に刻みたくて敢えて痛みを残したけど、実は痛みを感じなくさせる魔法がある」
「そ、そうなのですか」
「うん、だからごめんね。慣れるまでの間は痛いって聞くし、次からは魔法をかけるから安心して」
そう言ってエドリックは、フローラの額に口づけた後……身体を起こし、フローラに覆いかぶさる。
「え、エドリック様……?」
「もう少し付き合ってくれるかい?」
「は……はい」
フローラは顔を赤くして、消え入りそうな声で返事をする。エドリックはフローラの返事を聞いて優しく微笑んで、そしてフローラに甘い口づけを落とした。
結局、眠りに就いたのはかなり遅い時間だっただろう。一晩で何度交わっても子供ができる確率を向上させる訳ではないと言われており、一晩に二回以上は神の教えに背く『快楽目的』の行為とみなされる。
だが、若さゆえの衝動もあり……抑えられなかった。神が一人一人の寝室を覗いているわけではない。誰にもバレない。そう言う気持ちがあった、と言うのもある。
ともかくエドリックとフローラはこの日、それは熱い熱い一夜を過ごした。愛していると囁き合う幸せを、エドリックは初めて知ったのであった。
翌朝、部屋の扉が叩かれるコンコンと言う音で目を覚ました。フローラの侍女、アンがフローラの身支度をしに来たのだろう。
ゆっくりと目を開くと、フローラもちょうど目覚めたようだがまだ眠そうな顔をしている。唇に触れるだけの口づけを落として、それから『おはよう』と声を掛けた。
まだお互い裸のまま。事後にフローラに腕枕をしながらまったりとしていたら、疲れてそのまま眠ってしまったのだろう。自分が裸のままだと気づいたフローラはエドリックの挨拶に返事をしながら顔を赤くしたが、エドリックはそのまま扉の向こうの人物へ『入っていいよ』と声を掛けた。
扉が開く音と『失礼します』と言うアンの声が聞こえる。エドリックはフローラから離れ身体を起こし、投げ捨ててあった服を着る。普段天蓋の帳は降ろしていないが、降ろされていた事できっとアンも察しただろう。
「おはようございます、エドリック様、フローラ様」
「あぁ、おはよう。フローラは昨晩少し無理をさせてしまったから、まだ休ませてあげて」
「え……あ、はい。畏まりました」
「フローラ、私は仕事に行くから君はゆっくり身体を休めて。見送りはいらないから」
「はい。い、行ってらっしゃいませ」
エドリックはそう言いながら寝台を後にし、察してはいただろうが少し驚いた様子のアンの顔を見て微笑む。その笑顔は『フローラの事、あとはよろしく』と、そう伝えたつもりだ。
そしてエドリックは朝食を食べ、いつものように仕事へ向かう。そう言えば、今日は裁判だと……魔術師団に顔を出してから、裁判所へ向かった。
……昨夜思った通り、今日の裁判では被告人の男からは余罪がボロボロと飛び出す。元々の罪状だって十分に極刑になってもおかしくないものであったが、その余罪の事もあり極刑は免れないだろう。
余罪についての取り調べの必要が出てきた事から判決は延期となったが……裁判が終わり退席しようとした時、被告人の男がエドリックに向かって叫んだ。
「この、死神が……!」
氷のような冷たい視線を男に向ける。死神と……そう呼ばれる事には慣れてはいるが、今日のその言葉はやけに胸へと突き刺さった。
レフィーンでフローラの姉・リリアナに『死神』と呼ばれた時には何も思わなかったが……心境の変化は、昨日フローラと肌を重ねた事がその要因だ。
恐らく近い将来、自分が父親になる日が来る。今でもフローラが『死神の妻』と言う扱いを受けている事を申し訳なく思っているが、子供が生まれればその子は『死神の子』と呼ばれることになるのだ。
子供自身が望んでエドリック夫妻の子になる訳ではないのに、それは余りにも可哀想ではないかと……
「……私を死神と、そう言い出したのは一体誰だったんだろうね」
ぽつり、呟く。誰が言い出したかは定かではない。知らぬ間にそう呼ばれていた。特殊な能力を持ってこの世に生を受け、自分がただ人ではない事は知っている。
自分のこの能力を持って罪人たちを極刑へと導いてきたのだから、死神と……そう呼ばれたって仕方がないだろうと、ずっとそう思っていた。
だが、近い将来父親になるであろうという事は想像ができるだけに……死神と呼ばれるのは嫌だと、その気持ちがふつふつとわき上がってきたのだ。
しかしこの裁判官と言う仕事をしている限り、その異名が消える事はないだろう。何しろエドリックが担当した事件のうち、極刑を免れたのは……エドリックが裁判官になってからのこの二年で、たった数件しかない。
『死神』の異名を返上するには、裁判官を辞する他ないだろう。国王直々に任命された裁判官を辞す事を、国王が認めてくれるかどうかはわからないが……
だが、エドリックは決意する。まだできてもいない子供が生まれる前には『死神』の名を返上する事を。そのためまずは国王に裁判官を辞めたいと言う必要がある。
城に戻り、真っ先に国王への謁見を申請した。エドリックは、国王にかなり気に入られている自負はある。エドリックが人々に忌み嫌われる特殊な能力を持っているとは言え、その能力は国の運営にはかなり役立つのだから重用されるのもおかしな話ではない。
エドリックの謁見申し出に、国王はすぐに対応してくれた。エドリックの謁見は急を要する事もあるだけに、国王としても至急で対応せねばとそう思うのだろう。
謁見の間に通されれば、エドリックは国王の前に膝を着き頭を下げた。
「面を上げよ。突然の謁見だが、何かあったのか」
「陛下。私は二年前より陛下の勅命で、魔術師団に所属する傍ら裁判官を兼務しておりますが……その任を解いて頂けないでしょうか」
「うん? なぜだ? 貴公ほど裁判官の仕事が板に着いている者はおらん。聞いているぞ、お主は自分の担当した罪人の処刑は必ず見に行っていると。お主の仕事へ対する責任感には感心していたのだが」
「有難いお言葉です。ですがその反面、私が何と呼ばれているのか陛下もご存じでしょう?」
「うむ……『死神』と言う奴か」
「左様です。私は最近まで独り身でしたから、その異名は気にしておりませんでした。しかし、陛下もご存じの通り四カ月前に現在のレフィーン大公の妹と結婚し……今では妻が『死神の嫁』と、陰でそう呼ばれております」
「……うむ」
「妻はまだ懐妊しておりませんが、いずれ我ら夫婦にも子ができるでしょう。その時何の罪もない子が、私の子だと言うだけで『死神の子』と、そう呼ばれてしまう。それを、私は避けたいのです。陛下も子を持つ親なら、私の気持ちを理解して頂けないでしょうか」
国王はむむむ、と難しい顔をした。エドリックの言いたい事はわかる。しかし、だからと言ってわかったと素直に認めてやることができる話ではないと、その表情はそう言っていた。
「もちろん、この場で返事を下さいと申し上げている訳ではございません。辞する事は許さないと、裁判官を続けろとそう仰るのであればその命に従います。ですが、私の気持ちを汲んで頂き、良いお返事を頂けることを期待しております」
「……うむ」
「では、私はこれにて失礼……」
「待て、エドリック。ちょうど良い機会だ。別件ではあるが、お主の耳にも入れておきたい事がある」
「何でしょうか」
「南東のフェトラー王国との国境付近に、ウェアウルフの群れが住み着いたと言う話があっただろう」
「はい」
「地域の住民達より、家畜が襲われる被害が報告され始めた」
「……では、ウェアウルフの討伐ですか」
「左様。先ほど騎士団のベイジャーと、お主の父親にこの話をしたばかり。住民に被害が出る前に、ウェアウルフ共を駆逐せよ」
「承知しました」
エドリックはもう一度頭を下げてから、謁見の間から立ち去る。……このような遠征は度々あったが、フローラと結婚してから泊りがけになるような遠征は初めてであった。
基本的には団長である父は王都を離れない。エドリックはまだ副団長の立場にはないが新人教育の傍ら大隊を束ねる隊長でもあり、遠征となれば魔術師団の指揮を執るのはもっぱらエドリックの役目だ。
なお、来月誕生日を迎え第二成人となれば国の要職へ就く事も可能になるため、誕生日を迎えると同時に副団長へ任命されることが随分と以前から決まっていた。
エドリックは魔術師団の兵舎へと向かいながら考える。フェトラー王国との国境付近であれば、どんなに早くとも往復で六日はかかるだろう。更に討伐に丸一日かかったとして、一週間はフローラに会えないことになる。
「……遠征、嫌だなぁ」
つい、ぽつりと呟いた。遠征が嫌だと思ったのは、今日が初めてである。結婚直後からフローラの事を想い続けてはいたが、ようやくその想いが実ったばかり。夫婦とは言え恋人になったばかりの、きっと今が一番楽しい頃に違いない。
そんな時期に一週間も離れ離れにならなくてはいけないなんて何という苦痛か。父親に遠征に行きたくないなどと言えば、きっと『お前は何を寝ぼけた事を』と怒られるだろう。
魔術師団の兵舎に行けばきっと父から遠征の話を聞かされるだろうし、兵舎へ向かう足取りは重かった……