諦めの悪い女
遠い昔に、夢を見た。
九歳の頃の孤独なわたしに、もし誰かが寄り添ってくれていたなら、わたしは悪女にはならなかったかもしれない。願わくばそれが、アーヴェル・フェニクスだったらいい。彼ならきっと、わたしを闇から救い出してくれるはずだと、そういう風に、夢を見た。自分勝手な女が、ありもしない世界に、孤独を癒やす希望を見い出したのだ。
だけどいつの間にか、わたしだけの勝利は意味を成さなくなった。わたしの周りには、あまりにも大切なものが増えすぎたから。
「バレリー・ライオネル。勝者はあなたではあり得ない。これはわたしだけが勝つために作ったゲームなんだもの」
「そんなちっぽけな魔法で、なにができるって言うんだ?」
バレリーが、笑っているのが見えた。
わたしの得た魔法は、確かに吹けば消えそうなほど弱々しい。だけど井戸に充満した呪いは、エレノア・シャドウストーンという形を得て、彼女と境界が混じり合った。
前、バレリーの肉体という器に入れられた呪いに、お母様の祈りは届かなかった。だけど魔導具に入れられた呪いには、お母様の祈りもそのままそっくり入っている。
呪いの主導権は、姿なく命を落とした無数の魔法使いが持っているのではない。明確な意思を持って死んだ、エレノア・シャドウストーンが握っているのだ。
黒い霧が、わたしに向かって触手を伸ばす。
呪いは祈りへと変貌し、莫大な力は、わたしの力へと変換されていく。
「道半ばで散った無念の亡者たち、わたしを彼に勝利させなさい! セラフィナ・セント・シャドウストーンの勝利は、わたしだけの勝利を意味しないわ。
わたしの勝利は、エレノア・シャドウストーンの勝利であり、ジェイド・シャドウストーンの勝利であり、ショウ・フェニクスの勝利であり、アーヴェル・フェニクスの勝利であり――そうして、今まで虐げられ続けてきた、あらゆる弱者の勝利だわ!
そう信じ込んでいるのなら、敬意を持ってそう呼ぶわ! バレリー・ユスティティア! わたしはあなたに打ち勝って、自分の宿命にケリを着ける!」
バレリーは、起こっている事実を、拒絶するかのように、首を左右に振る。
「エレノアは、シャドウストーンを呪って死んだ。孤独と絶望の中で、世界よ滅べと願ったんだ! だから君に力を貸すなんてあり得ない!」
まるでだだをこねる子供の癇癪か、あるいは世間に絶望し悲痛に叫び神に懇願する聖職者のようだった。
「あり得るわ。だってそれが、母というものだもの。母は子供を、守るものだもの」
わたしはお母様を直接は知らない。
でもジェイドお兄様の語るお母様ならきっとそういう人なのだと思えた。優しくて、温かくて、愛に満ちた、素敵な人だ。
バレリーは、呪いを吸収するわたしを、微動だにせず凝視していた。唖然と、打ちのめされているようにも見えた。
わたしの心は、悲しみが支配していた。
彼の佇まいが、どうしようもなく、幼い頃の自分の姿と重なった。なにも知らずに生まれてきて、なにもできず、虐げられ、自分が無価値だと、毎日繰り返し、思い知らされたあの頃の、可哀想な女の子。それ以外の自分を知らなかった、狭い世界を生きる少女。
バレリーは言った。復讐こそが自分の存在意義だと。でもこうとしてしか生きられない、はずがない。わたしは変わった。たくさんの出会いと喪失を繰り返し、わたしは、知ったのだ。人生には、無限の意味があるということを。
「あなただって、本当は知っているはずよ。人と人の間には、切っても切れない絆が、自分でも気づかないうちに生まれて、そうして二度と、切り離せはしないということを。知らないうちに、心の中の大切な空間が広がっていくという幸せを、あなただって、知っているのよ」
反乱を起こした戦地において、バレリーは、わたしたちのことを好きだと言った。アーヴェルの返事を聞いた彼の、照れくさそうな笑みを覚えている。復讐だけが、いつもあったわけじゃないはずだ。バレリーだってお腹が空けば食べ物を食べて、眠くなればベッドで眠る。
誰かと関わって怒ったり、笑ったり、そういう普通の生活が、なかったとは言わせない。束の間何かに熱中し、復讐を、忘れることもあったのだと、信じたい。
誰かを殺すことだけをひたすら考え続ける人生なんて、悲しすぎる。そんなもの、あってはならないのだ。
バレリーは、ゆっくりと、わたしから目を反らすと地面を見つめた。
「――ああ、そういう、ことか」
バレリーの流すどす黒い涙の中に、透明な涙が、混ざった気がした。
「何度も上手くいかないのも、無理はない。もうお仕舞いだ。これで本当に、終わりだ」
その先にある虚無を見つめているかのように、彼の瞳は濁っている。その間も、わたしの体は黒い霧を吸収し続ける。帝都の魔法使いもたくさん虐殺したのであろうこの呪いは、わたしが知っているものよりも遙かに魔力の質量を増していた。
空は徐々に明るさを取り戻し、大勢の人々が、建物の中から息を潜め、わたしたちを観察している気配がした。帝都中の人が、わたしとバレリーの動向を、見守っていた。
地面を見つめていたバレリーは、緩やかに目を閉じ、再び開いて、わたしを見た。その瞳は、以前と同じように澄んでいて、とてもこんなことをしでかした人間には思えない。
バレリーは、まるでわたしの中にいる他の誰かに語りかけるように、静かに言った。
「初めから、こうすべきだったのかもしれない。だけど僕は、もう引き返せない場所まで登りつめてしまった。ねえ君。僕の、意図が分かるだろう?」
瞬間、自分の意思に反して、両手がバレリーに向けられる。下げたくても下げられない。急速に、手の先で魔法が作り上げられていく。
自分の中の何者かが、バレリーに魔法をかけようとしていた。これが、どんな魔法なのか知っている。人を、過去に戻してしまう――そんな魔法だ。だけど少しだけ違うように思えた。あの魔法よりも、ずっとずっと莫大で途方もないエネルギーが、わたしの手先に出現していた。
バレリーが言う。
「ねえセラフィナ。どうして時を戻すのが、肉体じゃなくて、精神だけなのか、分かるかい? それでも魔力が足りないからさ。肉体自体を過去に戻すのは、理論上は可能だ。だって精神にかける魔法と、肉体にかける魔法があるんだから、当たり前だよね」
小さく、バレリーは笑った。
「エレノア・シャドウストーンは、僕のメッセージを正しく受け取った。彼女は君の体を借りて、僕を過去に戻すんだ」
「どうしてお母様! 彼に操られているの!?」
お母様は何も答えない。
「い、嫌よ! お母様、わたし、バレリーを過去に逃がすわけにはいかないの!」
必死に語りかけたけど、無意味だった。ついに魔法は黒い光となって、バレリーに向かって発出された。
立っていられなくて、その場に倒れた。魔法に耐えきれなかった掌から、血が流れ出ていく。だけどそれどころじゃなかった。
バレリーを見る。彼は黒い光に包まれていた。
周囲の景色が歪んでいく。
崩れ去る。またしても。
曖昧になる。なにもかも。
世界が壊れる、音がする。
バレリー・ユスティティアが生きる過去に、敵はもういないだろう。
止めるだけの術が、もうわたしにはなかった。
だけどわたしは、確かに見た。自分の手が、微かに光っている。
「お母様、ここに、いるの……?」
か弱い光は、応えるように小さくきらめいた。わたしに残された、幸せで温かな、仄暗い、最後の魔法。血の滲む手を、握りしめた。
「まだ、終わっていないわ、バレリー」
わたしは誰もが恐れる悪女、セラフィナ・セント・シャドウストーン。自分の欲望を叶えるためなら、なんでもやってやる。
世界が崩れるそのときに、ありったけを、わたしは、わたしに向かって解き放った。精神だけでも、時を超える。
迷いは無かった。
いつかアーヴェルが言ったように、彼がくれた愛が、いつだってわたしの道標になる。
――幸せになってくれ、セラフィナ。
耳に、アーヴェルの声が蘇った。
どんなに世界が繰り返されても、アーヴェルが願ってくれた言葉を信じている。
あらゆる一切が始まったと言える瞬間があるとしたら――それはシリウス様のパーティで、アーヴェル・フェニクスに出会った瞬間だっただろう。
その頃わたしは空っぽだった。
空の器は、いとも容易く、彼への恋心で満たされたのだ。
第四章はまだ続きますが、次の更新分から数話程度、始まりの世界の話になり、その後で今回の続きに入ります。




