嫌われ男爵の結婚
このお話はオリジナル小説「カルテット・サーガ」のスピンオフです。
未読でも本作は読めますが、第4章までは読んで頂いても良いと思います。
※第5章には本作の内容に係る重要なネタバレがありますのでご注意ください。
カルテット・サーガはこちらのURLからご確認ください。
→https://ncode.syosetu.com/n9766hv/
また「嫌われ公女と嫌われ男爵の結婚」と交互にお読みいただくのがおすすめです。
「嫌われ公女」第1話はこちら→https://ncode.syosetu.com/n9363ii/1
「レフィーンに、金山……」
ある朝、エドリックはその夢を見て目覚める。エドリックの生まれたレクト王国よりはるか南西にあるレフィーン公国。その国で数年後に金山が見つかる夢。
少し前には、また別の夢を見ていた。それは数年後金を使った装飾品を売る事になり、大当たりする夢である。今日の夢で、レフィーンに金山が見つかる事がわかった。事前にその金を押さえておくことができれば、将来の商売のためになるのではないかと……
だが、レフィーンに伝手はない。どうすればレフィーンの金を安く回してもらえるかと考えた時に……結婚が手っ取り早いと、そう思った。
エドリック自身、自分もそろそろ結婚しなくてはいけないと言う事は、常々考えてもいたものだ。だが王国内では生まれた家……グランマージ家は他の貴族からは目の敵にされているし、自分自身の持つ『特殊能力』のせいで娘をエドリックの妻にと考える貴族はいない。
だから、レフィーンに結婚適齢期の公女がいれば良いと思い……その日調べてみれば、かの国には未婚の公女が二人いると知る。エドリックはすぐに、父親へ言った。
『レフィーンの公女へ求婚したいと思う』と。彼女らがどんな人物かは知らない。だが、将来金を手に入れるためにレフィーンと繋がりを持つのが目的なので、二人いる公女どちらが来たって構わない。
どうせ、結婚したところで……妻に嫌われるのは目に見えているのだから。誰が好き好んで『商人伯爵』の家に、そして特殊な能力を持って生まれた『怪物』に嫁ぐのか。
レフィーンへ送る手紙を用意しながら、エドリックは自嘲気味に笑った。
レフィーンへ送った手紙が、良い返事で戻ってきたのは十日後の事であった。結婚を受け入れてくれる場合、嫁いでくるのは二人残っている公女のうち姉の方だろうと思っていたがレフィーン公からの手紙には末娘のフローラを嫁がせるとそう書いてある。
フローラはエドリックよりも一つ年下の十八歳。返事の手紙に添付されていた肖像画には、可愛らしい姿が描かれていた。ぱっちりとした大きな瞳、銀色の長い髪……暖かい南国の姫とは思えない白い肌。どれもが誇張だろうと、そう思う。
「……世の中は、嘘だらけだからなぁ」
エドリックはそう言いながら、更にレフィーンへ向け返事を書いた。レフィーンからの手紙には、グランマージ家さえよければすぐに輿入れするとそう書いてあったため、勿論すぐに来て頂いて構わないと返事を送ったのだ。
その手紙がレフィーンに届く頃、エドリックは魔術師団の兵舎を訪ねてきた……幼馴染で唯一の友と呼んで差し支えないだろう、レオンに声を掛けられた。
「エミリアから聞いた。結婚するんだってな」
「あぁ、そう言えばまだ言ってなかったか。そうなんだ、急だけどね」
「……なぜ、突然結婚する気になった?」
「前からそろそろ結婚しないと駄目かなとは思っていたよ。だが国内の貴族は、私や我が家を相手にしてくれないから相手がいなくて」
「……それで、レフィーンの公女か」
「あぁ、すんなり求婚を受け入れてくれたから正直驚いてる」
レオンは……エクスタード公爵家と言う、国一番の名門貴族の子。少し前までは彼の祖父が公爵だったが、昨年亡くなり現在は彼の父親が公爵となっている。レオンはその長男で、次期公爵が約束された男。エドリックの妹・エミリアの婚約者でもあり、エドリックとは幼い頃からの仲である。
育ちが良く、将来の公爵として恥ずかしくない振る舞いをするように育てられたせいか物静かで品の良い男だ。
エミリアは生まれた時から彼の婚約者で、将来は公爵夫人になるため母が頑張って淑女に育てようとしていたが……それは、見事に失敗してしまってじゃじゃ馬になってしまった訳であるが。
彼は育ちの良さは勿論なのだが、度々エドリックと顔を合わせてきたせいかとにかく真面目で嘘をつく事はしない。レオンは嘘をつかないと、それを知っているからこそエドリックは彼を信頼しているし、友人でいられる。
裏表のある奴は嫌いだと、それは既にエドリックの口癖のようなものだ。嘘だらけの貴族社会も好きではない。
「それで、どんな女性なんだ?」
「気になるかい?」
「多少は……」
「肖像画は、とても可愛らしかったよ。でも、実物はどんな女性だろうね。私は、肖像画は……皆三割増しで描かせている物だろうと思ってる。期待されても困るから、私は画家に三割減で描いてくれと言ったけれどね」
「決めつけるのは良くないんじゃないか」
「はは、そうだね。肖像画以外には、名前と年齢しかわからない。名前はフローラ、年齢は私達より一つ年下の十八歳だ」
「……上手く行けば良いな」
「そうだね。高飛車な人じゃない事を願うよ。お嬢様ってさ、二通りいるだろう? 高飛車なのと、控えめなのと。エミリアは例外としてさ」
「……それは、どういう意味だ」
「深い意味はない。私は、高飛車なお嬢様が好きじゃないって話さ」
そう言えば、レオンも『俺もだ』とそう言って笑う。むしろ、レオンの場合は婚約者であるエミリアの事しか眼中になく、他の女性の性格がどうのという事は最早関係ないのだろうが……
レオンとそんな話をした五日後、レフィーンの使いがグランマージ家にやってくる。彼は早馬を飛ばしてきたそうだが、既に公女・フローラも国を出て恐らくは五日ほどでレクト王国へ到着するであろうという事だ。
それを聞いてエドリックはすぐに大聖堂を手配する。まさか、すぐに来てもらっても構わないとは言ったが、本当にこんなにすぐに輿入れするとは思ってもみなかった。
かなり慌ただしい準備を終え、レフィーンの使いが言ったようにちょうど五日後にフローラはレクト王国へとやってきた。馬車が一台到着したと聞いて、エドリックは彼女を出迎える。
御者が馬車の扉を開き、彼女が姿を見せる。御者が彼女の手を引こうとするのを制して、エドリック自らが馬車を降りようとする彼女に手を差し出した。
実物よりも美しく描かれていると思っていたあの肖像画は、あながち誇張ではなかったと……彼女のその顔を見てエドリックは思う。成人済みとは言え、まだ少し幼さの残るフローラは、その愛らしい顔に少しばかり不安の色を見せていた。
「ようこそレクト王国へ、フローラ様。長旅は疲れたでしょう」
「はい……ありがとうございます。あの、あなたが『ジルカ男爵』様ですか?」
「えぇ、そうです。ですが、その呼び方では夫となる者に対して他人行儀過ぎる。どうか名前で『エドリック』と」
「エドリックさま……」
フローラは差し出されたエドリックの手を取る。彼女に触れたその瞬間、エドリックの中に……すっと、彼女のありとあらゆる情報が入ってきた。普段であれば制御するところだったが、これから妻になる女性の事は……先に色々知っておいた方が良いと、そう思ったのだ。
彼女は見知らぬ土地に一人送られ不安そうに見えたが、内心では新しい生活を楽しみにしていたようである。南国生まれで雪が積もっているのも珍しいらしく楽しそうだったが、エドリックの手が暖かいと……なんだかその事を喜んでいるようだった。
「……レクト王国はとても寒いのですね。私、雪と言う物は初めて見ましたわ」
「冬ですから。でも、もう少しすれば暖かくもなってきます」
「でも、まだまだ寒い日は続くのでしょう?」
「えぇ。ですが、安心してください。屋敷の中は暖かいですから」
なんだか、フローラの考えている事が面白いと……エドリックは頬を緩める。今まで知り合ったどの令嬢よりも、彼女は純粋だとそう思った。
馬車を降り切ったフローラは、エドリックの顔を見て少しだけ顔を赤らめながら目を逸らす。彼女は『あの肖像画を描いた画家は、あまりお上手ではないのかしら』なんて、そんな事を思っているようだから、エドリックはつい口を開く。
「あの肖像画は、実物よりも三割減で描いてくれと言ったんです」
「……え?」
「実物よりも三割増しで描かれて美男子だって期待されて、実物を見てガッカリされたら嫌だなって思って」
「そ、そうですか……」
『なぜエドリック様は、私の考えている事がわかったのでしょう』と、フローラはそう考えている。彼女は自分の……エドリックの『特殊能力』について何も聞かされていなかったのかと、エドリックは驚いた。
後で自分の『能力』の事もきちんと説明しなければと……エドリックはそう思いながら、彼女を屋敷の中へと招き入れた。
そして、長旅で疲れているところで申し訳ないが、彼女はすぐに式の準備へ取り掛かってもらう。彼女の準備が整うまでの間、エドリックも自分自身の着替えなど済ませ……
大聖堂で、身内だけの簡素な式。本来であればもっと盛大な式を挙げるべきであったが、レフィーン側のフローラの親族もいなければ、他の貴族を招待している時間もなかった。
だが、こんな式だって悪くないと……エドリックはそう思いながら、神の御前でフローラへの愛を誓って彼女を抱き寄せた。今、彼女が何を考えているのか……
その心の中を覗く事はしなかった。
式を終え、屋敷へ戻ってくる。急に決まった親族だけの式だったから、晩餐会の設定すらもしなかった。豪華な食事は、屋敷で済ませれば十分だろう。
屋敷へ戻って来てから、まずは祖父の帰りを待った。祖父は久々に城へ出向いた事もあり、国王らと話をしてから戻ってくるとの事である。その間、エドリックは自室にフローラを招いて彼女と少し話をする事にした。
夫婦となったから、彼女の事はこれから名前で呼ぶことにした。彼女にも、改めて自分の事は名前で呼んで欲しいと告げる。そして、これが……エドリックの中で、一番大切な事。
「……フローラ、これから夫婦として過ごすのに、約束してほしい事があるんだ」
「約束、ですか? どんな事でしょう?」
「私に嘘はつかないで欲しい。それが例え、どんな些細な事であっても」
「はい……」
なぜそんな事を言うのかと、フローラはそんな顔をした。どうやらフローラは、エドリックの事を嘘の許せない真面目な男だと、そう感じたようである。だが、そうではない。いや、真面目か不真面目かと聞かれれば真面目な方ではあるのだろうが……
エドリック自身の『能力』は、人の心を読める事。特に、嘘は顕著だ。制御しているつもりでも、嘘をついているかどうかは纏う空気ですぐにわかる。
きょとんとしているフローラに、エドリックは言った。これは妻となった彼女には、知っておいてもらわねばいけない事だから。
「君は聞いていなかったようだけれど、私は非凡な才を持って生まれていてね。人の心が読めるんだ」
「人の心、ですか?」
「あぁ。勿論、常日頃からむやみやたらに人の心を覗いているわけではないよ。だが、嘘には敏感でね……わかってしまうんだ」
「……あ、もしかして。私が馬車から降りた時の……」
「あぁ、それは先に謝っておく。初対面だし、君が何を考えているのか知りたくてね。少しばかり、何を考えているのか覗かせてもらった」
そう言えば、フローラは何やら照れている。大方『肖像画よりも実物の方が素敵』なんて思っていた事を恥ずかしがっているのだろうが……その反応は予想外なものである。
人の心を読めるなんて、そんな事を言えばいつもは気味悪がられたり嫌悪感を抱かれる。それは当然の事だろうと、エドリック自身もわかっている。
人間、誰にも知られたくない本音やしまっておきたい事だっていくつも抱えているだろう。それが、自分の意思とは関係なくエドリックには丸裸にされてしまうと言うのだから。だから、エドリックとは関わりたくないと……皆声には出さずとも、そう思っている。そう思われている事すら、わかってしまうのだ。
だが、フローラの反応と言えば……単純に、エドリックの能力の事を驚いている。それだけである。自分の心が覗かれた事を、嫌だとか気落ち悪いだとか、そんな事は全く考えていないのだ。
「君は変わってるね。だが、それで嫌われるなら仕方がないと思っていたけれど……君のような反応は初めてだ」
「あ、すみません……」
「何を謝るんだい? 嫌われなくて良かったよ。ともかくそう言う訳だからさ、私に嘘はつかないで欲しい。たとえそれが、私を安心させるためだとしてもね」
「……わかりました」
そう言っている間に、使用人がエドリックを呼びに来る。祖父が戻ってきたと。フローラと共に祖父へ挨拶に行って、戻ってくれば今度はエミリアが顔を出す。
自分がエミリアに嫌われている事も、エドリックは知っている。兄妹とは言っても、分かり合えないものだ。確かに、エミリアを可愛がったところでエドリックに得もなく幼い頃から可愛がったことはないが……彼女が魔法に目覚めた五年前からは、特に顕著だった。
それは、エミリアからの嫉妬。エミリアが紋章を持たねば魔法を使えぬことも、彼女は魔法を使い続ければ魔力が切れる事も……魔術師としての実力も、彼女はエドリックの足元にも及ばぬ事も。
当然、年齢差があるのだからできる事はおのずと変わってくる。だが、エミリアはずっとエドリックと肩を並べたがっていた。幼い頃から、負けず嫌いで……年齢差のせいでできないような事だって、なんでもやりたがって失敗して、泣いて……
「私、ずっと優しいお姉様が欲しかったの。だから、フローラ様のような可愛らしい方が義姉になってくれて嬉しいわ」
エミリアはそう言って、フローラへ向けて笑顔を見せた。エドリックの方を、見る事もなく。だが、そんな態度を取るエミリアに、エドリックは何も言わない。
彼女が魔術師を目指すようになってから、何度か歩み寄ろうとはしたのだが……向けられるのは拒絶。もう、彼女に歩み寄ろうとするのはとうの昔に諦めたのだ。
恐らくは、婚約者であるレオンの方がエミリアの事をなんでも知っている。レオンは昔からエミリアには甘かったし、エミリアも幼い頃から自分を甘やかしてくれる優しいレオンの事を兄のように慕っていた。
エミリアも随分と大人に近づき、二人はもう兄妹のような関係とは言えないが……それでもエミリアにとって、レオンは兄以上に兄のような存在であるのかもしれない。
エミリアはフローラに『今度お茶でもましょう』と言って、部屋を去る。その後姿を見送って、エドリックは『そう言えば』と口を開いた。
「君の部屋に案内するのを失念していたね」
「……私の部屋、ですか? そ、その……このお部屋ではないのですか?」
フローラは驚いた顔でそう聞いた。エドリックとしては、その事の方が驚いた。夫婦とは言っても、一緒に寝る事は義務ではない。彼女だって、他人に干渉されない自分の場所だって欲しいだろう。
それに、エドリックはまだフローラと共に寝るつもりはなかった。勿論、早く子供を作れと周囲は言うだろうが、まだ知り合ったばかり……今夜共に寝なければ死ぬわけでもないのだから、その必要はないとそう思っているのだ。
勿論、エドリックに何かあった時に……子供がいなければフローラはグランマージ家から離縁され、レフィーンへ戻って再婚相手を探すことになるかもしれないが……『何か』が起きる予定はないから大丈夫だろうと、そう思っている。
「確かに、夫婦なんだから共に寝たって構わないんだろうけど……。君は、国を出る時君の父上から子供は早く作れとか、そう言う事を言われた?」
「は、はい。その……子供は早く産めと」
「我々は政略結婚だから、それは当然だよね。でも、私はすぐに君を抱くつもりはないよ」
「え? な、何故ですか? しょ、初夜……夜伽は」
フローラは頬を少し赤くしながら、言う。彼女は、嫁いだ以上早くエドリックの子を授かるのが義務だと、そう思っているようだ。
だが、エドリックは……そうは言ってもまだ彼女に心の準備ができていない事は、フローラのその言葉でわかる。共に寝るのも、夜伽も……本心ではまだしたくはないと、そう思っている。
「だって嫌だろう? 夫とはいえ、何も知らない男に抱かれるのは。私が君の立場だったら嫌だよ。君の嫌がることはしない」
「そ、そんな事は……」
「嘘はつかない。先ほど約束したばかりだ」
「も、申し訳ありません……」
「いいよ。君が私に抱かれてもいいと、そう思えるようになるまで手を出すつもりはないから安心して」
「で、ですがそれではエドリック様は」
「女遊びの心配をしてる? 私は潔癖でね、そんな事はしないから安心してくれ。男は女なら誰でも抱けるみたいな印象もあるかもしれないけれど、私は抱きたいと思った人じゃなければ抱くつもりはないよ」
「わ、私の事は……」
「正直なところ、まだその気はない。君の気持ちを持つのと同時に、私がそう言う気持ちになるのを待つ期間でもあると言えばいいのかな」
これも、エドリックの本心であった。嫁いできてくれたフローラには、感謝している。そして、彼女は自分の『能力』の事を聞いても嫌悪せず受け入れてくれた。
彼女ならば、自分を愛してくれるかもしれないと……そう思い始めている。だからこそ彼女が嫌がる事はしたくないし、ただ子供を作るだけの行為にも及びたくはない。それでは獣と変わらない。
自分たちは理性ある人間だと……子供とは、夫婦が愛し合ってその結果に授かるものだと……それが本来の人間の生殖と繁栄だと、エドリックはそう思っている。
それから、フローラを部屋に案内しエドリックは自分の部屋に戻った。今日は結婚式だからと魔術師団は休みを取り、その式も終わって後は夕食の時間までは少し時間がある。
その間は頼むだけ頼んでおいて、読む時間の取れなかった本を読むことにした。エドリックは使用人に紅茶を入れるように頼んで、自室の椅子に腰かける。
紅茶と本が、エドリックは何より好きだった。紅茶は純粋に、香りが良く味も美味しいとただそれだけの理由であるが本は……知識を、知見を広げてくれる。
伝記や随筆、論文に兵法の指南書のようなものだけではなく、恋愛小説や戯曲、果ては子供向けの童話まで何でも読む。そして、エドリックはその内容を一字一句違うことなくその頭に記録しておくことができるのだ。それも、彼の持つ『特殊能力』の一つであると言って良いだろう。
積んであった本の中から、一番手に取りやすい位置にあったのは……短編の小説が何作か収録されている本だった。作者である作家の名前もしっかりと憶えている。この作家には外れがないと、本を捲る手は少し踊っていた。
結婚式を終えたばかりの新郎とは思えない程、夕食ができたと呼ばれるまでの間のんびりと過ごした。気づけば小説に没頭しており、使用人は何度も声を掛けてくれたようである。
「フローラは?」
「エドリック様とご一緒にお迎えに上がろうかと思い、今から声を掛けるところでした」
「そうか。では、私が迎えに行くよ」
エドリックは小説に栞を挟むこともなく元の場所へ戻し、隣の……フローラへ与えた部屋の扉を叩く。
「どなたでしょうか」
「私だ。夕食の準備ができたそうだ」
「少しお待ちください。今、行きます」
フローラが部屋から出てくると、彼女は先ほどとは違う服を着ていた。先ほどよりも少しお洒落で、今日の夕食の……晩餐会の主役には相応しい服装だろう。先ほどまではおろして横に流していた髪も、侍女がやってくれたのだろう頭の上の方で結われていた。
「お待たせいたしました、エドリック様」
「……」
「どうかされましたか?」
「いや……可愛らしいと思って」
「も、もう……! からかわないでくださいませ」
「からかってなんかいないよ。私は、嘘はつかない。じゃあ行こうか」
「……はい。その前に、エドリック様」
「なんだい?」
「……エドリック様の、髪を結わせて頂けませんか? 私、紐を用意しましたの」
フローラはそう言って、エドリックの顔をじっと見る。エドリックと言えば、自分の髪が結えるほどに長くなっていた事に今気づいた。
確かに、最近は髪が長くなってきたような気がして、そろそろ切ろうかなんて思っていたが……彼女がまとめてくれると言うのなら、その好意は受け入れておこうと返事をする。
「ありがとう、お願いするよ」
フローラは笑顔になって、そのままエドリックの髪に触れる。後ろから来ると思いきや前から来られて、完全に意表を突かれた。少しだけ、心臓が騒がしいのを感じるが……なんてことないふりをして、自分の髪を紐でまとめるフローラの姿をただ黙って見つめる。
彼女はこの時間に、わざわざ糸をかぎ針で編んで髪紐を作ってくれたのだろう。ただエドリックの乱雑な髪が気になっただけなのかもしれないが、誰かに自分のために何かをしてもらうと言うのが嬉しいと……そう感じた。
「できました」
「ありがとう、フローラ」
「どういたしまして。あの、エドリック様。ご迷惑でなければこれからは、毎朝私がエドリック様の髪を結ってもよろしいですか?」
「では、お願いするよ」
「良かった」
彼女は彼女なりに、エドリックと夫婦になるために歩み寄ろうとしてくれているのだろう。エドリックは、そんな彼女が可愛らしいとそう思う。
フローラは、自分が知っている女性達とは違った。女なんて皆一緒だと、そう思っていたが……どうやらそうではないらしい。
世の男たちは女性の事を『華がある』なんて評するが、彼女たちの裏の顔が見えてしまうエドリックにとっては毒花でしかなかった。美しいのは見た目だけ。どれだけ外見を美しく取り繕っても、心の中は醜く酷い。
家柄で選んだつまらない夫とは表面上仲睦まじく過ごし、裏では顔が良く話の上手い下男とよろしくやっている。女なんて皆そんなものだと……エドリックはそう思っていたのだが。
(フローラは、違うかもしれない)
その事がなんだか嬉しくて、エドリックはフローラに自分の左腕を差し出した。フローラはその意図に気づいて、少しだけ照れ臭そうにしながらエドリックの腕を取る。
二人でそうやって並んで歩いて。明日も休暇を取っているから、明日は彼女に街の中の事を案内してあげようと……そう思った。
夕食の時間は、家族が全員揃って豪華な食事を囲んだ。母はフローラの事がとても気に入ったようである。彼女のように品があり淑やかな女性に育てるつもりが、エミリアがそうは育たなかった。だからきっと、嬉しいのだろう。
フローラもフローラで、楽しそうにしてくれて良かったと思う。知らない人間だらけの場所で、今日からこの他人達が家族だと言われてもすぐには家族の一員にはなれないだろうが……案外上手く馴染んでくれるんじゃないかと、そう思いながらフローラを見ていた。
夕食を終え、彼女を部屋の前まで送る道中……エドリックの左腕に右手を添えるフローラも、少し酒を飲んでいたからか頬が赤く染まっていた。
「お義父様も、お義母様もお優しそうな方で良かった」
「私は、母が君のことを気に入ったようで安心したよ。母も『お嬢様』だから、君のような娘ができて嬉しいんだろう。エミリアは、お転婆だからさ」
「ふふ、私だって案外お転婆ですのよ。子供の頃、お庭の木に登って怒られたりしましたわ」
「はは、そうか。でも、流石にもう木登りはしないだろう?」
「登っていいと言われれば、登りますわ」
「危ないからやめてくれ。高いところが好きなのかい?」
「そう言う訳ではございませんが……子供の頃は、怒られたかったのかもしれませんね」
「怒られたかった?」
「えぇ……私、きっと寂しかったんです。どんな事でも良いから、私の事を見て欲しくて。構ってほしくて……」
「……」
「エドリック様……先ほど教会で誓ってくださいましたよね。私の事を、一生愛してくださると」
「あぁ」
「約束ですわ。私の事を、一生お側においてください」
「わかったよ、フローラ。私たちも、早く本当の夫婦になれると良いね」
エドリックは、寂しそうに言うフローラの気持ちを理解したかった。だから彼女の過去をそっと覗く。彼女の過去は想像していたものではなく、六人の兄姉がいても一人だけ仲間外れ。
きっとレフィーンで幸せに育ってきたのだと、そう思っていた。だが、そうではない。彼女は、いつも一人で寂しく過ごしていたのだ。頼れるのは大公である父と、優しい長兄だけ。
だが、父はフローラの事を可愛がっていたと言っても……顔を見せに来るよりはフローラの望むものを与えてくれただけ。長兄は、他の弟妹の手前フローラばかりを可愛がってくれていたわけではない。
レフィーンが求婚を受け入れてくれたのも、フローラの姉ではなくフローラを寄こしたのも、求婚から今日の輿入れまで異常なまでに早かったのも……厄介者として体よく追い払われただけだったのかと、エドリックは理解した。
少し酒を飲んで、強がっていた彼女の本音がぽろりと出たのだろう。彼女は愛されたくて、誰かを愛したくて、そして自分が育ったのとは違う暖かい家庭を築きたくて……
ちょうど、その時フローラの部屋の前に到着する。エドリックは、ついフローラを抱き寄せた。
「あっ……」
「まだ『愛してる』と言ってあげる事はできないけれど……早く君にそう言える日が来ると良いと、私はそう思ってる」
「エドリック様……」
「毎晩……部屋に戻る前に、こうして君を抱きしめても良いかな」
「は、はい」
「それと、朝の挨拶の時にも」
「……はい」
「ではフローラ、今日は疲れただろう? ゆっくり休んでくれ。……また明日」
「はい、おやすみなさいませ……エドリック様」
扉を開け、フローラが部屋へ入るのをエドリックは見届ける。扉を閉め、隣の自分の部屋へ。そのまま椅子へ腰かければ、先ほど抱きしめたフローラの温もりがまだ残っているような気がした。
結婚相手は誰でも良かったはずだ。『毒花』であるはずの妻に、情を掛けるつもりもなかった。だが、実際はどうだ。フローラは素直で純粋で……何よりも陰では『怪物』と言われ、皆に嫌われている自分と家族になろうと、エドリックを愛そうとしてくれている。
そんな彼女の気持ちに応えたいと言うのは、ただの言い訳に過ぎない。初めて出会った『華』に、心惹かれたのは最早必然であったのだろう。
初めて感じた、むず痒さ。彼女の心を覗いて、その過去に絆されたという事にしておこうと……エドリックはそう、自分の心に言い聞かせる。
出会ってまだ丸一日も経っていない彼女に恋に落ちたなど、人間嫌いで有名なエドリックは自分自身の気持ちに困惑していた。自分が誰かを愛せる日など来るはずがないと、そう思っていたから。
エドリック、十九歳の冬。政略結婚で出会ったばかりの妻に、恋に落ちた。それは、長い夜の始まりである。