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特別編:神となった男 ②ただ一人の男として

「おやめください……あなたは『神』となったのです。人々が夢に見た……大陸の始祖である全知全能と呼ばれる神ゼウスが任じた、人の神……」

「そんなの関係ない。私は、君の夫に変わりはない」

「私は……『神の妻』になる覚悟がありません。そんな重い立場は私には、私などには務まりません」


 神となったのは……贖罪もあるが、それよりも何よりもフローラのためだった。彼女と共に生きるために、十五年歩んだ道を捨て時を戻した。

 フローラは死後の記憶が残っていないとは言え、彼女のこんな言葉を聞きたかった訳じゃない。

 ただフローラがいつも笑顔でいてくれればいい。彼女が若くして亡くなる事はなく二人で子供達の成長を見守って、いつか子供たちが結婚すれば孫が生まれるのを心待ちにして……そして老いてその命が尽きる時には何も悔いを残すことなく、苦しむことなく安らかに眠ってほしい。

 それだけがエドリックの望みで、それだけの為に時を戻した。ただただ、彼女のため。自分とフローラが共に生きるため。

 しかし、今フローラはエドリックを拒絶している。いや、愛が消え失せた訳ではない。ただ自分の夫が神となった事に……その重圧に押し潰されそうになってしまっているのだろう。

 フローラのこの拒絶は、エドリックにとっては何よりも残酷だった。だから抱擁を拒むフローラを、更に強く抱きしめる。自分を拒ませたりなどしない。自分には、彼女しかいない。


「……違うよ、フローラ。君は『神の妻』になる必要はない」

「ですが」

「君は、私の妻だ。エドリックという、一人の人間の妻なんだ。私という『個』の隣に、君がいてくれればそれだけでいい」


 フローラの瞳から、涙が零れるのがわかった。彼女の顔は自分の胸に押し当てるようにしているから、エドリックの服がフローラの涙で滲んできているだろう。


「でも、大陸中の皆があなたの事を『神』と呼びます。屋敷の前にだって、何百何千と言う人が集まっていたでしょう? 皆、生き人神となったあなたの事を一目見たくて集まったのです。あなたが私に『神の妻』を求めなくても、人々はそう求めるのです」

「それなら彼らには私から説こう。君は『神としてのエドリックの妻ではない』と。『エドリックと言う一人の人間の妻』だと。私は、神となったって何も変わっていないよ。一人の人間で、君の夫で、子供達の父親で……何があっても、それは変わらない。だから君も、変わらないでいて欲しい。私の妻でいてほしい。私を愛していて欲しい」


 エドリックはフローラの背を撫で、フローラはエドリックの胸のあたりの服を握る。震えたまま、微かな嗚咽と鼻を啜るような音が聞こえる。


「我が家を神殿にするつもりもないし、子供たちも神の子にはしない。今君のお腹の中にいる子だってそうだ。だからフローラ、泣かないでくれ。これからも今までと同じように、私の隣で笑っていて欲しい」

「エドリック様……」

「ゼウスが私を神としたって、私の心は何一つ変わらない。フローラ、ただ君だけを愛してる。君と共に、これからも年を重ねていきたいんだ」

「……神となって、あなたの時は止まっていませんの? 不老不死を賜ってはおりませんの?」

「それは拒否した。私は君と共に年を取りたい。君や子供達が年を重ねる隣で、自分だけが今この姿のままで永遠の時を生きるなんて……そんなのはごめんだよ」

「私、怖かったのです。あなたが今の姿のまま永遠を生きて、私だけが年老いて死んでゆくのが」

「フローラ……」

「愛していますわ、エドリック様。私は『神の妻』ではなく『ただのフローラ』として……あなたの隣に居たい」

「もちろん、ずっと隣に居てくれ。『神エドリック』ではなく『ただのエドリック』の妻として。私が愛しているのは『ただのフローラ』だ。美しさの中に可愛らしさを秘め、素直で純粋で優しい私の妻……三人の子の母である、ありのままの君だ」

「来年には、四人の子の母になりますわ」

「あぁ、そうだね」

「……お帰りなさいませ、エドリック様」

「ただいま、フローラ」


 ようやくフローラが微笑んでくれて、エドリックもつい微笑みが漏れる。彼女の額に口づけて、強く強く抱きしめた。このぬくもりを、二度と離さないと誓いながら……神ではなく、一人の男として。

 そしてフローラも、エドリックの抱擁を二度と拒まなかった。その抱擁は神と人としてではなく、夫と妻として……愛しあう男女として、いつも当たり前に行ってきたただの抱擁に近いものだった。

 世界がどれだけエドリックの事を称えようと、エドリックにとって一番大切なのは今この腕の中にいてくれる愛しいぬくもり。それを再確認しながら、エドリックはフローラの頬に手を添えた。


 それからしばらくの間は、言うまでもなく大変な日々だっただろう。グランマージ家の周囲は常に神を求める人たちで溢れ、使用人が買い物に行く事すら困難な日もあった。

 取り急ぎグランマージ家の周囲には、騎士団と魔術師団による警備が敷かれることになる。外出が難しいため、魔術師団には使い魔を飛ばし指示を出していたほどだ。

 使い魔を使役する事のできなかったエミリアが、必死に訓練をして使い魔を使役できるようになりやりとりは幾分かマシになったが……

 当然と言えば当然だったがエドリックは屋敷を出られるような状態ではなかったため、わざわざ国王までもがグランマージ家までやってきて今後の去就について確認されたほどである。

 魔術師団の団長は続ける。グランマージ家の商売も続ける。神としては何をすべきか、まだ明確ではないが……それはこれから考えて行こうと思うと、国王にはそう伝えた。


 エドリックは『屋敷を神殿にはしない』と言ったものの、他にエドリックへ向けて祈る場がない以上それは難しい課題だった。

 単に各地にある教会で祈ってくれれば良いのにとエドリックは思ったが、グランマージ家に神がいる以上……神に直接祈りを捧げたくなるのが、信仰心の厚い者たちの考える事である。

 そのため教会から枢機卿たちと高位司祭を呼んで、今後『神』として信徒たちの前に立つ場を作る事を約束した。そうする事で、信徒たちがグランマージ家を訪れる事を抑えるのが目的だ。

 更には神殿を建てる事が決まり、神殿が完成するまでの間は聖ヴェーリュック教会にある大聖堂を『神エドリックの間』として定め臨時の神殿とすることに決まった。

 毎朝一時間ほどの祈りと講話。それと週に一日は終日を神として過ごす『祈祷日』とし、信徒を集め祈りを捧げるだけでなく集まった信徒達と対話する場を持つ事に。

 初めてその日を迎える時には、希望者が殺到して大変な事になってしまったのは言うまでもない。そのため、それ以降の祈祷日については参加できる者に厳密な決まりを決めた。

 特に、金で席を買えない事は貴族たちの不満を買ったのだが……エドリックは元来貴族嫌いである。信仰してくれなんて頼んでいないのだから、不満があるなら信仰しなければ良いだけの話だとそう言い放つ姿にフローラは笑っていた。

 そして教会や、この後建立される神殿に居て『法衣を纏っている時以外は神ではない』と……エドリックは信徒達にそう告げる。一人の人間として、夫として父として、魔術師団の団長として、商売人として過ごす日々はこれまで通り過ごさせてほしいと言って。


 また、週に一度『神の安息日』を作ってほしいと、『神』にも休暇をと願い出た。よほどの緊急事態でもない限り、この日だけは神としての務めを免じてほしいと国王と枢機卿に強く申し出たのだ。そしてその願いは、正式に認められた。

 この日は朝の祈りすらない。家族と過ごすための一日。フローラと子供たちとともに、ただのエドリックとして静かに時を過ごす。

 信徒たちにも、『神の安息日』にエドリックの姿を見ても『神だ』と反応しないようにと、そうお触れが出されたほどである。

 勿論家族で出かけ買い物なんてすれば、店主は『神が来た』と心の中ではそう思っていただろう。周囲の人間も『神がいる』と皆思っても、エドリックの意向はきちんと守られ特別な待遇を受ける事はなかった。

 条件反射的に神を崇めてしまう人もいない訳ではなかったが……だからと言ってそれを咎める事はしなかったし、むしろ周囲の人々が『今は神ではないのだ』と、そう窘めてくれたほどである。

 神扱いされない唯一の日。それは神になる前と、何ら変わりのない日常。神になっても、家族と過ごす日常だけは変わらなかった。それが、エドリックにとって一番の幸せだった。



「ゼウスよ、神とは一体何なんだ? 今私がやっている事は、教会の司祭たちと大して変わらない。信徒と共に祈りを捧げ、懺悔を聞き、悩みを聞き……悩める彼らの、未来は見える。だが、その未来を伝える事が彼らにとって良い事なのかも、見えた未来へ進むことが正しい事なのかもわからない」


 ある時、エドリックは聖ヴェーリュック教会の大聖堂でゼウスに尋ねた。エドリックの呼びかけに、どこからか狼が一匹現れ一歩ずつ青年の姿へと変わっていく。それは、あの日……エドリックが神となった日と同じ光景。

 今エドリックはこの大聖堂に一人。信徒たちは皆帰した後。もしも信徒がいれば、ゼウスはきっと姿を現さなかった。ヴァレシア教には元々サタンを除き十二の神がおり、教会ごと信徒ごとに最も信仰する神も違ったが……その中でも、圧倒的な支持を集めていたのはゼウスだっただろう。

『人間の神・エドリック』が誕生したことで、神に会う術ができたことでエドリックの支持者は他の神よりも一気に増えただろうが、それでもきっとゼウスには敵わない。

 だから彼は、自分が人間達の前に出れば大混乱を極める事を知っている。だから姿を現すことは……まず、ない。だが今はエドリックと言う神の、神と言う同列の存在からの呼びかけに姿を現してくれた。


「神とは何か……それを問うた時点で、そなたはすでに『神』なのだ。エドリックよ、神とは何か……この問いに唯一の答えはない」

「答えがない?」

「無数にある、という意味だ。そなたは『人を裁く神』にも『時を操る神』にも『ただ家族を愛する神』にもなれる。神とは、誰かに認められてなるものではない。己が望みを世界に問う者が……いずれ、そう在るようになるのだ」

「私の望みは……ただ一つ。妻と共に年を重ねることだ。それを叶えるために、十五年の時を戻した。確かに前世では、サタンを滅した事で人間の神の復帰をあなたが許してくれるならば……神となって天の国へいるだろう妻に会おうとそう望んではいた。

 だが十五年の時を戻して、サタンを滅ぼしてすべてが終わるならば……神の座など、望まなかった。私はあの時、魂だけで逃げたサタンを追う力を与えてくれとそう言ったではないか」

「確かにそなたは、神の座を望みはしなかった。だがそなたは『妻と共に生きたい』と言う、最も利己的で自己中心的な望みを叶えるために人生をやり直した。確かに、サタンの消滅は我ら神々の望むところでもあり……そのために、そなたの望みを利用したことは認めよう。

 だがそなたの身勝手な願いのために、前の生とは異なる道を歩む者が大半なのは理解できるだろう。十五年の時を戻さぬ方が、幸せに暮らせた者も中にはいるだろう。その者達へ、そなたは何をしてやれる?」

「それは……何も、できない」

「そうだろう。だからこそそなたは神として、人間達に寄り添うがいい。我ら他の神々も、人間達の目には見えない形ではあるが……彼らの生をより豊かにするため動いてはいる。本来であれば、我々神が人間の世界に直接干渉することは出来ぬが……そなたは神となった人間として、直接人間達に声をかける事ができる」

「確かに、それはそうかもしれないが」

「完璧を目指す必要はない。人間らしさも時には必要だ。そなたは人間らしく過ごし、神が身近な存在であると……そう、民たちに説けば良い」


 そこまで言ったとき、ゼウスはフッと姿を消した。言いたいことだけ言って去ってしまったのかと思ったのだが、そうではなく……人の気配をいち早く感じたのだろう。ギィィと重厚な音を立て、大聖堂の扉が開く。


「エドリック様、そろそろ教会も門を閉める時間となります」

「そうか、そんな時間か。では私もただの人間に戻って、妻と子の待つ我が家へと帰ろう」


 エドリックを呼びに来た司祭の言葉に、エドリックは白い絹に金糸で美しい刺繍が施された法衣を脱いだ。その瞬間、エドリックの『神』としての時間が終わる。


(私はガリレードの力を受け継いだことで、未来が自分の目で見えるようになった。複数の選択があった際に、どれを選べばどうなるか……それすらも見える。この力は使わぬ方が良いと思っていたが、場合によっては有用か。かつてガリレードが、私に予知夢を見せ未来を伝えていたように)


 かつてガリレードに見せられた未来の事を『こんな能力、いらなかった』とそう嘆いた。だがこの力を、今を悩む人々の為に使えるのであれば……それはきっと神として、自分が成すべきことなのだろうと……そう思いながら大聖堂を後にした。




「何か良い事でもありましたか?」


 その夜、フローラがエドリックの腕の中でそう尋ねてくる。当初は神の妻になる覚悟がないと言ってエドリックを拒んだ彼女が、神の妻ではなくエドリックの妻として腕の中にいてくれる……それは最も喜ばしい事だ。


「私の神としての在り方が、少しだけわかったような気がしてね」

「そうですか。神とは何かと、そう仰っておりましたものね」

「あぁ……私は、皆と語ることができる。神となってからは人の未来も見えるようになったから、きっとより良い選択も導けるだろう」

「もしも良くない未来が見えたら、どうしますの?」

「その道をゆかぬよう、助言してやればいい。未来は一つじゃないからね。道はいくつでも用意できる。どの道を進めばどんな結果が待っているか……その一つ一つだって私にはわかるんだから」

「……なんだか、不思議です」

「うん? 何がだい?」

「私、嫁いできてすぐにアンにあなたがどんな人か聞きましたのよ。他人に興味がなく、人間が嫌いな冷徹な方と……アンは最初、そう言っていました」

「そうか。だが、あの頃の私にその評価は間違ってないだろう」

「人間が嫌いなのは、その後もずっとですわ。正確に言えば、私利私欲の為に平気で嘘を吐く人が嫌い、ですが……。そんなあなたが、神として人々を導くことを考えていらっしゃる」

「君と出会って君を愛して、人の親になって……私だって成長したんだよ」


 そう言って笑いながら、フローラの頬に触れる。フローラも微笑むような表情を見せて、それから瞳を閉じた。唇を重ねる。夫婦として、すでに何度も繰り返してきたこと。

 今はまだフローラの腹にはエリーゼがいるから、それ以上の事をするつもりはないが……エリーゼが生まれた後はどうだろうと、ふと思った。

 フローラと身体を重ねたい。それはエドリックの男としての本能ではある。だが自分の肉体は二十八歳に戻ったにしても……実際には、精神的には四十三歳だ。

 フローラとの年の差が、気になる。肉体としては一歳差だし、貴族の夫婦には親子ほどの年の差がある事だってあるので、気にする必要はないと言えばそうかもしれないが……精神的には十以上ある年の差が、彼女との歳の差に妙な戸惑いを覚えてしまう。

 それに交われば、また子ができる可能性がある。エリーゼは自分が神になる前に身籠った子だからともかく、次フローラが身籠ったら?

 以前のガリレードの予言はすでに覆しているが、神としての力が子に及んでしまったり……そもそも神の子を受胎して、フローラの身体は問題ないのか? など、気になることだってある。

 未来を見る事はできるが、だがそれを確認するのは怖くもあった。だからと言って……夫婦の営みと言うのは子を授かるための神聖な行為と定義されている以上、神である自分が妊娠を避けて行為に及ぶ訳にもいかない。


「エドリック様……? 何か、難しい事を考えていらっしゃいますか?」

「いや? 君を抱きたいなぁって」

「ま、まぁ……! ダメですよ、今は……私のお腹には子がいるのですから」

「わかってるよ。だから我慢してるだろう?」

「……神様に我慢を強いるなんて私、罪深い女ですわね」

「本当だよ。……だが、全ては君を愛しているからこそだ。そこに神も人も関係ない」


 もう一度フローラに口づける。愛しい、愛しいと……触れる度、そう思う。今度は絶対に、途中で道を違えたりしない。その想いを込めて、強く強く抱きしめた。



「ゼウスよ、聞きたいことがある」


 翌日、早朝。エドリックは聖ヴェーリュック教会の大聖堂にいた。『神としてのエドリック』となるための、白い法衣を肩に掛けて。今日の祈りと講和までにはまだまだ時間があるが、司祭たちは追い出してある。

 エドリックの呼びかけに、どこからともなくスッと……狼が現れる。そしてエドリックに一歩近づくたびに、その狼は青年の姿へと変わっていった。


「今度は何を問う」

「……今、妻の腹には子が宿っている。その子は、私が神になる前にできた子だ。だから私の神の力は及ばない。だが、もしも更に子が出来たら……? その時は子に、そしてその子を宿す妻に、影響はないのだろうか?」

「お前は神の力を手に入れ、未来が見えるようになった。自分で確認すればよかろう」

「……怖いんだ。もしも何か影響がある未来が見えてしまったら。例えば神の子を宿してしまったせいで妻が苦しんだり、そのせいで命を落とすような危険があったり……そんな未来を見るのが怖い。もしもそんな未来が見えれば子を成さない選択をするが、私の目にはその光景が焼き付いてしまう」

「……神の子か。前例はある」

「サタンの子か? だがサタンはゼグウスの王となり、子を持ってから神となったと……そう、伝えられている」

「奴ではない。シルヴィアだ」


 シルヴィア。彼女は人魚マーメイドで、元々は愛と美を司る美しい女神だと言われている。

 彼女は神話の中で、唯一『亡くなった』事が描かれている神だった。生の世で死しても神々は天の国で過ごしているのだろうが、神の中で人間以外の種族は皆長命であり……エドリックがサタンの封印を解くのに手をかける事になったガリレード以外には、生の世での死が描かれているのは彼女だけだろう。


「シルヴィア……。彼女は人間の男へ恋をして、その叶わぬ恋を嘆いて自死を選んだのでは?」

「人間の世には、美しくも儚い恋物語として伝わっているようだが事実は違う。シルヴィアは頻繁に海を出ては己の身体を人間の娘へと変化させ、人間達に紛れて生活していた。そんな中で一人の男に恋に落ち……その男の子を身籠った」

「それは、神話には書かれていない」

「そうだろう。神が『弄ばれた』など醜聞だ。シルヴィアが恋をした男は、甘い言葉で美しいシルヴィアを虜にしたが……男にはただの遊びだったのだ」

「……」


 エドリックは相槌すら打たず、ゼウスの話に耳を傾ける。母が神で父が人間。自分とフローラとは逆の立場。しかも、神である母が人魚と言う、種族の差もある。

 シルヴィアの子が何の影響もなく生まれていたとしても、自分たちとは前提が違う……参考にはなるかもしれないが、その通りと言う訳には行かないだろう。


「男は美しいシルヴィアを自分の物とし、周囲の男からの羨望に優越感に浸っていたのだろう。相手が神だとも知らず……。だがシルヴィアが男に子を身籠った事を告げると、男は態度を豹変させた。それでやっと、シルヴィアは自分が騙され遊ばれていたことに気づいた」

「……そして絶望し、自死を選んだと?」

「そうだ」

「……シルヴィアが身籠っていた子は、どうなったんだ?」

「シルヴィアが自死した時、子は生まれるには早かった。まだまだ母の胎内でなければ生きられない時期だった」

「ではシルヴィアの死と共に、その子も死んだのか?」

「いや、その子は死ななかった。シルヴィアは自分を弄んだ男を憎んだが……しかし、腹の子には愛情を持っていた。だからこそその子はシルヴィアの加護をもって、死んだシルヴィアの胎内でそのまま育った」


 身体は死しても、なお腹の子だけは守りたいと……それがシルヴィアの選んだ道だったと言うのか。

 しかしいくらシルヴィアが神だとしても、死んだ身体でなおも子を育て続けるとは……神秘的ではあるが、なんと恐ろしい話なのかと思ってしまう。


「子は、ネフィリスが取り上げた。シルヴィアの遺体の、腹を裂いてな」


 ネフィリスは、狐人族フォクシャの女神である。彼女は冥府の番人と呼ばれ、生と死や輪廻を司る神だ。

 生は彼女の領域……だからこそ、ネフィリスがシルヴィアの子を取り上げたのだろう。


「子は娘だった。シルヴィアによく似た、美しい娘となり……人魚族マーメイドの力ももちろん持っていたが、外見は人間と何ら変わりない。成人するまではネフィリスが面倒を見ていたが、成人後彼女は人間として生きる事を選んだ」

「シルヴィアは、生の世では死んだとはいえ神だ。天の国にはいるのだろう?」

「あぁ。よく我が子の事をネフィリスに聞いていた。彼女は死した身だから、神とはいえこの生の世へ関与はできぬからな」

「それで、シルヴィアの子はその後どうなったんだ?」

「何、少し普通の人間より長寿ではあったが人間として過ごして生を全うしたさ。結婚し、子供を産み……その子孫は今でも生き続けている」

「そうか。神話になるほど古い時代に生まれたシルヴィアの血統が今でも途絶えていないと言うのも、すごい話だ」

「エドリックよ、知らぬのなら知らぬままで良いと思っていたが……教えてやろう。そなたの妻こそ、そのシルヴィアの血統だ」

「……なんだって?」

「愛と美を司る悲劇の女神、シルヴィア……。彼女は美しい銀髪に、琥珀色の大きな瞳をしている。そなたは彼女にまだ会っていなかったから気づかぬのも無理はないが、シルヴィアはそなたの妻とよく似ているぞ。人間達の中で交配してきたことで人魚族マーメイドの血はもう無いが、そなたの妻の母が人魚族シルヴィアの子の血統にあたる」


 知らなかった。神話の挿絵、教会や大聖堂の壁画や石像……そこに描かれる神々は著者たちの想像でしかなくて、シルヴィアの髪の色が美しい銀髪であることも、瞳が琥珀色であることも。

 フローラのあの美しい髪色も瞳も、そしてその美貌も……女神シルヴィアの血統が今もなお生き続けている事の証だったのかと……


「そうだったのか……」

「神の血と言うのは、やはり強いのだろう。今までの系譜を見ても、女系女子にはあの銀髪と琥珀色の瞳の発現率が高いように思える」

「これから生まれてくる子は、まさにそうだ。十五年前の、前世で見てわかっている。妻に瓜二つの可愛らしい娘になった。そう言えば、妻の母上も銀髪で琥珀色の瞳だった。あれは、シルヴィアの血がもたらすものだったのか。上の娘は髪色こそ私の色が混じっているが、瞳は琥珀色だ」


 エドリックは、納得した。エルミーナは顔こそグランマージ家の血が濃く出たが、髪の色は銀髪交じりの薄い青色だ。瞳の色はフローラと同じ琥珀色。そして何より可愛らしい。

 そしてフローラは……美と愛の女神・シルヴィアに似ていると言うし、彼女のあの慈愛の深さもシルヴィアの血筋ゆえの事だったのだろう。

 幼い頃から孤独で……家族に愛されることを知らないで育ったと言う、家庭環境ゆえの反動ももちろんあっただろうが……その根底には、女神・シルヴィアの血が眠っていた事の影響がきっと多い。


「だからという訳ではないが、そもそも『人間同士』なのだし心配する必要は無い。神の子も、人の子となんら変わりない。そなたの神の力が母体に負担をかけるのではと心配しているのなら、それはそなた自身が加護を与え保護してやれば良かろう」

「加護を、与える……。しかし、私は神として人間達と直接関与する以上、むやみやたらに人々へ未来を見せたり、加護を与える事はしてはいけないとそう思っている。そんな事をすれば人々は考える事を辞め、神にすがるだけの存在となってしまうだろう。それに妻に加護を与えたら、神の妻だから特別なのだと……妻がそう、言われてしまう」

「特別の何が悪いと言うのだ。そもそも、そなたの妻はそなたにとって特別な存在であろう? 今更な事を言うでない」


 ゼウスはそう、あたかも当然だと言う顔で言った。それでエドリックは、思わず笑ってしまった。


「なぜ笑う?」

「いや、その通りだと思って。私にとって、妻は誰よりも特別な存在だ。特別扱いしたって、誰にも文句は言わせない。ありがとう、ゼウス。心が軽くなったよ」

「うむ。では我は戻るぞ。そろそろ、そなたの信者たちも来る時間だろう」


 ゼウスに礼を言えば、ゼウスは姿を消す。ここに到着した直後に出してもらった紅茶をグッと飲み干して、エドリックは今日の祈りと講和を始める事にした。

 今日も、一日が始まる……だが多忙なエドリックにとって、一日と言うのはあっという間に過ぎてしまう。

 気づけば夕方になって仕事は終える時間で、魔術師団の夜勤の部下へ指示を出して……愛しい家族の待つ我が家へと、帰路を向かう事になるのだ。



 その後しばらく経って、年が明ければフローラは女児を出産した。前世と同じく、エリーゼと名付ける。やはりフローラにそっくりなエリーゼは可愛らしい。妹が出来て、エルミーナとエドガーが特に喜んでいた。

 エルミーナはすでに弟がいるから、妹が欲しかったらしい。エドガーは、早く兄になりたかったらしい。前世では見られなかった、エリーゼ出産直後のフローラと子供達の様子を見られたことも嬉しかった。

 そしてガリレードが言っていたように、レクトで出産したフローラは産褥熱を患うことなく……死の病に侵されることなく、小さくて可愛いらしい子供を授かった事を幸せそうに笑っている。

 それが何より嬉しくて……エリーゼを優しく見つめて微笑むフローラの姿を見て、エドリックの瞳が思わず熱くなった。


「エリーゼは、君によく似ていてとても可愛いね」


 ある夜、寝台の隣に置かれたゆり籠の中で眠るエリーゼの頬を撫でながら、フローラへ言う。フローラは慈愛に満ちた瞳でエリーゼを見つめていたが、エドリックの顔を悪戯に覗き込んだ。


「それは、私も可愛いと言う事ですか?」

「そうだね。君はとても可愛いよ」

「……褒めても、何も出ませんわよ」

「昔も、そう言われた事があったね。あれは王太子殿下の誕生日の宴に招かれた時だ」

「ふふ、そんな事もございましたね。懐かしいです」


 思い出話ができるほど、長い時間を共に過ごした。改めてそう思えば、感慨深いものがある。

 フローラが女神・シルヴィアの血統だと言う事は……フローラ本人には伝えていない。伝える必要もないと、そう思っている。

 エドリックはフローラの隣に腰かけて、フローラを抱きしめた。フローラは素直に応じてくれて微笑み、エドリックの瞳をじっと見つめる。フローラはいくつになっても、美しい。可愛らしい。そう思いながら、ゆっくりと顔を近づける。

 唇を重ね、身体を強く抱きしめ……エリーゼの出産後、フローラが元気でいてくれることが何よりも嬉しかった。前世では、何度その夢を見たか。

 ガリレードの死後に予知夢は見ない。だからそれは本当にただの夢で、願望で……叶う事のない事だった。


「……エドリック様?」


 思わず瞳が熱くなっていたエドリックに気づいたのか、フローラが首を傾げる。『どうかされましたか?』とそう言って、フローラの細い指がそっとエドリックの頬に触れた。


「なんでもないんだ、ごめんね。君がこうして、私の隣にいてくれることが嬉しくて」

「私は、ずっとあなたのそばにおりますわ。確かに一度は、神となったあなたの妻でいる事への重圧であなたを拒んでしまいましたが……。今更どうされたのです?」

「……本当は君に、この事を言うつもりはなかった。ゼグウスへ向かったあの日、長い夢を見ていたと……そう言ったことを覚えているかい?」

「はい。あの朝、エドリック様は急に意見を変えられて……私にも、レフィーンへは行かなくて良いと仰いましたし」

「俄かには信じられない話だろうから、私の夢の話だと聞き流してくれてもいい。夢を見ていたような感覚ではあったが、あれは夢ではないんだ。私は現実の世界を君よりも十五年先へ進んで、そしてやり直すためにあの朝に戻ってきた」

「……どういう事ですの?」

「やり直す前の人生で私は、ゼグウスへ行ってそのままゼグウスへ留まって……君はレフィーンへ行って、そして……」


 言葉が詰まる。フローラは不思議そうな顔をしながら、エドリックの次の言葉を待っていた。微かに震えた手を、そっと握ってくれる。


「何か恐ろしい事があったのですね。あなたはとても強い方です。そんなあなたが、震えてしまう程の恐ろしい事が」

「あぁ。……君は、レフィーンでエリーゼを出産して……私はゼグウスにいたから、君の出産の際に近くにいてあげる事ができなくて」

「……はい」

「君はエリーゼを生んだ後、産褥熱で死んでしまった……」

「え……?」


 それは、フローラには思いもよらない言葉だっただろう。驚いて声が出ない、そう言いたそうな顔をしていた。フローラの琥珀色の瞳が、大きく見開かれている。

 あの時の事を思い出すと……今でも辛い。フローラの死を、その瞬間を看取れず……自分がフローラの死を知ったのは死後三か月も経ってから。その後過去に遡って死を看取りに行ったが、今際のその姿は今でも目に焼き付いている。


『エドリック様、お会いしたかった……』


 虚ろな瞳も、あの弱々しい声も。溢れてきた涙が、頬を伝う。震える身体で、フローラを抱きしめた。フローラの身体も、小さく震えていた。

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