木は燃える
ざ、と足音がしたのはそんな時だ。
「アーヴェル、聞こえたよ」弟の名を呼びながら、現れたのはショウだった。
どうやら少し前から、話を聞いていたようだ。
アーヴェルがわたしの手を離し、慌てて自分の目を拭う。彼が文句を言う前に、ショウは言った。
「少し、歩こうか」
だから三人で、庭を歩き始めた。
先頭を歩くショウが、静かに笑う。
「唯一の家族の私がアーヴェルを信じなくてどうするんだと、さっきセラフィナに怒られてな――」
アーヴェルがわたしを振り返ったから、顔が赤くなるのを感じた。わたしもアーヴェルに似て、勢いで行動する癖がついてしまっていたのだ。ショウの言葉は続く。
「――そうして気がついた。思えばお前と、随分久しく、まともな会話をしていなかったことに」
アーヴェルは無言で聞いている。
「私はいつの間にか、途方もなく保守的で間抜けな人間になり下がっていた。偉大な父を持っていたが、自分は辺境に追いやられ、うだつの上がらない生活を送っていることが恐ろしかった。ともかく何かをしなくてはと始めた商売人の真似事が上手く行き、打ち込むことで逃げていた。叔父や周囲の期待や……お前という存在から、逃げたんだ。逃げることこそ最大の恥だとも思わずに」
足を止めずに、ショウは言う。
「なあアーヴェル。私がお前を憎んでいるんじゃないかと、言ったな」
アーヴェルが唇を噛みしめ、両手を握りしめるのが見えた。ショウの声が、穏やかに続く。
「お前はいつか、言ったんだ。いつまで血の繋がりに固執するんだと。血族の絆などないと、お前は思っていた節がある。だけど少なからず確かに絆はあるのだと、私は思うよ。
お前に初めて会ったのは、生まれてから一年も経った頃だった。弟だという実感はなかった。私に似てもいなかったし、初対面だったしな。小さく蠢き、たまに泣く、奇妙な生き物でしかなかった。……お前を一度も憎まなかったか――それは多分、正解じゃない」
アーヴェルが、身を固くするのが分かった。振り返らずに、ショウは言う。
「私は多分、羨ましかったんだ。父上がどちらを後継者にする気だったかなど、もう分からないが、最終的に選ばれたのはお前だったんじゃないかと、思わずにはいられなかった。魔法が使える子供が望まれ、魔法が使えない私など、要らなかったのだと、言われているように感じていたんだ。だけど、二人して北部に放り出され、泣いている幼いお前を見たときに、守れるのは私しかいないと思った。お前は私の弟に、私はお前の兄にならなくてはならないと、思ったんだよ。
だから、お前が私たちのためならなんでもできると言ってくれたとき、嬉しかったんだ。心の底から嬉しかったんだよ。ようやく私は、お前の兄になれたのだと、そう思った」
ショウは、どこまで彼自身の記憶を思い出しているんだろう。それは一つ前のループで、アーヴェルがショウに言った言葉だった。
アーヴェルは、首を横に振り、声を詰まらせながら言った。
「二人が見てるのは幻想だ。そいつは、俺じゃない。俺は一度も、そんなこと、言ってない」
「いいや、それも確かに、お前だった」
しばらく無言が続き、ある場所で立ち止まった。ショウが大切にしていた“兄貴の木”の、前だった。
ショウは、驚くべき事を口にする。
「アーヴェル。お前の手で、燃やしてくれないか」
え――。と、わたしもアーヴェルも動けなかった。だってこの木は、ショウにとって特別な思い入れのある木だ。それを容易く燃やせるはずがないのに、ショウは言う。
「この木に花が咲くのを二度見た。一度目はセラフィナによって、二度目は、アーヴェルによって。十分だ。私は幸せ者だよ。いつまでも過去に縛られていては、未来を見損なってしまう」
アーヴェルが、困惑気味に尋ねる。
「いいのかよ」
「いいんだ。これは、一つのけじめのようなものだから」
わたしがアーヴェルの背を押すと、彼は一歩進み出て、両手を木に向ける。
次には手から火花が散り、あっという間に木へと燃え移った。
木が燃える。
後戻りは、もうできない。
ショウが、棒立ちのままのわたしとアーヴェルの肩を抱いた。温かくて、大きな手だった。
「何もかも失っても、何も残っていないわけじゃない。今日という日が絶望に塗り替えられても、希望は無限に生まれてくる。今日夢に敗れたら、明日からまた、新たに見ればいいだけさ。そうだろ――」
自分にも、言い聞かせるような口調だった。ショウの言葉は、わたしの胸にじんわりと染み渡る。
そうだ、また、始めればいいんだ。きっとこの先、楽しいこともある。
炎がわたしたちを照らし、背後に影を作った。三人分の影はまとまり、まるで巨大なひとつの生物のように、蠢いていた。
枯れた木は焼かれ、見る間に面影を失っていく。空を目指して浮かび上がっていく火の粉が、わたしたちの瞳に無数に映っていた。
アーヴェルはいつだって、わたしに幸せと喜びだけ感じられるように、目と耳を塞いでくれていた。
でも幸せだけ感じて生きてはいけない。喜びだけ受け入れることなんてできない。だってどうしたって、幸せの裏には不幸が、喜びの陰には悲しみもあるのだから。誰かを守りたいと思ったとき、綺麗事だけではままならない。人を傷つけてでも全うしなくてはならない時が、わたしたちには必ず来る。
「なあ兄貴」
自分が作り上げた炎を見つめながら、アーヴェルがぽつりと言った。
「さっき、壁に穴開けて、ごめん」
隣でショウが、笑った気配がした。




