0回目-3-
アーヴェル・フェニクス③
北部の視察はシリウスが始めたきまぐれの一つで、この頃奴は国中を見たがっていた。自分が皇帝になったときのことを、考えているのかもしれない。
最北に位置する小さな町を訪れた時に、それは起こった。現地の中年の男が、俺たちに向かって話かけてきたのだ。
「あの……フェニクス様に、会っていただきたい人間がいるのですが」
俺とシリウスが同時に振り返り、俺が一歩前へ進んだ。
「皇子になんの用だ?」
田舎暮らしは世間知らずなのだろうか。皇子にそう簡単に、人を会わせるわけにもいかない。
萎縮したように男は言う。
「いいえ、シリウス様ではなく、アーヴェル様に会わせたいのです。私の息子なのですが、魔法使いで、来年から北部の学園へ通うことになっております……それで、その――」
男に敵意がないと分かり、一同の緊張が一気に解けた。シリウスが笑う。
「行ってこいよアーヴェル。せっかくだ、アドバイスしてやれ。交流は大事にしよう。僕らはその間、他を回ってくるから」
シリウスの言葉により、俺はその男の息子に会うことになった。
「悪かったな、脅したわけじゃないんだ」
そう言うと、ようやく彼は安心したように笑う。帝都にいる人間とは異なる含みのない笑みを見るのは久しぶりだった。
男の息子は、まだ雪が残る家の庭にいて、俺を見ると礼儀正しくお辞儀をする。十二歳になったばかりだという、純朴そうな少年だった。
家の中へと招き入れられ、学園の話と、魔法使いの進路の話を、多少良いように脚色して話してやると、少年は目を輝かせる。
「僕もアーヴェル様のような立派な宮廷魔法使いになります!」
果たして俺が立派かどうかは疑問なところだが、わざわざ否定することもない。
帰り際になり、俺の外套を取りに行った父親がいなくなった一瞬に、少年は、ふいに言った。
「アーヴェル様に、聞きたいことがあって。実は、それでお父さんに頼んだんです」
ズボンのポケットから、掌の中に何かを握って取り出した。これなんですけど、と開いた手の中のものを見て、我が目をまず疑った。
「山で拾ったんですけど、不思議なんです。少しの間、魔力を溜めることができて、効果はすぐに、切れちゃうんですけど」
鳥肌が立った。それはまず間違いなく、魔導石のかけらだった。
◇◆◇
まっすぐ帝都に戻ったシリウスとは別に、俺はもうしばらく留まると、行動を別にした。数日、その山間の小さな町に滞在し、少年が魔導石を拾ったという場所を訪れる。
地元では奇妙な事故が多いからと、禁足地になっている場所で、だから少年は、魔導石を拾ったことを、誰にも言っていなかった。
分かったことがある。
奇妙な事故は魔導石が引き起こしたものだろう。それほどまでに、この地には、純度の高いそれがあった。北部は厳しい気候と資源のない土地柄、今まで誰も手を付けなかった。
表出しているのはほんの一部だろう。つまり未だ手つかずの、莫大な魔導石が、北の山に埋まっているということだ。まず間違いなく、戦争には勝てるだろう。それどころか――。
幸運が重なっていた。
兄貴の支配地にあってよかった。北に魔法使いがいなくてよかった。その場所が禁足地で、遊んだことを少年が人に黙っていてよかった。魔導石の存在は、今はまだ、俺と、少年しか知らなかった。
帝都に戻る前に、ショウ・フェニクスの屋敷に寄った。
記憶の中と寸分変わらず、庭には不気味な枯れた木が植えられている。枝の上にとまる鴉が、やたらとでかい声で鳴いていた。
わずかの郷愁がうずき、押さえ込む。思い出話をしにきたわけではない。
兄貴は書斎にいて、近頃熱中している商売の、なにやら帳簿を見つめていた。俺の訪問に束の間驚いたような顔を浮かべた後で、机を挟み、顔を突き合わせる。
俺が魔導石のことを話すと、兄貴はその眉間に、さらに皺を寄せた。
「シリウスに、なぜ言わなかったんだ?」
第一声がそれだというのだから驚きだ。
「言ってどうする、奪い尽くされて終わりだぜ。だから兄貴にだけ話しているんだ。分かるだろ? あれがあればどんな望みだって叶う。ドロゴにだって勝るだけの、地位を築き上げることができる。北部を抜け出して、中央だって南部にだって行けるぜ」
「愚かな選択だ。欲に目が眩んでいる。叔父上に報告すべきだ」
まさかそんな反応が返ってくるとは思ってもみず、あっけに取られた。俺と兄貴の考えはこれほどまでに差があるのか。
「なに言ってんだよ。ドロゴに知らせたら、かすめ取られるだけだ。なぜ自らの弱点を、どうぞ攻撃してくださいとさらけ出す必要があるんだ?」
静かに、兄貴は答えた。
「そうしなくては、守れないからだ」
それでなにを守ってるって言うんだ。
俺の中に、期待を裏切られた失望が広がる。
「報告は待ってくれ。いや、しない方がいい。兄貴、今の話は丸ごと忘れてくれ」
勝手に期待され人知れず失望されたショウは、なにをいうでもなく頷いた。
ドロゴに知らせるくらいなら、初めからなにもなかった方がまだましだ。
激しい言い合いになることはなかった。そこに至るまでの絆さえ、俺たちの間にはなかった。兄貴は押し黙り、会話は終わった。
だが数日のうちに、事は急転した。
ドロゴに呼び出され向かうと、玉座にふんぞり返った奴がいる。甥に会うのにもわざわざこの場所を選ぶのだから、心の底からいけ好かない野郎だ。
「北部に魔導石があるとショウが言ってな、急遽ロゼッタ・シャドウストーンを公国から呼び戻し、調査団を組織した」
聞き間違いかと思った。それほどまでに、なにが起こっているのか分からなかった。
「本当に兄が、そう言ったのですか」
「アーヴェル、お前も人が悪い。この前の視察で分かっていたなら、その時にシリウスに告げればよかったものを。まさか魔導石を使って、悪巧みをしていたのではあるまいな――」
そうしてドロゴは、大きく笑いながら言った。
「北部で守られ、苦労せず生きてきたせいか、お前には経験が足りない。良い機会だ、しばらく戦地へ行ってこい。今より大きい人間になれるだろう」
愉快そうな笑い声を聞きながら、俺は前皇帝の息子である自分の立場の危うさを、改めて実感していた。下手を打てば排除される。先手を打とうにも、味方はいない。
ショウのように飼い殺されるのが、最も賢い生き方なのかもしれない。
自分が抱いているのが、失意なのか失望なのか、身勝手なわがままなのかも判断できないまま、数日後に迫った出発の前に、もう一度兄貴に会いに行った。惜別のためではない。本当に兄貴がドロゴに話したのか、確かめたかったのだ。
以前と同じように兄貴は書斎にいて、尋ねるとあっさりと認めた。
「ああ、話した」
怒りの前に、戸惑いが沸いた。
「なぜ話したんだ」
「この国の財産は、すべて皇帝のものだからだ。私やお前が持っていていいものなどない」
当たり前のことを尋ねるなとでもいいたげな口調に、ようやく俺の中で怒りがはじけた。
「なんで分からねえんだよ……! あんな奴の機嫌を取ってどうするんだ。何もかも差し出して、身を守ってるつもりか! それじゃ、本当に犬じゃねえかよ! あんたは守ってるんじゃない、こびへつらって、誇りを捨てているだけだ!」
兄貴の表情に、変化はまるでなかった。酒場で喚く酔っ払いを見つめるように、わずかな哀れみさえ含まれている。俺は机を叩いた。
「ドロゴは兄貴から、何もかも奪う気だ。初めは父親、次は権利、その次は財産、地位。そうして奪えるものが無くなったとき、次に奪われるのは命だ。兄貴はドロゴに殺される! そうなってからじゃ手遅れだ……! あの資源は、俺たちの立場を変えることができる絶好の機会だった。それがなぜ分からない! なぜあいつを信用したんだよ!」
兄貴は俺の問いに答えない。
「戦地へ行けと命令があったんだろう。たったのふた月だ。それで反乱の兆しが許されるのならば、むしろ恩に思うべきだ」
これじゃあまるで俺こそが、悪人のようじゃないか。ドロゴは善人なのか。俺は罪を償うための罰を受けているとでもいうのか。兄貴は本当にそう思っているのか。
言葉が出てこなかった。ショウは俺を一度も見ようともしないことに、やっと気がつく。
考えの差ではない。ショウ・フェニクスという人物は、俺のことを、少しだって信頼していなかった。
書斎を出て、階段を降りていた途中だった。下の廊下から、こんな暗い屋敷にしてはありえないほど美しい少女が飛び出してきた。
さながら神の寵愛を受けているかのように彼女の周りだけ輝いているようにさえ感じた。
「アーヴェル、さん。あの、わたしを覚えてる?」
透き通った声。眉を下げ、不安そうに瞳を揺らす。彼女の赤い唇から出た息が、空気を震わせた。
セラフィナ・セント・シャドウストーン。忘れるはずもなかった。まさかこの屋敷にいるなんて。
階段の途中で動けなくなり凝視し続ける俺に、彼女は困ったように笑いかけた。
「少し前から、ここに滞在していて。お父様が北部に来るから、もてなすために……」
恋をすると、ここまで男は愚かになるだろうか。彼女を前にして、俺の声は喉に張り付いて出てこない。
「今日の来客には出なくていいって、ショウさんに言われたんだけど、下まで声が聞こえてきて……それで、あなただと思ったの。戦争に行くの?」
俺の足は、ゆっくりと階段を降り始める。
「……ああ。下手を打って皇帝を怒らせたんだ。ショウに危害が及ぶことはないから、安心してくれ」
ひきつる声で、そう答えた。
戦地から生きて帰れるとは限らない。彼女に会うのも、最後になるかもしれない。会ったのは、これで三度目だ。なのに強烈に、心が惹かれる。この姿を、目の奥に焼き付けておきたかった。
儚げな笑みは、存在ごと今にもどこかへ消えてしまいそうだった。ショウと結婚する、美しい少女。だが彼女は、幸せそうにはあまり見えない。普通、結婚を間近に控えた人間というのはもう少し楽しそうにしていても良さそうなものだが、彼女はそうではなかった。
「幸せじゃないのか」
魔法使いの名門の中で、ただ一人魔法を持たずに生まれてきて、好きでもない男に嫁ぐ、幸せじゃない少女。物言いたげな瞳が、俺の真意を探るように、じっと見つめ返していた。兄貴の婚約者が、なぜそんな目で俺を見る?
「俺もそうだ。幸せとは言い難い」
そうして俺は、自分でも思ってもみなかったことを口走っていた。
「君を攫って逃げると言ったら、付いてきてくれるか?」
彼女の大きな目が、さらに見開かれた。
もし彼女と逃げることができたら、どんなにいいだろうか。二人で、どこか別の場所で人生をやり直すのだ。彼女が俺の帰りを待ち、俺の冗談で笑い、俺の手を握り、幸福そうに微笑む。そんなありもしない生活に思いを馳せたところで、慌てて打ち消した。
「冗談だよ。ショウは堅物だけど、悪人じゃない。君を幸せにする度量のある男だ」
俺が戦争へ行ってドロゴを怒らせたことの責任を取れば、ショウの身の安全は確保されるはずだ。彼女の幸せの礎になれるのならば、戦場へ行くのもそうそう悪いことじゃないように思えた。
俺と彼女が結ばれる道など存在しない。ならばせめて、幸福を祈ろう。
硬直したままの彼女の手を取り、そこにキスをした。
「――幸せになってくれ、セラフィナ」
これで丸く収まるなら、いいじゃないか。