0回目-9-
バレリー・ライオネル⑤
「なんだ、それ……ありえないだろ。そんなもの」
目の前で、バチバチと散る火花を呆然と見た。それほどまでに、人間が通常作り出せる力を遙かに上回るものだった。
セラフィナは言う。
「一つだけ、誓約を課す。アーヴェル・フェニクスだけは、殺さないで。ドロゴもシリウスも、ショウも殺して構わない。だけどアーヴェル・フェニクスを殺したら、誓約は、あなたを殺す」
黒い光が、僕に迫ってくる。
それは人が自然に得る魔法とは異なっていた。祈りと呪いが複雑に入り交じり融合し、一つの形を成している。欠損した魂に、呪いと魔力は、実によく馴染んだだろう。
「……彼がまた、君に恋する保証はない。第一彼は、君に想いも伝えずに、君を闇から救うこともなく、戦場で野垂れ死んだんだ」
夢見るようにうっとりと、彼女は目を細めた。
「アーヴェル・フェニクスは、わたしのことを知らなかっただけ。知ったら、絶対助けてくれる。何がなんでも、助けてくれるわ。わたしを光の方へと救い上げてくれるはずよ。
感じるの、わたしたちは、互いにとって大切な人間だということを。もし九歳の頃の孤独なわたしに彼が気づいてくれたら、未来は違っていたかもしれない」
おぞましく、恐ろしい、残虐な悪女。
なのにアーヴェルの名を口にする度に、彼女はまるで初心な少女のように頬を赤く染めた。胸の奥がひどくざわめいた。彼女が抱くのは自分勝手な望みだ。なのになぜ、ここまで切なげな表情をする?
「あの人が好き。あの人が大好き。わたしには、それしかない。それだけで、いい。もう一度会いたい。彼の全部が、欲しい」
気がついた。
呪われた彼女の中に、指針のように残された唯一の光が、その感情だということに。
母という指針の中に落ちる、唯一の闇が、僕にとっての彼であるように。
狂った彼女がそれでもわずかにまともでいられたのは彼への恋心があったからだ。僕の鉄の復讐心がほんのわずかに、彼を思い出しゆらぐように。
僕らはまるで対極だ。だけど同じ人間が、心の中を闊歩している。消し去りたくても消えてくれない、その人が。
遂にセラフィナの目から涙が一筋流れ落ちた。
「わたし、この魔法を、ようやく理解して習得したの。
誰だって、そうでしょう? もう二度と取り戻せないと思ったものが、手に入ると分かった瞬間、どこまでも貪欲になれるものだわ」
普通は、そこまで思えない。
自分自身の存在を消失させてまで、手に入れたいものはない。そんなに強い望みはない。
「あの人は思い出だけど、忘れられないの」
「……ただ一度、踊っただけで恋をしたのか」
セラフィナは、少女のように目を輝かせる。
「いいえ、踊ってなんかいないわ。もしかして、あの人がそう言ったの?」
そうして、悪女らしからず、優しく微笑んだ。
まるで慈しむような、笑みに思えた。
「わたし、パーティで襲われかけたの。あの人は、それを助けてくれた。わたしの誇りを守るために、踊ったことにしてくれたんだわ」
反吐が出るほど馬鹿馬鹿しい。
国中を震撼させた悪女に、これほどまでに純粋な恋心があってたまるか。
「人生のうちで、たった三度会っただけじゃないか」
「あなた、恋をしたことないのね?」
セラフィナが笑う。
「恋をするには、十分だわ」
彼女の声が柔らかく響き、魔法が、僕に向かって迫ってきた。
黒い光が、彼女の笑みを照らしていた。初めて僕は、心の底から彼女を、美しいと思った。
世界が回る。
僕の周りが消えていく――……。
どれほどの時が経ったのかは分からない。
気づけば僕は、少年の姿のまま、寮の自分の部屋にいた。
真昼だ。夏の日差しを感じる。
周囲に日にちを尋ねる。僕は十歳だった。
セラフィナは、自分とアーヴェルが、初めて出会ったその時まで、時間を戻してしまった。
時を戻す魔法については、僕も知っていた。複雑な術式と、莫大な魔力が必要で、当たり前だが人が到達できる領域ではないから、知識として知っていただけだ。
だがそれが実際に起きた。魔導書の記述を信じるならば、術者本人に記憶はない。
セラフィナに、時を戻した自覚はない。彼女は純粋な子供のまま、自分の記憶さえ失って、なにもかもをやり直そうとしていた。
記憶があるのは、復讐者の僕だけだ。
アーヴェルはショウを殺すなと言った。
セラフィナはアーヴェルを殺すなと、誓約まで課した。
美しい感情だ。――でもね。
願いなんて聞けない。約束なんてできない。
そんなもの、聞き入れられるわけがないんだ。聞いてしまえば、悲しみの底に沈んだ母の命は無駄になる。
利用できるものはなんだって利用してやる。材料は、むしろこちらに揃っている。
北部に魔導石があると、先に僕が密告すればいい。シリウスに魔道武器を配備させればいい。シャドウストーンと、取引して味方に引き込めばいい。セラフィナを襲わせて、アーヴェルと出会わなくさせればいい。呪いを見つけ、利用すればいい。セラフィナにアーヴェルを殺させてもいい。なんなら先にセラフィナを殺せば、誓約は無効だ。
手など、いくらでもある。
そうしてゆっくりと、時間をかけて、ひとりずつ確実に殺すんだ。
簡単だ。簡単なことだ。
待ってて母さん。今度こそ上手く、いくはずだ。
なあセラフィナ、僕を過去に戻したこと、存分に後悔すればいい。君が自分の存在まで懸けたというのなら、僕もそうしよう。勝者はより、貪欲になった方だ。
君の恋は叶わない。初めにあったのは君の恋心ではなく、僕の復讐心なのだから。




