舞踏会の夜
フローラが嫁いできて、早三か月。夫婦は未だに寝室を分けたままだった。エドリックも、そろそろ一緒に寝ても良いかもしれないと……彼女からの好意を感じながらも、寝室を共にすることを提案してそれを拒否されるのが怖くて言い出せないままだった。
そんなある日、仕事を終え屋敷に帰ってくるとグランマージ家に一冊の本が届いていたと言う話になった。結婚初日、花が好きだと言うフローラのために、植物の図鑑を注文していた。それが今になってようやく届いたと言う。
庭の花も芽吹き始め、ちょうど良かっただろう。そしてその図鑑を持って、二人だけでエドリックの『秘密の場所』へ出かける事に。供も、フローラの侍女アンも同行させず二人だけの外出。逢瀬と言って差し支えなかっただろう。
屋敷を出て馬番に馬を出すように頼めば、エドリックの後を着いていたフローラが言う。
「馬車で行くわけではないのですか?」
「あぁ、道が狭いから馬の方が良い。……私はいつも一人だから馬で向かう事をさほど気にしていなかったが、君も一緒なら馬車の方がいいのか……だが、あの道を馬車で通れるかな」
「あの、エドリック様。私、一人で馬に乗れませんので……」
「私の前に乗ると良い。最初からそのつもりだったけど、嫌かい?」
「そ、そんなとんでもない! 大丈夫ですわ、馬で参りましょう」
エドリックは馬に荷物を積み、それから自分が跨る。そして、フローラを抱き上げるように馬に乗せ自分の前に座らせた。愛馬である『トレック』はいつもより乗せる人間が多いと言いたいようだったが、エドリックは気にせずにゆっくりトレックを歩かせた。
道中、馬に乗った視線の高さにフローラは緊張しているようだったので、自分の身体に寄りかかって良いと伝えた。素直に身体を寄せてくる妻が可愛いと、そう思いながらも少し緊張してしまったのは自分だけではないだろう。
「エドリック様。『秘密の場所』とはどんなところなのですか?」
「泉のほとりで季節ごとに違う花が咲くとは言ったよね。城壁の中……東側には森が広がっているんだが、その森の中にあるんだ」
「森ですか」
「あぁ。……あ、森となると虫もそれなりに出てしまうけど、大丈夫かな」
「虫は嫌いです……」
「そうだよね。悪い、気が利かなかった。行き先を変えるかい?」
「いいえ、あなたの『秘密の場所』に行きたいです。でも虫は嫌です……」
「我々には近づかないよう、彼らにも気を遣ってもらうしかないね」
「まぁ、エドリック様ってば」
フローラはエドリックのその言葉を、冗談で言っていると思っているだろう。だが、エドリックにしてみれば……虫を自分達に近寄らせない事くらいは朝飯前である。
人間のように高度な知性を持った生き物となると話は別だが、そうではない生き物に関しては多少ではあるが行動を操る事ができる。身体を乗っ取り、思い通りに動かす事だって出来る。
いくつもの『非凡な才』を持って生まれた自分は一体何者なのかと、それを考えた事がなかったとは言わない。だが考える事はもうやめた。少年の頃、夢の中にあの男が現れてからは……
「……随分と細い道なんですね」
「この先は道が無くなるよ。だから誰も来ない。無駄な雑音がないから、私が一人でのんびり読書や昼寝をするにはちょうどいい場所でね。ここ数年は忙しくて、年に数回しか行けなかったけれど」
「あなた一人の大切な場所ですのに、本当に私も行って良いんですの?」
「もちろん。我々は夫婦だよ。私一人の場所から、夫婦二人の場所にしたって良いだろう」
「エドリック様……」
「もう少しで着くよ」
そう言ってから数分、細い道は道なき道へと変わり、その道なき道を馬に歩かせる。フローラは森の奥へ向かう不安よりも、どんな美しい場所なのかとワクワクしているように思えた。
きっと、春になったから花がたくさん咲いているだろう。それを見てフローラはどんなに目を輝かせるのだろうと思うと……思わずエドリックの頬が緩む。
可愛らしく愛くるしい妻が喜んでくれるのが、今の自分には何より嬉しい事だと……エドリックは、そう思っていた。
「着いたよ」
「まぁ……本当に綺麗な場所ですね」
木が生い茂る森の中で、突如開けた場所に出る。細い川から繋がる泉のほとり、そこは思っていた通り色とりどりの花が咲き乱れていた。
馬の歩みを止め、エドリックは先に馬を降りる。それからフローラに手を差し出して、彼女を抱きかかえるようにして地面に下ろした。
花が好きだと言っていたフローラは、泉のほとりに咲く綺麗な花々に感動しているようで目を細め口角が上がっている。そんな彼女を横目に馬に乗せていた荷物の鞄から、大きな布を一枚取り出した。
いつもならば倒木に座る事を気にはしないが、フローラの服が汚れるのは困る。いつも腰かけている倒木の上にその布を敷いて、そこに座るよう促した。
フローラが腰かけると、エドリックもその隣に座る。きょろきょろと辺りを見回して、フローラは楽しそうだった。フローラが喜んでくれたのなら連れてきた甲斐があったと、エドリックも瞳を細める。
「あっエドリック様。あの青い小さなお花、可愛いですね」
「そうだね。あの花は、レフィーンには咲くかい?」
「いいえ、咲きません。図鑑に、載っていますでしょうか……」
「載っていたよ、二十七ページだ」
「……本当ですわ。ネモフィラ、と言うのですね」
今日の目的と言えば、取り寄せた植物図鑑を持って、その花の名前を探す事だ。図鑑が届いて、エドリックも中身を一通り見ている。そうすれば、何の花がどこに書いてあるのか……それを覚えてしまうのはもう必然だった。
「悪い、君が探したいよね。どこに載っているか、次からは口を噤んでおこう」
「ふふ、気を遣わなくて構いませんわ。……エドリック様の記憶力は、本当にすごいですわね」
「私にはこれが当たり前の事だから、すごいかどうかはわからない。だけど、皆がすごいと口を揃えて言うから……すごい事なんだろうね」
「すごい事ですわよ。一度見聞きしたことを忘れないだなんて、私信じられませんでした。ですが、こんなに一瞬でどこに何が載っているのかまで的確に把握していらっしゃるのですもの、信じない訳にはいきません」
「だが、私は『忘れる』という事を知らない。それは案外、辛い事だ」
「そう、なんですの?」
「あぁ、良い事ばかりではないよ。忘れたいような辛い事だって、決して忘れる事はできないのだから。記憶の奥底にしまい込んでおく事しかできない」
「……そう、ですわよね」
エドリックのその言葉に、フローラは少しばかり表情を曇らせる。彼女自身、たくさん辛い事を経験してきただろうが……レクトに嫁いできてからはきっと、その事はほとんど忘れていただろう。
彼女は今、毎日楽しそうに過ごしてくれている。最近ではそれだけで、自分に嫁いできたのがフローラで良かったとそう思ってしまうほどだ。彼女の姉を妻にもらっていたら、フローラは今でもきっと一人で寂しく辛い日々を過ごしていただろう。
「気にする必要はないよ。そんなに暗い顔はしないで」
「……はい」
「ほら、フローラ。あの花はなんて言うんだい?」
「もう、エドリック様はわかっていらっしゃるのでしょう? ……ふふ、少々お待ちくださいね。私頑張って探しますから」
フローラはそう言って、図鑑をペラペラと捲って……エドリックが指さした花を頑張って探しているようだ。
彼女のその真剣な顔が愛しいと思えば、つい頬が緩む。じっとフローラを見つめていれば、エドリックのその視線に気づいたのかもしれない。フローラがエドリックの方を見たと思えば、照れくさそうにふいっと視線を逸らした。
「え、エドリック様……あの」
「なんだい?」
「あ、あそこに小鳥がいますわ」
「本当だね」
エドリックはピュウと口笛を鳴らす。それを合図に、小鳥はこちらへ飛んできた。エドリックが手を伸ばせば、エドリックの指先に停まる。
やぁ、久しぶりだねと……エドリックは小鳥にそう頭の中で語りかけた。この子は去年、この森で生まれた子。立派な成鳥になったらしい。
フローラはエドリックの手に野生の鳥がとまっている事に驚いているようだった。
「君には言ってなかったかな。私は人間以外の動物とも、意思疎通ができる」
「そ、そうだったのですか」
「あぁ。この辺りの鳥も、何度も話している。人間の友人はレオンくらいしかいないけれど、ここの鳥たちは皆友のようなものだ」
「……そうなのですね。小鳥さん、いつもエドリック様と仲良くしてくださってありがとうございます」
フローラはそう、小鳥に話しかける。フローラの言葉はこの小鳥には理解できないだろうが、代わりに小鳥には伝えておいた。
フローラがそっと手を伸ばすから、小鳥には大丈夫だよとそう言って。だが、フローラが小鳥に触れても逃げないよう少しだけ意識を拝借して……フローラは小鳥に触れることができて、感動しているようだった。
小鳥はピピッと鳴く。小鳥はエドリックに『今日は一人じゃないんだね』と、そう言った。
「今、鳴いていましたが何か言っていたのですか?」
「久々に来たと思えば、女連れでどうしたんだって言ってる」
「まぁ。では、私があなたの妻であると、教えてさしあげないと」
「そうだね。私は結婚したんだよ、綺麗な女性だろう?」
「まぁ、エドリック様ってば……」
若干意訳したが、小鳥が言いたかった事はそう言う事だろう。いつも一人のんびり過ごすためにこの場所を訪れるエドリックが、今日は女連れでどうしたのかと。
だから妻だと紹介したのだが……小鳥は更に、ピピっと鳴いた。
「え? えーと、困ったな」
「どうかなさいましたか?」
思ってもみなかった小鳥の言葉に、エドリックは眉を下げる。フローラに本当の事を言うべきか少し迷ったが、嘘を吐くわけはいかない。
だが、彼女の顔を見ながらは言えないと……そっぽを向いて、言うのは少し照れくさかった。
「口づけくらい見せてくれないと信じないって、そう言ってる」
「……!」
「……どうしようか」
フローラの方を見ると、彼女も彼女で驚いた顔をしたが……すぐにエドリックの顔をじっと見つめながら、顔を赤くしながら言う。
「エドリック様は……私と口づけるのはお嫌ですか」
その姿が可愛らしすぎて、思わず叫び出したいと思ってしまった程である。エドリックは自分自身の頬に若干の熱を感じながら、冷静を装い答えた。
「……嫌じゃないよ。君は?」
「私も……嫌じゃ、ないです」
その言葉を聞いて、彼女の頬に手を伸ばす。思えば、結婚して三か月経つが……未だに口づけだってしていなければ、寝室だって分けたまま。
ただ朝一緒に食事を取って仕事へ行くのを見送られ、屋敷に戻ってくれば出迎えられまた夕食を共に食べて……夫婦とは言っても、夫婦らしい事など朝晩彼女を抱きしめる事くらいしかしていない。
彼女の唇を親指でなぞれば、フローラの薄く開いた唇から『あっ』と声が漏れた。彼女は耳まで赤くなっていて、その姿はとても可愛らしいとそう思った。
「……無理していないかい?」
「していません。エドリック様こそ……」
「私は、嘘はつかないよ。……目を閉じてくれるかい?」
エドリックのその言葉に、フローラはゆっくりと瞳を伏せる。緊張しているのか、ガチガチに固まっているのが良くわかった。
フローラの背に手を添えるようにし、目をぎゅっと閉じる妻の顔に自分の顔を寄せる……ゆっくりと彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
柔らかいと、そう思ったのと同時に……ずっとこうしていたいと、そう思う。触れていたのは本の僅かな時間だったが、フローラからもエドリックへの好意を感じ取るには十分だった。
(なぜ、フローラは私に好意を寄せてくれているんだろうか。夫婦だから? それとも……)
ゆっくりと、唇を離しながら考える。夫婦だからと、それ以外の理由があるとすれば……他人に好かれるのは初めての事で、それは純粋に嬉しい事だ。そして、それは今自分が想いを寄せている相手なのだから、有頂天にだってならざるを得ないだろう。
エドリックも、顔が赤い。フローラが瞳を開く前に、彼女を強く抱きしめた。
「エドリックさま……」
「今、この顔を君に見せる訳にはいかない。表情が落ち着くまで、少し待って欲しい……」
「……はい」
フローラの手が、エドリックの背にそっと添えられる。愛しい、愛しいと……フローラの気持ちがエドリックの中にどんどん流れ込んできて、しばらく表情は戻りそうになかった。
好きだと、そう言うべきだろうかと……エドリックは悩みながらもそれを口にはしない。言えばフローラは喜んでくれるかもしれないと、そう思いながら……時期尚早だと、そう思って。
だが、その夜から毎朝毎晩の日課に触れるだけの口づけが増えた。夫婦と言えどもどかしい距離感のままではあるが、二人にはちょうど良い歩幅だったであろう。
それから、数日後の夜。エドリックは正装し、着飾ったフローラと共に馬車に乗って城へと向かっていた。宴に参加するつもりはなかったのだが、王子の誕生祝いの席に呼ばれていた。
……そう、参加するつもりはなかった。だからフローラにも招待状を貰ったことは言わなかったのだが、フローラはつい先日グランマージ家を訪れたレオンに聞いたらしい。
レオンに今日の宴……舞踏会に参加するよう説得してくれと、彼女はそう頼まれたのだろう。本当は行くつもりはなかったが、フローラに頼まれた以上少しだけ参加することにしたのだ。
着飾った彼女を見たいと言う気持ちが一番だっただろう。それは事前の衣装合わせを兼ねた練習で先に叶った事ではあったのだが、今日の彼女は先日よりもさらに可愛らしく見えた。
馬車の窓から城へ向かう道のりを眺めているフローラの横顔に、エドリックは思う。こんなにも可愛らしい妻を、欲の塊である貴族達の前には出したくない、と……
「エドリック様、お城が見えてきましたわ」
「あぁ、そうだね」
「エドリック様はいつもいらしているから、珍しくもなんともないのですね」
「職場だからね」
「私、いつも遠目で見ているだけでしたので……」
「でも、君の生家だって大きく立派な建物ではないのかい? 公国を治める、大公の屋敷だろう?」
「えぇ……確かに、それはそうなのですが。ですが、レフィーンとレクトでは建物の造りも随分違います。レクトのお城と、レフィーンのお屋敷も趣が違いまして」
「そうか。レフィーンは常夏の国だから、冬の雪の事を考える必要もない」
「はい、どちらかと言えば暑さ対策を重視していたのだと思います。レフィーンは海辺の国ですから、鉄を使うと潮で錆びやすいと言う話も聞いた事がありますわ」
「……海か。レフィーンの海はとても澄んでいて綺麗だって話だったね」
「とても綺麗ですわ。エドリック様にも、いつかレフィーンのあの青い海をお見せして差し上げたい……」
言いながら、フローラは少しばかり目を細める。フローラが嫁いできて三か月だが、その三か月の事は『たったの三か月』と言うのか『もう三か月』と言うのか……彼女がレフィーンを恋しいと思っている事はエドリックにはわかる。
彼女にとっては辛い思い出が多いだろうとは言え、やはり生家は生家。国を追い出されるように自分の元へやってきて、誰も知らない環境でこの三か月寂しくもあったのだろう。
エドリックはできるだけ優しく微笑んで、そして優しい声でフローラに声を掛けた。
「私もいつか行ってみたいよ、君が生まれたレフィーンへ。君と一緒に、青く美しい海を見てみたい」
「はい、機会がありましたらぜひ参りましょう」
フローラもそう言って笑ってくれる。エドリックはそのフローラの笑顔に愛しさを覚えながら、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「……エドリック様、どうかされましたか?」
「嫌かい?」
「いいえ、そんな事ありませんわ」
「そうか、それなら良かった。……君があまりに可愛らしいから、つい」
「もう、褒めても何も出ませんわよ」
ふふっと笑うフローラが可愛いと、そう思っているうちに馬車が止まる。どうやら城に着いたようだ。馬車の扉が開き、エドリックは馬車を降りる。そして自分に続くフローラに手を貸してやると、フローラはその手を取って馬車を降りた。
フローラと共に居る事で、エドリックの緊張は解けていたのだろう。ふいに周囲の声が……『雑音』が、頭に響いてきた。
『ジルカ男爵だ』『なぜ死神が、今日この場に』『いやだわ、怖い……』
『ジルカ男爵は結婚したと聞いていたが、あの女性が奥方か? よくもまぁ、あのジルカ男爵に嫁いだものだ』『美しい女性なのに、勿体ない』
エドリックは、それらの言葉を遮断する。自分に向けられる嫌悪の声には慣れているが、フローラに対する好奇の声は無性に腹が立った。
「……エドリック様、お気になさらないでくださいませ。誰が何を思おうが、私は気にしませんから」
フローラはエドリックの表情だけで、何を考えているのか察したのだろう。そう言いながら、エドリックの腕に自分の腕を絡めてくる。
確かに、気にする必要はない。既にフローラは、エドリックの妻としてどう振る舞うべきか……それを理解していた。夫婦となって三か月、まだ本当の夫婦とは言い難い。それでも、確かにフローラはエドリックの妻だった。
この三か月のうちほとんどは、毎朝毎晩少し顔を合わせるだけの関係でしかなかったと言え……彼女は既に、エドリックの事をよく理解してくれていたのだろう。
「ありがとう、フローラ。さ、城の中へ行こう」
「はい、エドリック様」
そう言って微笑むフローラはとても可愛らしく、そして貴族としての所作の美しさも持ち合わせている。やはりレフィーンの公女と言うからには、礼法など厳しく躾けられていたのだろう。
同じくらいの年の貴族令嬢は、結婚している娘とそうでない娘が半数ずつくらいであろうが……もしも彼女が未婚の令嬢であったのなら、恐らくはあちこちの家の貴族の男が真っ先に彼女へ寄ってきただろうと、そう思わせる。
「あの建物が魔術師団の兵舎だよ」
「では、エドリック様はいつもあそこでお仕事をされていらっしゃるのですね」
「そうだね」
「……覗かせて頂く事は?」
「兵舎を見たって楽しいものはないよ。それより、反対側を見てごらん。あっちは見事な庭園だろう?」
「本当ですわ。色とりどりのお花が綺麗……」
王室お抱えの庭師が毎日丁寧に手入れをしている見事な庭園を横目に、エドリックはフローラと共に先に進んだ。
相変わらず進む先々で貴族たちの冷ややかな視線を感じるが、彼らが考えている事は……『雑音』は全て遮断している。何も気にすることはない。
「おぉ、エドリックではないか」
「……殿下。このおめでたい日に、私のような者までお招き頂いて……ありがたき幸せに存じます」
「社交辞令は良い、よく来てくれた。そちらの女性が、貴公の奥方か」
「はい。レフィーン大公の四女でフローラです」
大きな広間にたどり着いたと思えばその直後、今日の主役である第一王子に見つかる。エドリックは礼をして、フローラも同じように深々と礼をした。
「フローラ、こちらの方が本日の主役であるリチャード殿下だ」
「はじめてお目にかかります、王太子殿下。エドリックの妻でフローラと申します」
「ふむ……なんと美しい女性だ。貴公もこのように美しく品のある女性を娶って、鼻が高かろう」
「殿下、私は外見の美醜で人を判断いたしません。ですが、彼女は私には勿体ないくらい素敵な女性です。実際、そこらの貴族たちは『なぜジルカ男爵に』とそう思っていようかと」
「はは、彼らには指を咥えさせておけ。して、貴公が結婚したのは三か月ほど前だったか。励んではいるのか?」
「……励んで、とは?」
「何を無垢な事を。子作りに決まっておろうが」
「それは……子は、神の御心に任せておりますので」
まだしていないとは、言いにくい事だ。だがエドリックは、嘘をつかない事を信条にしている。だからどちらとも取れる様な、曖昧な言葉で濁しておいた。
隣でフローラは少し頬を赤くしていたので、王子の目からはそれなりにはしていると……そう見えていた事だろう。
実際のところ、エドリックはフローラとの関係を進めたいとは思っている。自分が父親になる姿は想像できないが、彼女と共に寝るようになれば子供ができるのだってきっと自然な事だろう。
だが……フローラからの好意を感じていても、それでもまだ……共に寝る事はない。自然に言い出す機会を逃している事もそうだが、フローラの『心の準備』が出来ていないと、それも感じている。
自分自身、今まで女性と遊んでこなかった事もあり……彼女のその『心の準備』がどうすれば整うのかもわからないままだ。
「夫婦円満に過ごしていれば、子はそのうちできるだろう。勿論、狙ってできるものではないからな」
「えぇ、殿下の仰る通りです」
「とはいえ、グランマージ家は我が王家の分家でもある。その血を絶やさぬよう、尽力してくれ」
「仰せのままに」
そう言ってエドリックは、リチャードに頭を下げる。フローラも同じように、ぺこりと頭を下げた。リチャードは満足気に微笑んで、エドリック達の前から去っていった。
……他の貴族や国王とも多少の挨拶を済ませた後、会場がざわめく。何かと思えば、広間にやってきた一組の男女が注目を浴びているようだ。
それは、レオンとエミリアの姿。次期エクスタード公であるレオンは、どこへ行っても注目の的だった。整った顔立ちに、さらさらの金髪。騎士として鍛えた身体は、服を着ていてもその肉体美が想像できる。
高い身長、すらりと長い手足……そしてその彼の腕を取り横に立つエミリアと言えば、将来の公爵夫人として恥ずかしくない立ち振る舞いだった事だろう。
「エドリック様、エミリア様とレオン様ですわ」
「そうだね。二人が到着して、皆の注目はあの二人だ。少し話をしたら、私たちは静かに過ごさせてもらおう」
エドリックはそう言いながら、フローラの腰を抱き寄せレオン達の方へ向かう。近づいてくるエドリックにレオン達も気づいたようで、エミリアと二人こちらを見た。
「お義姉様!」
「エミリア様、とても可愛らしいですわ」
「お義姉様、この間と髪型は変えたのね。今日の髪型もとても似合っているわ」
「ありがとうございます」
にこりと微笑む妻が可愛らしいと、エドリックは頬を緩める。そんなエドリックの顔を見て、エミリアは明らかに怪訝そうな表情を浮かべた。
彼女は未だに信じられないのだろう、エドリックが女性を見つめて優しく微笑む姿など……
「エミリア、殿下のところへご挨拶に伺おう」
「そうね、レオン。じゃあ、お義姉様またね」
「はい、また後程」
「……そろそろ音楽が始まりそうだね。フローラ、踊るかい?」
「はい、勿論」
そう言った直後、優雅な音楽が広間の中に広がる。その音楽の始まりに合わせ、エドリックはフローラの手を取った。向き合い、彼女を抱き寄せ足を動かし……踊りは得意ではないが、形にはなっていただろう。
フローラは流石レフィーン公女と、そう言うべきだっただろう。彼女のおっとりとした性格から、こんなにも上手に踊れるとは想像はできなかったが……先日少し練習したその時に、明らかに彼女に引っ張られているとそう感じたものだ。
「皆が君に注目しているよ」
「まぁ、そんな事は……」
「あるよ。こんなにも可愛らしく美しくて、踊りも上手で……おまけに一緒に居るのが私なんだから」
「……卑下なさらないでください」
自虐気味に笑って言えば、フローラは少し眉を下げる。いつからだろうか……エドリックは自信家ではあるものの、自虐的になる事も多かった。
やはり『怪物』『死神』などと呼ばれるようになってから……自分へ向けられる視線が、好奇や侮蔑などが混じった物になったからだろう。それまでは天才だと、神童だと言われ誰もがエドリックの事を賞賛していたと言うのに。
結局、二曲ほど踊ったところで遮断していたはずの『雑音』のせいで頭がクラクラとしてしまい城を去る事にしたのだが……屋敷に戻る馬車の中で、エドリックの腕に自分の腕を絡めて頬を寄せるフローラがとても幸せそうにしていたのを見て、たまには悪くないと……エドリックはそう思いながら、空いた右手でフローラの頬に手を添える。
どうしたのかとエドリックの顔を見上げたフローラの、その唇にそっと自分の唇を重ねれば……あぁ愛しいと、その想いで胸がいっぱいになった。
「エドリック様……」
「すまない、君があまりにも可愛らしいから」
「もう……何度も言いますが、褒めても何も出ませんわよ」
「何も要らないよ、君がいてくれればそれだけでいい」
そう言って、もう一度口づける。フローラからも、エドリックの事を愛しく思ってくれているその気持ちが……触れた唇を通して、切ないほどに感じていた。