恐怖の理由
ベンチに座り直して、わたしはショウに話したように、アーヴェルに対して今まで起こった世界の話を語った。アーヴェルは、時折目線をわたしに向けながら、黙って聞いている。
わたしは話しながら、アーヴェルを見ていた。長い睫や皮膚の下から透ける静脈や、その美しい色の瞳や髪の毛の色。
彼は生きて、今ここに存在している。その全てが愛おしかった。
「……どう?」
全て語り終わって尋ねると、アーヴェルは首を横に振った。
「どうって、言われてもさ。やっぱり普通、信じられるかよ」
「そうよね」
わたし自身も、信じられないような体験だから、無理はない。だけど伝えることは伝えきった。アーヴェルが飲み込んで、考えてくれる時間は、まだあるはずだ。
夏場とは言え、薄着で飛び出した夜は冷える。
気を取り直そうと思って、立ち上がり、彼に問う。
「エンジェルのお墓はどこにあるの?」
「……こっちだよ」
アーヴェルも、素直に立ち上がった。
大人のアーヴェルは忘れてしまっていたことだけど、今のアーヴェルはまだ覚えているみたいだった。
それは庭の隅の花壇の中の、ほんの一角にあった。墓標代わりの板切れに、インクで書かれたらしい文字はすでに滲み、読み取れなくなっている。
出始めた星々が見守る中、二人して、お墓の前にしゃがみ込む。
子猫の魂の安寧を祈る間中、アーヴェルがわたしを観察する気配があった。目を開けて、わたしは言う。
「きっと、この子は幸せだったわ」
アーヴェルは静かに首を横に振った。
「そうは思えない。生まれてすぐに死んじまうなんて、紛れもない不幸じゃねえかよ。だったら、生まれてきた意味ないだろ」
「そんなことないわ。たとえほんのわずかでも幸せを知ったら、それでその命は輝けるもの。この子が生きた記憶が、あなたの中にある限り、この子の命に意味はあったんだわ」
アーヴェルは黙ってお墓を見つめていた。体はわたしよりも大きいけれど、その佇まいを見ていると、彼が子猫を失って打ちのめされている頃の、今よりずっと幼い少年のように思えて、抱きしめたい衝動に駆られる。だけどそんなことをしたら、せっかく開きかけている心を閉ざしてしまうだろう。
抱きしめる代わりに、だから問いかけた。
「ねえ、アーヴェル。どうしてショウが嫌いなの?」
アーヴェルはそっけなく答える。
「男兄弟でべったりだったら、それはそれで気色悪いだろ」
「時が戻る前は仲が良かったわ。心の底から信頼し合ってた」
「それは俺じゃない。絶対に違う」
お墓に焦点を合わせたまま、ぼんやりとアーヴェルは言った。
「俺はフェニクス家の出来損ないだ」
「誰がそんなこと言うのよ」
「皆だよ、みんな」
アーヴェルは言う。
「嫌ってるのはショウの方だ。俺が問題ばかり起こす出来損ないだから」
「ショウはそう思ってないわ」
「思ってるよ。あいつも皆も、本心じゃそう、思ってる。俺はショウとは違うんだ。父親に似ても似つかない。根が腐ったなり損ないだ」
アーヴェルの手を握った。
「ねえアーヴェル。このままだといつか後悔してしまうわ。愛していたと気づいても、全てを失ってからじゃ遅いのよ」
このアーヴェルが、あのアーヴェルと違っても、愛された記憶がこの胸に残っている。それを今度は、わたしが彼に与えたい。
愛していると気づいていても、失ってしまったら取り戻せない。どれほど深く愛しても、無残に引き裂かれることはある。だけど愛さなければよかったとは思わない。
沈黙があった。わたしが握る手から、アーヴェルは逃げない。
空気をわずかに揺らす呼吸を吐いた後で、アーヴェルはようやく小さな声で、囁いた。
「……怖いんだよ。ときどき、兄貴が、俺を憎んでるんじゃないかって、思うんだ。俺だって、望んで生まれて来たわけじゃない。魔法なんて、使えない方がよかった」
驚いた。そんな風に感じていたなんて、少しも知らなかったから。アーヴェルの声は震えていた。瞳が、見る間に悲しみに染まっていく。きっとこれが、彼の本音なんだろう。
瞳からついに涙がこぼれ落ち、彼は誤魔化すように袖で拭き取った。
彼が泣くのを見て、胸がじんと痛かった。愛おしいという意味を、また実感する。アーヴェルを、この手で守ってあげたい。
あのいつも強気なアーヴェルの少年時代が、これほどまでに孤独で傷つきやすく、繊細だったと、誰が、気づいていただろう。今になって知る。アーヴェルのショウへの反抗は、いつか捨てられることへの恐怖心なのだと。
「そんなことないわ。ショウもわたしも、あなたが本当に大切よ」
「だけど実際のところ、こう思ってる奴もいる。俺とショウは、血が半分だって繋がってないんじゃないかって」
驚いて言葉が見つからないわたしをよそに、アーヴェルは自虐的に口の端を歪めた。
「俺の母親は別の男との間に俺を作ったんじゃないかって、そう言ってくるんだ。実際、そうなのかもしれない。俺は他の一族に、外見だって似てないしさ」
「誰がそんなこと言うのよ」「皆だよ、みんな」同じ問答を、わたしたちは繰り返した。
「それをショウに言ったこと、あるの?」
言えるかよ、とアーヴェルは首を横に振る。
「ただでさえ、俺の母親が兄貴の母親を皇妃の座から引きずり下ろしたんだ。兄貴の母親は追い出されて、子供にも会えないまま死んだ。魔法が使える子供を親父は望んで、見事一人目で生まれた。分かるだろ、兄貴は魔法が使えないから、代わりに俺が作られたんだ。だけど、その俺の血が繋がってなかったら? ――だから怖いんだよ。
兄貴が俺を憎んでるって、言葉にされたら、俺に価値なんてなくなる。フェニクス家でもない、皇帝への裏切りを働いた女の子供だ。魔法だって並だ。そのうち戦場へ派遣されて、死ぬのが関の山だろうさ。死んだって、きっと誰にも悲しまれない忘れられた存在が、俺だよ」
「そんなに卑屈になっちゃだめよ。皆なんて、存在しないわ。あなたを傷つけることを目的にしている卑怯な人たちの言葉になんて、耳を貸す必要ないのよ」
だんだんと、言葉は強くなる。
「よく考えなさいアーヴェル。弱い者は奪われ続けるだけよ。それが嫌なら、向き合って、戦わなくてはいけないわ」
握る手に、力を込めた。
「大丈夫よ、あなたたち、本当にそっくりだもの。目の色や、性格もね。二人の血の繋がりは、一番近くで見てきたわたしが保証するわ」
アーヴェルは、じっとわたしの手を見ていた。やがて彼は、おそらく時が戻って初めて見せる本当の笑顔を浮かべて、小さく笑った。
「確かにお前、九歳児には見えないよ」




