氷解
このお話はオリジナル小説「カルテット・サーガ」のスピンオフです。
未読でも本作は読めますが、第4章までは読んで頂いても良いと思います。
※第5章には本作の内容に係る重要なネタバレがありますのでご注意ください。
カルテット・サーガはこちらのURLからご確認ください。
→https://ncode.syosetu.com/n9766hv/
また「嫌われ公女と嫌われ男爵の結婚」と交互にお読みいただくのがおすすめです。
「嫌われ公女」第2話はこちら→https://ncode.syosetu.com/n9363ii/2
レフィーン公国の第四公女・フローラがレクト王国貴族グランマージ家に輿入れしてきたその翌日。エドリックは朝の準備を済ませてから、隣の……妻の部屋を訪ねる。扉をコンコンと叩けば、侍女の声。『私だ』とそう言えば、扉はゆっくりと開いた。
「おはよう、昨日はよく眠れたかい?」
「おはようございます、エドリック様。はい、お陰様でぐっすりと」
「それは良かった」
フローラも既に、身支度は済んでいるようだ。彼女の部屋へ足を踏み入れる事はせず、彼女が部屋から出てくるのを待つ。そうして、フローラが扉のあたりまで出てきたところで、両手を少し広げた。
昨夜の、毎日朝晩の挨拶の時に抱きしめると……その約束。フローラは少しばかり照れ臭そうにしながらエドリックの目の前に立って、エドリックはそんな彼女を優しく抱き寄せる。
夫婦として共に過ごせば情も沸くだろう。愛の無い政略結婚だからと言って、何も彼女を愛してはいけない訳ではない。エドリック自身は既に彼女に心奪われているが、彼女の気持ちはまだ自分にはないはずだ。妻として、夫の事を愛そうとはしてくれているようではあるが……
その彼女の愛を、一日でも早く自分の物にしたい。だから提案した。幸いにも生理的に無理だと、そうは思われてはいない。だからこうやって、触れる機会があれば少しずつ心を開いてくれるのではないだろうかと……
夫婦なのだから、初夜を求めたって良かった。だが、自分に気持ちのない彼女を無理やり抱いたって、嫌われるだけだろう。自分が彼女の立場だったら嫌だと、そう思っての事。彼女が嫌がる事はしたくない。
それが、彼女に嫌われないためには一番大切だろうと……。今まで女性と遊んでこなかったエドリックには、女性の扱いはわからない。だが恋愛を描いた小説の男性主人公と言えば、皆結ばれる事となる女性には紳士的な態度で接していたのだから、きっと彼らのように紳士的でいれば嫌われることはない。
エドリックの頭の中は、まるで膨大な図書館だ。一度見聞きしたことを、エドリックは決して忘れない。彼の辞書に中に『忘れる』と言う言葉はない。
勿論、記憶の片隅に追いやられている事はあるにしても……誰がいつ何を言ったのか、一字一句違うことなく思い出せる。エドリックの持つ『特殊能力』の一つである。
だからエドリックは読書が好きだ。新しい物を、新しい考え方をどんどんと取り入れていく。彼は本から取り入れた膨大な知識の中から、彼女にどう接していいかを考えた結果、とにかく彼女の前では紳士でいようとそう思ったのだ。
その日、エドリックとフローラは市場まで出かけた。彼女に街を案内しようと言ったら、果物が好きだとそう言ったから。
正直、この季節に果物なんて売っているのかと疑問ではあった。普段、自分で市場まで買い物に行く機会なんて滅多にないから、冬に果物が売っているのか……
だがその疑問は取り越し苦労だったようで、軒先に林檎の入った籠を置いている店を見つける。南国で生まれ育ったフローラは林檎を見た事も食べた事もないようで、不思議そうな顔をして林檎に触れていた。
「……これは、本当にこのまま食べられますの? 硬くて歯が折れてしまったりしません?」
「心配しなくて大丈夫だよ。ご主人、こちらの籠を一つ」
「はい、毎度あり。……あの、ジルカ男爵様では?」
「そうだけど、何か」
「い、いえ……。男爵様自ら、こんな市場で買い物など珍しいと……」
「そうだね。『怪物』は買い物なんてしないだろうから」
「か、『怪物』なんてそんな、男爵様に向かってとんでもない……!」
「いいよ、誰が何を思おうが気にしていない。お代はこれで足りる?」
「は、はい……今お釣りをご用意します」
『怪物』とは、一体誰が言い出したのだろうか。だが、エドリック自身その名は自分にピッタリだと……そう思っている。
自分が周囲の人間と違うと気づいたのは、まだ幼い頃だった。年齢としては物心がついたかどうかと言う頃だろうが、彼自身『物心』と言うものは存在しない。この世に生まれ落ちてから……いや、一番古い記憶は、母の胎内まで遡る。
勿論まだ赤子のうちは大人の話す言葉の理解はできなかったが、脳内の……心の声もたくさん聞こえた。人の過去も全て見えた。それが異常な事だと、それを知ったのはまだ四つの時。
唯一祖父の過去は見えなかったし、彼の心の内は読めないが……祖父がエドリックを抱きながら『お前には、たくさん辛い事を経験させてしまう。我が孫に生まれてしまって、可哀想にな……』と小さく呟いたのがきっかけだった。
今になって思えば祖父も何か『見える』人なのだろう。だからエドリックからは、祖父の心が読めない。過去も見えない。だが祖父のその言葉をきっかけに、エドリックは幼いながらに理解した。
グランマージ家は、エドリックの『特殊能力』を外には隠した。だからエドリック自身も他言する事はなかったし、勝手に流れ込んでくる他人の心や過去を見ないよう聞かぬよう遮断する事も覚えた。
だが、いつしか彼の能力の事は広まっていった。五歳で初めて魔法を使った時には『神童』と称えられたが、他人の事を丸裸にしてしまう能力は人々を畏怖させ……いつしか『怪物』と、そう呼ばれるようになっていたのだ。
今では街中の皆が知っている。更には尾ひれ背びれが付いた噂も広まっているらしいが……いちいち相手にしていたら疲れるだけだと、エドリックはもう気にするのをやめた。
この店主も、きっと色々な噂を信じているのだろう。ある事ない事、ひっくるめて。
「あの方がジルカ男爵らしいぜ……」
「人の心が読めるって噂のか?」
「あぁ。それに何でも、男爵が触れた人間は魂を抜き取られ、目が合うと気が触れちまうとか」
「恐ろしい……なんでそんな人がこんな場所に」
……心の声は遮断できても、ひそひそと話す言葉は耳に入る。もう気にしてはいないとはいえ、やはり良い気はしない。
だが、フローラが初めて来た市場で買い物を楽しんでくれるならそれで良いと……そう、思っていたのだが。道行けば人が後ずさって新しい道が出来てゆく。その道を進もうと思った、その時だった。フローラが立ち止まる。
「エドリック様」
「うん? どうしたの?」
フローラの方を振り返ると、フローラはエドリックの目をじっと見つめてから再び歩き出す。
そして、エドリックの左腕に右手を添えた。
「……フローラ?」
「そこの貴方たち、先ほど何か仰っていましたわよね」
「え? いえ、何も……!
フローラはそう言って、群衆の中をキッと睨みつけた。きっと彼女の耳にも、根も葉もない噂が聞こえてしまったのだ。全く、雑音にしかなり得ないものだが……
だが、人々の根の葉もない噂を聞いて、フローラは怒った。自分の夫への侮蔑の言葉が許せなかったのかもしれない。彼女が睨みつけた方に居た男がそそくさとその場を立ち去って見えなくなるまで……フローラはそちら側をじっと睨んでいる。
彼女の気持ちが嬉しかった。彼女自身のためなのかもしれないが、こんな『怪物』のために怒ってくれたのかと。つい笑みが漏れる。
「……エドリック様? どうして笑うのですか」
「いや……これは面白いと思ってね。私は良い妻を貰ったな」
「笑い事ではございません! あんな根の葉もない噂、何か言い返せば良いではありませんか!」
「良いんだよ、言いたい奴には言わせておけば。ありがとう、フローラ。君のその気持ちが嬉しいよ」
「エドリック様……」
「さあ、そろそろ屋敷に帰ろう。身体も冷えてきてしまっただろう? 屋敷に戻って林檎のパイを焼いてもらわないと」
「……はい」
エドリックの腕にフローラの手が添えられたまま、馬車へ向かう。馬車まで戻れば、彼女を先に馬車に乗せ自分はその隣に座った。
外を歩いたせいで、彼女の手は冷え切ってしまっていただろう。フローラに手袋を用意してやらねばとそう思いながら、エドリックは自分の手袋を外しフローラの手を握った。
フローラは少し驚いた顔をしたが、それも一瞬。驚いた顔も愛らしいと、そう思ってしまったのは恋に落ちたばかりであるが故に仕方がない事だろう。
馬車の中でフローラは、先ほどの噂を言う人々に不満があるようだった。だから自分が他者より優位な立場でいたいと言うのは人間の本質だろうと、そんな話をした。
エドリックの話に、フローラも何か思う所があったのかもしれないが……エドリックの言いたい事は理解してくれただろうと、そう思った。
その日、夕食の席では甘味として林檎のパイが振る舞われる。屋敷に戻って来てから生のままで一つ林檎を剥いてもらって食べたが、生のままとは違った食感と味わいにフローラは感動しているようだった。
昨日出会って、この時まで……彼女の笑顔が偽物だったとは思ってはいない。だが、林檎のパイを食べた時のその表情が、一番の笑顔だったであろう。
「とても美味しいです」
「そうだね、紅茶にもよく合うだろう?」
「はい。生で食べても美味しかったですが、私はこちらの方が気に入りました」
「良かった。ではまた今度作ってもらおう」
「……兄様、なんか気持ち悪い」
「エミリア、何がだい?」
「なんだか私の知っている兄様じゃないみたい。お義姉様が可愛らしいからって、デレデレしちゃって」
「デレデレしているつもりはないけれど……。折角我が家に来てくれたんだ、大切にしたいと思って悪いかい?」
「悪くはないけれど……」
共にパイを食べながら、エミリアは言う。確かに、エミリアから見れば昨夜からの自分はおかしく映るだろうと……自分でもわかっている。
レフィーンと繋がりを持つためだけに娶った妻。彼女が純粋で美しくて……元々は、こんなに優しくするつもりも予定もなかった。どうせ嫌われるだろうと、そう思っていたから。
だが、初めて自分に向かい合ってくれる女性と出会った。穢れを知らない真っ白な彼女に、素直で純粋で愛らしい彼女に恋に落ちた。だから必死なのだ、嫌われないようにするにはどうしたら良いのかと。
きっと、エミリアにはこの気持ちは永遠にわからない。何があってもエミリアだけを愛してくれる、完璧な婚約者がいる彼女には……
「エミリア様から見て、エドリック様はどのような方ですの?」
「……変な人」
「まぁ、変な人だなんて……」
「良いよ、フローラ。本当の事だ」
「正直、どうしてレオンが兄様と親友なのかがわからないわ。レオンだって、きっと私の兄だから仲良くしているだけじゃないのかしら」
「そんな事はないよ。お前は、レオンの事を何もわかっていないのか? フローラ、レオンと言うのは私の友人でエミリアの婚約者だ。我が国の軍務大臣であるエクスタード公爵家の子で、エクスタード家は代々騎士団長を勤めている家なんだ。我が国きっての名門貴族だよ」
「そうなのですか……」
「兄様、レオンの事を何でも知っている風に言わないで」
「レオンの事は何でも知ってるよ。お前よりも」
「……そんな事ない。レオンの事は私が一番知ってるに決まってる」
「そう言う事にしておいてやるよ」
そう言えば、エミリアは気を悪くしたのか席を立つ。林檎のパイは既に完食した後だったようだが、紅茶は飲みかけのまま。
エミリアが食堂を出て行くのを見送ってからふぅとため息をついてみれば、フローラはエドリックに問いかけた。
「……エミリア様と、仲がよろしくないのですね。昨日も……」
「うーん、そうだね。難しい年頃……なのかな。どちらかと言えば、エミリアには一方的に嫌われてる」
「そうなのですか……」
「君は仲良くしてあげて。エミリアは、『優しいお姉様』が欲しかったみたいだからさ」
「……はい、もちろんです。でも私も妹ですから、姉になるのは初めてで……」
「君の『理想の姉』を演じてみれば良いさ」
……本当ならば『君が姉上達にしてもらっていたのと同じように接してくれればいい』と、そう言うべきだっただろう。同性の、特に姉妹となれば仲が良い事が多いらしいと言う事は知っている。
だが、レフィーンでのフローラの扱いを知っていたエドリックには、そんな事は言えなかった。かと言って彼女の過去を盗み見て、兄姉達に邪魔者にされてきた事を知っていると言う訳にもいかない。
フローラにとっての『理想の姉』と、そう言うのが精いっぱいだった。
「理想の姉、ですか?」
「あぁ。君は姉上が三人いるけど、それぞれ性格も違っただろう? 理想と現実は違うから、もっとこうしてほしかったとか、こういう事をされて嫌だったとか……そう言うのがあるんじゃないかい?」
「……そうですわね」
「君がされたかった事はエミリアにしてやって欲しいし、嫌だったことはしないでやって欲しい。それで、理想の姉になれないかな」
「……頑張ってみますわ」
フローラは微笑んだが、その微笑と言えば少しばかり無理をした笑顔にしか見えなかった。やはり、姉達の事を思い出すのは嫌なのだろう。嫌な想いをさせてしまったと、後悔する。
だが、フローラ自身はエミリアと仲良くなりたいと思ってくれているようではある。彼女が姉達と仲良くなかった分、新しくできた義妹とは仲良くなりたいと……それは本心なのだろう。
仲の良い姉達の事を羨ましく思っていた。そんな感情が、彼女からは見える。見ようと思ったわけではない。ふと、それが入り込んできた。
「君とエミリアが仲良くなってくれれば、私とエミリアももう少し歩み寄れるかな」
「どうでしょう……ですが、私がお二人の架け橋になれるのだとしたら、それはとても嬉しい事です。……なぜ、エミリア様はエドリック様の事を嫌っているのですか?」
「単なる嫉妬だよ。あいつは負けず嫌いなんだ。五歳も年の差があるし、男女の違いもある。私にはできてあいつにはできないことが、幼い頃からたくさんあった。それでもあいつは、私と肩を並べたがっていた。エミリアが身体に紋章を刻んで魔法を扱えるようになって……それからはもっと顕著になったと思う。魔術師として、私の足元にも及ばないのが気に食わないんだろう」
「まぁ……そんな事情でしたの」
「それと、私とレオンの仲が良い事も気に食わないのかもしれないね。あいつはさ、レオンの一番じゃなきゃ嫌なんだ。確かにレオンは私の事を特別視してくれているとは思うけれど、レオンにとって何よりも大切なのはエミリアであって、それは何があっても揺るぎない事をあいつはわかっていない」
「……レオン様。エミリア様の婚約者で、エドリック様のご友人なのですね」
「あぁ、そうだよ。レオンは頻繁にエミリアに会いに来るから、きっとそのうち会えるさ。だが、君を……できる事なら彼には会わせたくない」
「なぜ、ですか?」
「レオンは格好良いからね。それでいて紳士で、立ち振る舞いも上品でさ。彼は間違いなく、国で一番のモテ男だよ。君が彼に惚れてしまったらどうしようって」
「そんな心配を? 私はあなたの妻になったのです。どんなに素敵な男性が現れようとも、主に誓った夫婦の契りを違うような事は致しませんわ」
「……そう言ってくれるなら、安心して会わせられる。私にとっても彼は唯一の友だ。レオンは私と君の結婚の事も気にかけてくれていたし、できるだけ早く紹介するよ」
「はい」
それから、二人で部屋へ戻る。フローラの部屋の前で彼女を抱きしめ、おやすみとそう挨拶を交わしエドリックは自室へ。
昨夜同様、まだ残っている彼女の温もりを感じれば自然と頬が緩んだ。明日は何をしようか、どこへ行こうかと……最後の休暇をどう過ごそうか考える。
できれば彼女が楽しんでくれるところへ、笑ってくれるところに連れて行きたい。そう考えた時に、人の多いところでは今日の二の舞になるかもしれない。
あまり人の多くない、のんびりできる場所……どこが良いかと、エドリックはそれを考えるが名案は思い付かない。どこが良いかと思っているうちに、眠ってしまったようだった。
翌朝、フローラと向かい合い朝食を食べていると使用人の一人がエドリックの横にやってきた。彼はエドリックの耳元で、小さく告げる。フローラは何を話しているのかと言うような顔をしていたが、彼の言葉を聞いてエドリックは『わかった』とそう言う。
彼を下がらせると、エドリックはフローラに向かい合った。
「朝食を食べ終わったら、行かなければいけない用事が出来てしまった。昼前には戻るけど、それまではエミリアとお茶でもして過ごしてくれないかい?」
「え……? はい、わかりました」
何をしにどこへ行くのか、フローラはそれが気になるような声色だった。だが、何をするためにどこへ行くのか……まだ、フローラには言えない気がした。
「戻ってきたら、どこかへ出かけよう。どこか行きたい場所はある? 私も夕べどこが良いかと考えたんだけど、どこが良いか思い浮かばなくてさ」
「えっと……エドリック様がお戻りになるまでに考えておきますわ」
「あぁ、そうしてくれ」
エドリックは食事を終え外套を羽織って外へ出ようとすれば、フローラは屋敷の玄関まで見送ってくれた。彼女が来てから三日目、ずっとそばに居た。彼女を一人にするのは初めての事。
明日からは仕事があるのだから彼女を屋敷に置いて行く事にいちいち胸を痛める訳にはいかないのだが、まだ慣れない環境にいる中で一人取り残される彼女の気持ちを考えると後ろ髪を引かれるのは確かだ。
「行ってくる」
「はい、お気をつけて」
だが、フローラがそうふんわりと笑顔を浮かべて言ってくれる事はとても嬉しかった。見送られるのも悪くないと、そう思いながら用意されていた馬に跨り屋敷を後にする。
……向かった先は、既に大勢の人が集まっていた。
「……みんな趣味が悪い、一体何が楽しいのか」
エドリックはそう言いながら、その場所から少し離れた場所で馬を止める。馬から降りる事はせず、ただその中心を見つめ……ここはとある広場。普段、刑場として利用されている。
広場の中心には、処刑台が設置されているところだった。その処刑台を囲むように、たくさんの人々が集まってきている。
今日は、処刑の日であった。エドリックは魔術師団に所属する傍ら、裁判官でもある。主に重い罪を犯した犯罪者の裁判に関わり、刑を決める。重罪を犯した者ほど、自らの刑を軽くしようと嘘をつくからだ。
今日、処刑台に上がる事になる男もそうだった。強盗・殺人・麻薬取引に人身売買……悪い事は一通りやってきたような男で、彼の過去やってきた事は見るに堪えなかったが……真実を明らかにするため、その過去を見ない訳にはいかない。
ただ利己のための数々の悪事……極刑は当然だっただろう。エドリックは、自分が担当した犯罪者の刑は見に来ることにしていた。だから彼の刑が今日になると、使用人が情報を持ってきたので急遽刑場へ来たのだ。
処刑を、人間の首が飛ぶところを……血が噴き出すのを楽しむために来ているわけではない。刑を与える立場にいる者として、その刑が終わるのを見届けるのも責任だとそう思っている。
だが、民衆たちにはただの娯楽。他の裁判官達も刑を言い渡すだけ言い渡して、その瞬間を見届けには来ない。エドリックの持つ『責任感の概念』に照らし合わせれば、刑を見に来ない他の裁判官達には呆れるばかりである。
特に刑が、重ければ重い程……その刑を決めた自分が手を下すわけではない以上、見届ける義務があると……そう思っているのだが。
「カルロス・サンディー……罪状はシャイード侯爵家に侵入して窃盗、並びに彼を発見した使用人二名の殺害。いわゆる強盗殺人が主だったが、取り調べの中で共犯の男の証言から過去には麻薬の取引に人身売買、更には娼婦三名の殺害に関与している事が判明……。過去の罪状については完全に否認、物的証拠もない。本来ならシャイード家への強盗殺人だけで裁かれるはずだったが……私が彼の裁判を担当したことで、娼婦の殺人について被害者は三名から七名まで増えた」
シャイード家への強盗殺人は、重罪だ。だが、極刑まではいかずとももう少し軽い刑で終わるはずだっただろう。それが、エドリックの暴いた真実が彼の刑を斬首へと導いた。
……だからこそ、彼が刑を全うするその瞬間を見届けねばいけないと……そう思っている。
処刑は処刑人一家、アーノア家の仕事だ。裁判官達は、どんなに残虐な刑であっても、その刑を言い渡すだけ。その犯罪者がどのように刑を受けるかなんて、その姿を見た事も考えた事もないだろう。
斬首刑に処すると、そう言うのは簡単だ。だが首を刎ねる側がどのような想いで剣を振るうのか。免れぬ死を待つ罪人はどのような表情をするのか……なぜそれらを見届けないのか。エドリックは理解に苦しむ。
処刑台が完成し、一人の男が連れて来られる姿が見えた。彼はカルロスではない。エドリックは担当していない、もっと軽い罪状だろう。エドリックは、彼の顔をじっと見つめると数日前の裁判の様子が頭の中で再生された。
「窃盗の常習犯で、鞭打ちか……」
処刑は一種の娯楽。昨日、フローラへもそう言った。だから一番盛り上がる、重い刑は最後のお楽しみなのである。軽い刑の者から、その刑は執行される。
エドリックとは年齢のそう変わらない、アーノア家の次期当主となるギルベルトと言う男が鞭を持って処刑台に上ってくるのが見えた。
……広場に響き渡る悲鳴、絶叫。処刑が進み、刑が重くなってくれば辺りには血の匂いも漂うようになった。エドリックは表情を変えることなく、処刑台とは少し離れた場所から……馬上から処刑が進むのをただじっと見つめていた。
そして、今日斬首となるカルロスがついに処刑台に上がった。後ろ手に縛られたまま、処刑台の中心に座らせられる。首を落としやすいように少し下を向かされ……彼の表情は既に死んでいた。
ギルベルトの父親であり、現在のアーノア家当主であるジェイク・アーノアが大きな剣を上段から振るえば、人間とはいとも簡単に死んでしまうのだと……エドリックはそれを痛感する。
ジェイク・アーノアは左手に血塗られた剣を持ったまま、右手で刎ねたその首を……髪の毛を鷲掴みにして民衆へ見せるように胸の高さへと掲げた。
沸き起こる歓声。人が一人死んだと言うのに、盛り上がる民衆たちに気持ちが悪いと……そう思いながら、エドリックは静かにその場を去った。
処刑を見た後は嫌な気持ちだ。だが自分が極刑を与えた以上、目を逸らす事は出来ない。胸の中に少しムカムカとした感情を覚えながら、グランマージ家の屋敷へと戻る。
「エドリック様、おかえりなさいませ」
「あぁ、ただいま。ごめんね、一人にさせて」
「……いいえ。ずっと外にいらっしゃったのですか? お身体が冷え切っていますでしょう。すぐに何か暖かいものを用意して頂いた方が……」
そう言うフローラを、エドリックは何も言わずに抱きしめた。当然、フローラは驚いていたが……今はただ、彼女の温もりが恋しい。
「エドリック様……?」
「少しだけ、こうさせて欲しい」
「……はい」
彼女は暖かい、春の日差しのようだと思った。今が冬本番で、これから少しずつ暖かくなり春が近づいてくる。
季節が春になるよりも一足先に、エドリックの凍り切った心を彼女が溶かしてくれそうだと……エドリックは、そんな事を想いながらフローラを抱きしめるその腕に力を込めた。
フローラは、ただエドリックにその身を委ねてくれる。そっと、彼女の細い腕がエドリックの背に回された。
「……どうかされたのですか?」
「いや……何もなかったと言えば何もなかったのだけれど、何と言って良いかわからない」
「そうですか……」
「だが、君がいてくれてよかった」
「……エドリック様」
「フローラ、約束通り君の行きたいところへ連れて行くよ。紅茶だけ一杯、飲ませてくれるかい?」
「はい、エドリック様」
「誰か、暖かい紅茶を淹れてくれないか。私の部屋に持ってきてくれ」
フローラから離れ、そう使用人に告げる。すぐに用意すると返事が返ってきて、エドリックは一度自室へ向かおうとしたのだが……フローラが、エドリックの横に並んでそっと腕を絡めてくる。はにかむようなその表情が、とても愛らしかった。
「……お部屋にご一緒してもよろしいですか?」
「あぁ、もちろん」
自分の左腕に顔を寄せるフローラの、その頭を撫でる。フローラは笑いながら言った。
「もう、私は子供じゃございませんのよ」
「妻の頭を撫でてはいけないかい?」
「いいえ、そんな事はございませんけれど……」
「ではいいじゃないか」
「……はい」
雪解けは、春は近い。エドリックは……そう思わずにはいられなかった。