よくある気楽な関係
ショウの中にあるのは、ある時点までのアーヴェルの記憶だったから、さっきまでの世界については何も知らなかった。
改めて起こった出来事を話すと、ショウはたったひと言だけ言った。
「そうか。また、だめだったんだな」
そう、また、だめだった。
わたしたちはまた負けた。
でも、わたしがいなかったら、二人は勝てたかもしれない。震えるわたしの手を、ショウは握る。伝わる手の温かさに、ほっと心がほぐれた。
「悲観してはいないよ。私もあいつも、そして君も、生きているじゃないか。
よくやったもんだ。そうだろう? 皇帝とシリウスを倒すだなんて、私だったら考えても、行動はしなかっただろう」
アーヴェルがいたからだ。
いつだって彼は、根拠があるのかも分からないまま、わたしたちを鼓舞し続けた。自分だってきっと何度も打ちのめされていたのだろうけど、絶対にそれを、表には出さなかった。決して強くなんてない、弱い人だったけど、どんな時も、強くあろうとしていた。だから皆、強く惹かれたのだ。
わたし、そんなアーヴェルに恋をしていた。彼を愛していた。彼がいなくなっても、今もそれは、変わらない。
それから、わたしはショウと、今までの出来事について共有することにした。
「バレリー・ライオネルの目的は単純よ。中央だろうと北部だろうと、フェニクス家を潰すこと。……わたしたちの敗因も、やっぱり彼だった。彼はあなたたちに勝つためなら、自分の命なんて少しも惜しくなかったんだもの。そこがわたしたちとの違いだった」
「ユスティティア家の残党か……それが存在していたかは定かではない。父と叔父は、一人残らず殲滅させたと言っていたから」
「だけどバレリーは、自分の出自を盲目的に信じていたわ」
「事実かどうかはもはや重要じゃないんだろうな。それが彼の存在意義なんだろう。君の話だと、バレリーが自身の命と交換条件に、ロゼッタ・シャドウストーンから呪いを引き受けたということか」
「うん。ジェイドお兄様がアーヴェルに語った話と、お父様の様子を総合して考えると、バレリーは、死後にシャドウストーン家の魔導具に魔力を提供することを取引していた。
アーヴェルの魔力に対抗するにはそれしかないとも思ったのかもしれないわ。初めから死ぬつもりで、呪いをその身に宿したのよ。戦場で、バレリーはどんどんやつれていったけど、呪いの代償で、命が削り取られていたんだわ」
「つまり、こういうことか」ショウは言った。
「私たちが完全勝利を収めるためには、北部に魔導石があると先に気づかれてもいけないし、井戸の呪いをバレリー・ライオネルに渡してもいけない。
その上で、シャドウストーン家を排除し、皇帝一家を排除し、バレリー・ライオネルを排除しなくてはならない。――それも魔法使いなしで」
時間の制約もある。魔導武器はいつだって北部に配備されていた。ということは、時間の経過によって、魔導石があると気づかれることは確実だ。そうなってしまったら、身動きを取るのは難しい。
アーヴェルが乗り気になったとして、今の彼の魔力は並で、大きな戦力にはならない。シャドウストーン家は前みたいに魔導石を引き合いに出せば協力してくれるかもしれないけれど、バレリーから声をかけられたら、死後魔力を提供し、呪いまで引き受けてくれるそっちの方が利があると容易く乗り換えられてしまう。彼らの接触をすべて阻めるわけもない。
現状、良い打開策は浮かばなかった。
「ジェイドお兄様は、もしかしたら味方になってくれるかもしれない。今は最低の人間だけど、いつまでも最低なわけじゃないもの」
ジェイドお兄様のことは好きなわけじゃないけど、わたしに謝罪をしたし、アーヴェルへ友情も感じていた。今すぐには無理でも、上手くすればまた協力してくれるかもしれない。
「ジェイド・シャドウストーンは、君が教えてくれた話だと、君を殺そうとしたバレリーを止めようとして誓約を受けたんだろう。分からないんだが、なぜバレリーは君を攻撃したんだ。まさか初めからジェイドを殺したかったわけじゃないだろう」
「誓約よ」わたしは答えた。
「わたしは、バレリーにアーヴェルを殺させないように、誓約を課した。それがバレリーの足かせになっていたんだわ。最後は呪いに頼ったけれど、呪いは命を削り取る諸刃の剣よ。できるだけ、使いたくなかったに違いないわ。だからわたしを殺そうとしたのよ」
「君が? いつ彼に――」
ショウは困惑しているけど、当然だ。だってバレリーに誓約を与えたのは、ショウもアーヴェルも、もういない世界での話だった。
「一番初めにあった世界の話をしましょう。わたしたちの誰も、時を戻さなかった以前の話をしなくちゃ」
ショウは以前自分自身の記憶を取り戻していたけれど、彼の中にあるのは、自分がその世界で処刑されるまでの記憶だ。アーヴェルは思い出さなかったから、彼の記憶の中に、その世界の思い出はない。
だからその世界の最後を過ごしたわたしが、何が起こったかを知っていた。
長く続く、暗澹たる記憶の話。噛み合うはずの歯車が、すべて壊れてしまった世界の話。自分勝手な、女の話。
「……なるほど」
それだけ、ショウは言った。ある程度は、想定していたことなのかもしれない。
咳払いをひとつした後で、彼は言う。
「大体は、分かったよ。君と私も、いつまでも婚約していてはいけないな。アーヴェルと君の婚約を、し直そう」
そこでわたしはどうしようもなく胸が疼いた。ショウと恋人同士だった頃のことを、思い出す。彼は理想の恋人で、どんな時だって優しくて、わたしの心の中の大多数をアーヴェルが占拠していると知りながら、わたしを好きでいてくれた。そのことに後ろめたさを覚えながらも、わたしは彼と、結婚しようと思っていた。
だけどその世界さえ、もう遠い過去の話だ。
一つ前のループの中で、ショウはアーヴェルに本音を語って、アーヴェルはその記憶もわたしに丸ごと渡した。ショウはわたしを今も、大切に思っていると言ってくれていた。
「わたしたちの関係は――その」
「ありふれた関係だ」そう言ってショウは目を閉じた。「……つまり、元恋人同士だ。よくある気楽な関係さ」
再び目を開けたとき、ショウは穏やかに微笑んだ。
「君が大切であることには変わりない。だけど、恋人に戻りたいと、望んでいるわけじゃないよ。私が入り込む余地など、初めから二人にはなかったんだ」
感情が高まって、身を乗り出して、今度はわたしが彼の両手を、自分の手で包み込んだ。
「ショウ、わたしもあなたが本当に大切よ。それはこれから先、何があっても絶対に変わらない」
ショウは再び、静かに笑う。
「一度アーヴェルときちんと話さなくてはならないだろうな。あいつは今、何も知らない少年だが、ともかく共有しておかなくては」
「でも出て行ってしまったわ。どこに行ったのかしら」
「君には言い難い」
躊躇うショウだったけど、わたしには分かってしまった。なぜならアーヴェルの記憶が、わたしの中にあるのだから、意識してみると、簡単に引き出せるのだ。
「こっ恋人が何人もいるってこと? 彼女たちの家に行って、こっちには帰らないことが多いの?」
十代前半なのにそれほど堕落した生活を送っていいはずがないけれど、家にいたくなくてそんな時期があったことは確かなようだった。
ショウは気まずそうに頷いた。
「端的に言えば、そうだ。友人宅の場合もあるようだが、大抵は恋人たちの部屋にいる」
なんてこと。自分の表情が険しくなるのを感じた。
嫉妬の炎が渦巻きそうになるのを、慌てて諫める。だってアーヴェルはまだ何も知らないのだから、気の向くまま、やりたいように生きているだけだ。だったらこれから、教えればいい。
誰が敵だとか、どうしたら勝てるだとか、そんな話は二の次だ。
彼が帰ってきたら捕まえて、彼の運命の恋人がわたし以外にいてはいけないということを、一番初めに伝えなくてはならない。




