フローラの足跡
レフィーンへ向かうため、朝早くにエドリックは三人の子供と共に馬車に乗る。結局昨夜はほとんど眠れず、一睡もせずという事ではなかったが頭がぼんやりとする。
昨日フローラの死を聞いて動転して、その事実を受け入れる事はできなかったが……少しだけ眠って、その事実は変わらないと言うのを少しだけ受け入れられたような気がした。
フローラ以外の家族揃っての外出、そしてエドリックが昨日『母上に会いに行こう』と言っていたことでエルミーナとエドガーはフローラに会えると思っているようでウキウキしていた。
体調が優れないフローラは病気が治るまで外出させられないため、彼女をレフィーンに置いてきたとそう思っているとエミリアは言っていた。毎日のように『いつお母様を迎えに行くの?』と、エルミーナがそう言っていたと……
王都を出て少し経ったところで、エドリックはエルミーナとエドガーへフローラはもうこの世にいない事を説明することにした。
『死』とは何か。それを幼い子供に説明するのは非常に難しい。フローラは病気が治らなかった事、そのせいで亡くなってしまった事……もう会えない事を二人に伝えれば、二人ともわんわんと泣いていた。
「おかあさま、もうあえないの? そんなのいや!」
「ははうえに、あいたい!」
二人とも、母が恋しいのはわかっている。エドリックだってフローラが恋しいのだ、子供達が母親を想うのは当然だろう。少し大きくなったエルヴィスだってまだ母親が恋しい年頃なのに、エルミーナとエドガーはもっと幼いのだから。
「おかあさまにあいにいくって、おとうさまいってたのに!」
「そうだね、確かにそう言った。……母上に会いたいね。父上だってそう思うよ。でも、母上はもういないんだ。母上のお墓に、母上が安らかに眠れるようお祈りをしに行くって、父上はそう言う意味で言ったんだよ。君達にはまだ難しい表現だったね。ごめん」
大泣きしているエルミーナとエドガーの二人を抱きしめながら、背を撫でた。フローラ亡き今、父親として自分がこの子達にしてあげられる事は何があるのかと考える……
やはり、再婚して新しい母親を用意すべきなのだろうか。だが、この子達が求めているのは『母親と言う存在』ではなく『母親であるフローラ』なのだ。
代わりの母親を用意したところで、この子達が求める物とは違う。再婚相手にも失礼だ。だからやはり、再婚と言う選択肢はない。子供達が寂しくないようにフローラの分まで側に居てやることが、エドリックにできる事なのだろう。
しかし今、エドリックは魔術師団を任される身でもある。多忙であると言えば多忙で、どこまでその時間が取れるか……最優先は子供達だとは思うが、現実問題そう簡単ではないだろう。
「エルミーナ、エドガー。母上に会いたいのはみんな一緒なんだ。泣いていても母上は帰ってこないし、母上が天国で心配してしまうから……だからいつまでも泣いてるんじゃない」
エルヴィスが、エルミーナとエドガーにそう言い聞かせる。エドリックは、その事に驚いた。エルヴィスだってまだ幼いのに、こんなにもしっかり者に育ってくれたのかと……
更にはエドリックの膝の上で泣いていた二人のうちエドガーを自分の膝に座らせ、背中をトントンとしてやってくれていた。良い子を持ったと、エドリックはその姿に微笑む。
この子たちはきっと、兄妹力を合わせて乗り越えてくれるだろうと……だから安心してほしいと、フローラの墓前でそう伝えようと思った。
「義兄上、ご無沙汰しております」
「エドリック卿、よく来たな。子供達も、少し前に会ったがまた大きくなったな」
「……フローラの件、大変お世話になりました」
「あぁ、フローラの事は残念だった。まずは墓へ案内しよう。……墓はレクトへ移すと思っていたが、それで良いか?」
「はい、そのつもりです。レクトに墓を用意できるまで、もう少し待って頂けますか」
「それは問題ない」
レフィーンの領主館へ着けばフローラの兄、長兄のルドルフが迎えてくれた。まずはフローラの墓へ案内してくれる。将来的には墓はレクトへ移すのだろうと思っていたとのことで、フローラの墓は仮墓所としてこじんまりとしたものだった。
墓石にフローラの名と、生年月日と没日が刻まれている。レフィーンの綺麗な海が見え、穏やかな風が吹く良い場所で……。この穏やかな風は、いつも朗らかな笑顔で暖かいフローラのようだとそう感じたのはエドリックだけではないかもしれない。
皆で手を合わせ、墓前に祈る。幼い子供達も、皆真剣に祈ってくれたのを見てまた涙が溢れてしまいそうだった。
「……遺髪と指輪を預かってもらっていると聞きました」
「あぁ。それと……すまない、子供たちには聞こえないように話したい。耳を貸してくれるか」
「? はい……」
ルドルフがエドリックの耳元へ。何を言いたいのか、その心を読んでも良かったが……そうする事はしなかった。
「フローラの遺体だが、ここに埋葬はしていない」
「……なぜですか?」
「別の場所で保管してある。子供たちは使用人達と遊ばせて、貴公一人を案内しよう。子供達に見せるかどうかは貴公の意思で決めて欲しい」
フローラは死後三か月が経っている。更には埋葬もしておらず、この常夏の国では既に腐敗しているのではないだろうかとエドリックは疑問に思う。
フローラの父が眠っていた聖廟は地下に作られておりひんやりとしていたような記憶もあるが、フローラの遺体もそこにあるのだろうかと……それでも、腐敗は進んでしまうのではないかとそう思った。
「みんな、父上は伯父上と話がある。少し皆で遊んでいてくれ」
一緒に居た使用人に子供たちを預け、ルドルフの案内する方へ着いてゆく。思った通り聖廟へ案内されたが、外よりも涼しいとは言え遺体は徐々に傷むだろう。
だが、以前来た時よりも更にひんやりとしている気がするのと合わせ……魔力を感じる。魔術師がなにか細工をしたのかと、そう思いながら後に続いた。
「この柩だ。開けてみると良い」
「……フローラ」
エドリックは案内された柩の蓋をゆっくりと開ける。感じた魔力はこれだったのかと、エドリックは納得した。そこに納められていたフローラの遺体は、氷漬けにされていた。
確かに、氷漬けであれば遺体は腐敗しない。安らかな寝顔は、いつも見ていたフローラの寝顔そのもので……
「これは……エディオン叔父上ですか?」
「あぁ、そうだ。エディオン氏に依頼して」
数年前にレフィーンに金山が発見された際、グランマージ家でその金山の採掘権を買い取った。金の採掘、その後の精錬、販売に至るまでレフィーンの金事業はグランマージ家で独占しているのだが、その指揮を執っているのが父の弟……グランマージ家の三男であるエディオンだ。
エドリックの叔父にあたるエディオンは、現在レフィーンに移住している。元は家業の商売をレクトで手伝ってもらっていたが、その延長で金事業は彼にほぼ任せていた。レクト王国での流通は、次男・エヴァンとエドリックの仕事であるが。
そのエディオンは金事業の傍ら、この氷が貴重なレフィーンにおいて氷屋を始めていた。魔法で氷を作り、それを必要な人に必要なだけ売る。元手もかからず安価で提供しているため、氷は飛ぶように売れてかなりの利益が出ているようだ。
「この氷は溶けないように作ってもらった」
「この空間で魔力を感じたのはこの氷自体に魔法が掛かっているからですね。……フローラ、美しいままで……まるで眠っているようで、この氷さえ解ければ起きてくれそうなのに」
「最期の数日は氷を口に含ませる事しかできず、何も食べる事ができていなかったから少し頬もこけているが……それでも、綺麗なままのフローラを貴公に見せてやりたかった」
「ありがとうございます、義兄上。子供達には、もう少し大きくなったら見せてやろうと思います。……この状態じゃ、墓の造りも少し考えなくてはいけませんね。国に帰ったら父と相談します。氷を一旦、消しても良いですか。すぐに復元しますので」
「あぁ。……私は席を外そう。少しの間、フローラと二人で過ごすと良い」
「義兄上、ありがとうございます」
ルドルフが聖廟を出ていくのに合わせ、エドリックはフローラの遺体を覆っている氷に手を当てた。氷から感じるその魔力を自分に吸収させるようにすれば、氷はスッと消える。
フローラの頬に触れればひんやりと冷たい。今まで氷の中に閉じ込められていたのだから当然だろう。
「……フローラ、苦しかったよね。どうしてこんな事になってしまったんだ。数日前まで君が死んだことなんて知らずに、逃げ隠れていた私を許してくれるかい?」
返事はない。だが、フローラならきっと許してくれるだろう。恨み言の一つでも言うかもしれないが、それは本心からの言葉ではないはずだ。
「愛してる。君だけだ。永遠に、君だけを愛してるよ」
冷たいフローラの手を握りながら、そっと口づける。おとぎ話のように、愛する人の口づけで蘇ってくれれば良いのにと……そうは思うがそんな夢のような事は起こるはずもなかった。
魔法で人を蘇生させることができれば、迷うことなくフローラを蘇生させただろう。遺体だって傷一つなく綺麗なままで、今にも目覚めてくれそうなのに。
エドリックはフローラから唇を離すと、すぐに氷を復元させる。遺体が氷で冷え切っているとは言っても、少しでも温度を取り返せば傷んでしまうだろう。できるだけ綺麗なままで保存したいと、そう思っての事。
「……また来るよ、今度は君をレクトへ連れて帰るために。それまで一人で寂しいだろうけど、待っていてくれ。この約束は……今度こそ絶対に破ったりしないから」
しばらくの間フローラの側に居たが、いい加減戻らねばとフローラへそう声を掛けた。『わかりました。私、エドリック様が来て下さるのをここで待っていますわね』と、フローラのその声が聞こえた気がする。
「義兄上、フローラが亡くなった際に使っていた部屋へ案内して頂けますか」
聖廟を出た後、ルドルフにそう頼む。エドリックが何をしたいのか、それを聞かずに案内してくれた。フローラが眠っていた部屋はすっかり清掃されて、客間としてすぐに使える様な状態だっただろう。
フローラの最期の場所……寝台の横に立ってエドリックは目を瞑る。ゼグウスで新しく手に入れた『力』を、時を自由に行き来する力を発動させる。
ガリレードに『過去には干渉するな』とそう言われた。未来が変わってしまうから。だが、フローラの最期の瞬間に立ち会ったところで未来は変わらないだろう。
自分の姿はフローラ以外には見えないように魔法をかければいい。声も、フローラ以外には聞こえないようにすればいい。
そうすれば周囲の人間には、エドリックがいた事なんてわからない。
瞳を開くと、季節は冬に戻っていた。とはいっても、レフィーンは冬も暖かい。少しだけ、気温が低いと感じる程度だ。
寝台に寝かされているフローラ。隣には産まれたばかりのエリーゼも眠っている。レオンの妹のアリアと、フローラの侍女であるアン、それとレフィーンのこの屋敷の使用人も一人部屋にいたが、彼女らには自分の声が聞こえなければ姿も見えないよう自分自身に魔法をかける。
今自分の姿を、声を確認できるのはフローラだけ。
「フローラ」
彼女の頬に手を当て、その名を呼ぶ。返事はないが、閉じていた瞳がゆっくり開く。焦点が定まらず、虚ろな瞳……自分の姿はきっと見えていない。だが、それでもエドリックが来たとそう思ってくれているだろうか。
「フローラ、ごめんね。君を迎えに来ると言う約束を果たせなかった。どうして君がこんな風に死ななくてはいけないのか……本当にすまない。私がそばに居れば、治してあげられたんだろうか。そうでなくても、こんなにも寂しい想いをさせる事はなかったのに」
エドリックはそのままフローラに近づいて、寝台に眠る彼女を抱きしめる。強く、強く……
そうすると、奇跡かもしれない。フローラがエドリックの名を呼んだ。
「エドリック様、お会いしたかった……」
「フローラ、私もだ。愛してる。永遠に、私の愛は君だけのものだ。だからどうか、安心してほしい」
強く抱きしめれば、いつもなら強く抱きしめ返してくれるその手は動かない。エドリックの瞳にも、フローラの瞳にも、涙が溢れる。そのままフローラに口づけた。これが最後だと……
そして、フローラは息を引き取る。最期は眠るように安らかで……エドリックは自分の拳を握りしめる。何もできない自分が悔しい。過去に干渉して未来を変えることになるが、あの日ゼグウスへ行く事にした自分へこの未来を教え、考え直すように言ってやりたい。
だがそれはできない……息を引き取ったフローラの姿を目に焼き付けた。もう一度口づけて、別れを告げてエドリックは時を駆ける。瞳を開けば、先ほどまでフローラが眠っていた寝台にはもう誰もいなかった。
「……ありがとうございました、義兄上」
「うむ……? 部屋に来ただけで良いのか?」
「はい。フローラが最期に過ごした場所を知れた。それで十分です」
「そうか……。あぁ、いけない。忘れるところだった。フローラが身に着けていた指輪と、遺髪を取りに行こう」
「ありがとうございます」
指輪と遺髪を保管してあるという部屋へ行って、そこでそれらを受け取る。自分の指輪よりも細い指輪……金事業を始めるにあたって結婚指輪をレクトで流行らせるために作らせた、試作の第一号だった。結婚指輪が王都内で流行れば、改めてもっと良い物を作ろうとそう思っていたのに叶わなかった。
だがここにきて、フローラの死を自分自身の目で確認して……彼女の死をやっと受け止められたような気がする。
自分が時を駆けた事で、フローラは最期に幸せだったとそう思ってくれただろうか。エルヴィスと会わせてやれなかったのだけは悔いが残るが、エドリックに会いたいとずっとそう言っていたと聞いていたのでその願いは叶えてあげられただろうかと……
「叔父上」
「おぉ、エドリックじゃないか。よく来たな。……お前の奥さんの事は残念だったな。会いに来たんだろう?」
「えぇ。……叔父上、フローラの遺体を綺麗なまま保管して頂いてありがとうございました」
「良いんだ。できる事はそれくらいだったからな……」
その夜、エドリックは子供たちを預けて叔父・エディオンの元を訪れる。フローラの件の礼を言わねばいけないし、そのついでに事業の話も。
フローラが亡くなったことを知った直後で、あまり仕事をする気にはなれないが……叔父がレフィーンに移住した今、直接会って話す機会は中々ないので丁度良い機会でもあった。
「氷屋は順調みたいですね」
「おかげ様でな。氷の魔法を操れる術者が最近真似をして氷屋を始めたみたいだよ。だが、それでもうちの方が儲かっているだろうけど」
「魔力に制限のある魔術師と、制限のない我々では生産できる氷の量が違いますからね。品質だって、氷を生産するのに慣れている叔父上の方が良い氷を作れるのでは?」
「あぁ、そうさなぁ。うちの氷の方が良い氷だろうな。で、お前が子連れではなく一人で来たのは……金の話だろう?」
「はい。どうでしょう、金は」
「どうもこうもない。金の方も順調だよ。採掘量も増え続けているし」
それから食事をしながら小一時間事業の話をして、エドリックは叔父の元を後にする。仕事の話をして、少しばかり気も晴れた気がした。
大公の屋敷へ戻れば、もうすっかり夜だった。子供たちも食事を済ませており下の二人はもう眠っている。エルヴィスだけはまだ起きているようだ。
「まだ眠くないのかい?」
「父上。いいえ、もうそろそろ寝ようと思っていました」
「ではゆっくり寝るんだよ」
「はい。……父上、母上は……父上がゼグウスに行った後泣いてました」
「……そうか」
「僕たちを抱きしめてずっとずっと、泣いてたんです」
「母上には可哀想な事をしてしまって、申し訳ないと思っているよ。永遠の別れではないのだからと、笑顔で見送ってくれるように言ったけれど……あれが永遠の別れになってしまった」
「……はい。母上がレフィーンに発つときも、僕を抱きしめてずっと『離れたくない』と、そう言って泣いていました」
「そうか……」
「僕も、母上の事を父上と一緒に迎えに行くかもって言ったのに……」
「……お前のせいじゃない。お前が自分を責める必要はない。悪いのは、全部父上だから」
小さな子供が責任を感じている。フローラの最期に立ち会えなかったのは、勿論エルヴィスのせいではない。
悪いのは全て自分だと……エドリックはそう言う。ゼグウスへ行ったのも、フローラをレフィーンへ送ったのも、エルヴィスを一緒に行かせてやれなかったのも、全て自分のせいだと。
泣きそうな顔をしているエルヴィスを抱きしめ、背を撫でる。男は泣かないんだとそう言って、エルヴィスはずっと泣く事を耐えていた。だがフローラが死んだと知らされた後レフィーンへ来て、エリーゼと対面し抱き上げた時には泣いていたらしい。
「……父上、僕母上に会いたいです。会って母上の事が大好きだって、そう言ってあげたいです」
「そうだね。でも母上はきっと天の国からお前の事を見守ってくれている。直接言えなくても、母上はきっと聞いている。喜んでくれていると思うよ」
グズグズと、エルヴィスがすすり泣く声が聞こえた。弟妹達の手前、兄らしく気丈に振る舞っているがやはりまだ子供だと……。しっかり者で、寂しそうな素振りも見せなかったがやはり寂しいのだろうと……。まだ、八歳だ。まだまだ、子供なのだ。
エドリックは陳腐な事しか言えなかったが……それでも、その言葉はエルヴィスにとって心のつっかえを外すものになってくれただろうとそう思う。
その日、エドリックはエルヴィスを抱きしめて眠った。この子をこうして甘やかしてあげられるのは年齢的にもあと僅かだろうし、母親がいないのだから父親がやらねば誰がやるのだと……
翌日、エドリック達はレフィーンを離れレクトへと向かう事になるのだが……出発前、朝食の後にエルヴィスと歩いているところを後ろから呼び止められた。
「ジルカ男爵様でいらっしゃいますか」
「……何か御用ですか、ご婦人」
ジルカ男爵を呼ぶ声に、そう答えたのはエルヴィスである。エドリックの祖父であったエルヴィス・グランマージ伯爵の逝去後、その伯爵の座は父が継いでいる。
同時に、それまで父が名乗っていた『ダミア子爵』をエドリックは継ぎ、エドリックが名乗っていた『ジルカ男爵』はエルヴィスの儀礼称号となった。
「えぇと、坊やがジルカ男爵……?」
「……ご婦人、御用があるのは私の方でしょうか。私は数年前までジルカ男爵を名乗っておりました。今はダミア子爵と申しますが」
「あぁ、きっとそうです。フローラお嬢様の旦那様でいらっしゃいますね? 今はダミア子爵と申されるとの事、存じ上げず申し訳ございません。私はこの屋敷で針子をしております、リンダと申します。フローラお嬢様の乳母でもございました」
「フローラの……そうでしたか」
初老の女性はフローラの乳母だったとそう言った。幼いフローラを育て上げた、いわば育ての母……フローラの最期はこの屋敷だったが、彼女もひどく悲しみに暮れたであろうことは想像がついた。
そう言えばフローラが嫁いできた時に乳母であった針子が馬車に同乗し、花嫁衣裳は最後まで馬車で調整されていたと聞いている。彼女があの時、遠路はるばるレクトまで来た針子なのだろう。
「フローラお嬢様がこちらに戻られた際、あなた様の事をたくさんお話してくださいました。お嬢様は、あなた様のところへ嫁いでさぞお幸せだったでしょう。嫁ぐ前よりも、とても輝いていらっしゃいましたから。お子様たちの事も、皆可愛がって……」
「フローラを育てた貴女にそう言って頂けて、夫としては光栄です」
「……あの、ご婦人。本当に母上の乳母なのですか?」
「エルヴィス、失礼な事を……」
「だって父上、リンダさんの瞳が母上とそっくりだから」
エルヴィスのその言葉に、エドリックもリンダもハッとする。確かに目元に皺などはあるが瞳は大きく、若い頃には相当美しい女性だったという事は想像できた。今だって、美しく年を重ねた女性と言って良いだろう。
また、瞳の色は透き通るような琥珀色で……それはフローラと同じ色だった。琥珀色の瞳は、中々珍しい色だ。確かに目元がフローラに似ていると……エドリックはつい彼女の過去を、フローラが生まれた頃の記憶を読み込んだ。
「貴女は……フローラの生母、なのですね」
「では、僕のお祖母様なのですか?」
「……どうかご内密にお願い致します……。表向きは、私はあの子の乳母ですから……」
フローラは生前、自分の実母のことは何も知らないとそう言っていた。それが嘘ではない事は、エドリックはよくわかっている。フローラは本当に知らなかったのだ。
自分の乳母が、本当は生母だったということは……
「お祖母様……頻繁に会う事はできないけど、お祖母様が元気でいてくれることを願っています」
「ありがとう、坊や。坊やのような良い子に恵まれて、フローラはきっと幸せだったでしょう……」
リンダの瞳に涙が光る。エドリックは懐から一枚、ハンカチを取り出し渡した。それはフローラが刺繍を施したもので、大切な形見の一つであるが……
「義母上、これを」
「まぁ、ありがとうございます。ダミア子爵」
「フローラが縫った物です。形見に差し上げます」
「でも……」
「国に戻れば、フローラの形見はたくさんありますので……」
「……感謝いたします。お優しいのですね。この刺繍は、あの子が……? とても上手になって……。昔は、お世辞にも上手いとは言えませんでしたから……」
そう言ってリンダは、エドリックの渡したハンカチで瞳を抑える。なぜ彼女が表向きは乳母としてフローラを育てる事になったのか……それは、フローラの父親が当時のレフィーン公だったから故に仕方がないのだろう。過去を読むことはできなくはないが、あまりあれこれと過去は詮索しない方が良い。
フローラは……エルヴィスを身籠ったことが分かった後で言っていたことがある。自分は愛しあった夫婦の元に生まれた子ではなく、生母がいない。母の愛を知らないで育ってきたから、この子には親の愛をうんと与えてあげたいと。
だが、フローラはきちんと生母に愛されて育っていたのだ。本人が知らなかっただけで……なんて不憫なのだと、エドリックはそう思った。次にフローラの顔を見る時には、この事もフローラに教えてあげなければと……
「……坊や、抱きしめてもいいかしら?」
「はい、お祖母様」
リンダはエルヴィスを、孫をぎゅっと抱きしめる。フローラがレフィーンにエルミーナとエドガーを連れて戻ってきた時も、リンダは二人をよく世話をしていた……その過去がエドリックには見える。
表立って祖母とは言えなかったが、やはり孫は可愛いのだろう。その見えた光景に……エドリックの瞳も思わず熱くなった。
「我々は今日レクトに戻りますが……貴女さえよければ、我が家にお招きいたします。私の叔父がこの国で氷屋をやっておりますので……もしレクトに移住したければ叔父に申して頂ければ」
「まぁ、有難い申し出ですが……。今は息子夫婦と共に暮らしておりますので」
「息子……フローラに、兄弟がいるのですか」
「はい、父親は違いますが一歳違いの兄になります。ですが、息子も自分に妹がいた事は知りません」
「そうですか……そう遠くないうちに、私はまたこの地を訪れる予定です。その時には、もっとゆっくりと話が出来ましたら……」
「……お祖母様、お元気で」
「ありがとう、坊や。ありがとうございます、ダミア子爵」
エドリックは挨拶を交わし、リンダと別れる。フローラの生母に会えたことで、彼女がフローラを愛してくれたことを知れたことで……エドリックはなんだか心が暖かくなる。
この地にはフローラの足跡が多すぎて、彼女がいない事がとても辛いと感じたが……それだけではなかったと、そう思いながら子供達と共に帰路へ着く馬車へと乗り込むのだった。