引き継がれる意志
夜が明けても、アーヴェルも、ショウも帰ってこなかった。
朝食を食べた後に、一人で庭に出てみる。
青空に映えるように雄大な北部の山々はいつもそこにいて、しばらく戦場に出ていたから、ひどく懐かしく感じた。あの山々に、魔導石が今も、誰にも知られずに眠っている。
小鳥がさえずる中、庭を歩き回った。ショウの木も健在で、枝に一羽の大きな鴉が止まっているのが見えた。
「あなたはどこから飛んできたの?」
鴉は答えるように大きな声で一度鳴くと、大きな羽を広げて飛び上がり、ぐるぐると上空を旋回した後でどこかへと去ってしまった。
夏でも澄んだ朝の空気を、思い切り吸い込む。戦場で、たくさん人が死んだなど、嘘のように思えた。死んだ人がいなくなったのだから、時が戻るのは、悪いことばかりではないのかもしれない。
そうしていると、玄関先が慌ただしくなり、ショウが帰って来たような気配がした。屋敷に戻ると、やはり彼はいて、感情の読み取れない表情で言う。
「話がある。書斎へ来てくれないか」
一方的にそう言うと、歩き出した。
後を追うようにして書斎へ行くと、入るなり彼はソファーにどかりと腰をかけた。
向かいにわたしも腰掛け、彼が口を開くのを待った。なのに一向に、彼は声を発しない。組んだ両手を額に付け、祈りとも取れるポーズをしたまま押し黙った。
「話って、なにかあったの? どうしたの?」
しびれを切らして尋ねると、やっと、ショウは言った。
「昨日の昼からだ。突然その考えが頭に入り込んできた。言い訳じゃないが、それまで私はまともだったし、今も別に頭がおかしくなったとは思っていない。
明確にこれとは私にも分からない。ただ、寝室の窓の内側に巨大な虫がぴとりと張り付いているかのような胸糞の悪い違和感が、ずっと付き纏っている」
回りくどい言い回しに、真意がつかめない。表情に出ていたらしく、わたしの顔を見た後で、ショウはさらに眉間に皺を寄せた。
「……初めはそうだ。昨日、食事中に君が泣き出して、前のように、またアーヴェルに泣かされたのだろうかと思った。そうしておかしさに気がついた。前などあり得るはずがないということに。
だがどうだ。一日経っても、その考えが頭を離れない。眩暈さえ覚えるほどの強烈な既視感だ。私は何度、君との婚約を親族に発表した? いやそもそも、なぜ私は生きている。
シリウスに、三度、殺された。一度は君の兄さんに殺された。私は四回、死んでいるんじゃないのか。だがそれに気がついているのは私だけだ。親族たちも使用人も、アーヴェルも、いつもどおりだ。違うのは君だけだ。君に尋ねるのも妙なことだとは思うが――」
「ショウ……覚えているの?」
はっとショウは顔を上げる。瞳が、小さく揺れる。
「そ、そうよ、そうなの! 何度も繰り返してる。わたし、さっきまで、あなたとアーヴェルが皇帝を倒したその場にいたの! だけど、アーヴェルが、わたしのために時を戻してくれたの。わたしは今、二度目、だけど、世界はもっともっと、何回も繰り返しているの」
これは奇跡に違いない。
なぜショウの中にその記憶があるのかは分からなかったけれど、奇跡に心が歓喜していた。
わたしは、自分の知り得るだけの知識を持って、今までの出来事について説明をした。ショウは黙って話を聞いている。
聞き終えたとき、彼は長いため息を吐いて、項垂れているのか頷いたのか分からないほどのゆっくりとした動作で、頭を下に向けた。
「……普段の私だったら、一蹴して終わりそうな話だ」
信じてくれなかったのだろうと不安になってショウを見ると、数度小さく、頷くのが見えた。
「私の中に残るのは、さっきまではそこまではっきりした記憶じゃなかった。
だが君の話を聞いて、驚くほど鮮明に、蘇って来た思い出もある。――君の十歳の誕生日に、何を買えばいいのか分からず店を数軒回って、結局店主にすすめられたまま全て買って帰って、アーヴェルに苦笑いされた――。
なぜ今まで、忘れていたのか不思議なほどだ。だが奇妙なのは、それが私の目ではなく、別の人間の、視点のように思えることだ」
そこでわたしは、なぜショウの中に記憶が残っていたのか、ようやく気がついた。
「アーヴェルが魔法をかけたからだわ! あなたの精神に魔法がかけられていたから、それが微かに残っていたんだわ!」
彼のしてくれたことは、無駄じゃなかったんだ!
小躍りしたい気分だった。嬉しかった。アーヴェルは、やっぱりすごい。彼のしたことが、今ここに引き継がれていて、わたしを助けてくれていた。
「ショウの中にあるのは、アーヴェルが見てきた記憶だわ! わたしがアーヴェルの時を戻して、わたしを必死に育ててくれた、二回の記憶が、あなたの中にあるのよ! 誕生日に、たくさんの贈り物をもらったときのこと、わたしもよく覚えてる。心の底から幸せだったんだもの!」
ショウは驚いたように目を見張る。
「待て、なぜ誕生日の思い出があるんだ。その後だって時は戻っていて、君はその後の世界から戻ってきたはずだ。……まさか、以前の記憶があるのか? 君が、かつて生きてきた世界の記憶が」
小さく、わたしは頷いた。
「……アーヴェルが、くれたの」
アーヴェルはあの瞬間に、わたしに二種類の魔法をかけた。一つは時を戻す魔法。もう一つは、自分の記憶を、わたしに流し込む魔法だ。
「アーヴェルは、とっくに分かってたの。自分の記憶をどうやったら他人に共有させることができるのか。肉体に魔法をかけるんじゃない。その精神に、魔法をかけることで、その人に、記憶を見せることができる」
彼の記憶を共有したから分かった。
今までわたしにその魔法をかけなかったのは、知らなくていいと隠したかった部分があるからだ。だけど最後に彼は思った。それさえも、わたしは乗り越えられると。
だから記憶をくれたのだ。その信頼を思うと、胸が温かくなる。
一つだけ、アーヴェルに誤算があったとするならば、彼の記憶を引き金にしてわたし自身の記憶が蘇ったことだろう。
そう、わたしは今、全てのわたしたちが過ごしてきた時間を、共有していた。
「君自身の記憶が全部あるのか?」ショウは愕然と言う。落ち込んでいるようにも見えた。
「まったく。後先考えない、あいつらしいな」
それからショウは、寂しげに笑った。失ったものを慈しむような笑みに思える。
「しかし大丈夫なのか。君の記憶は……その、辛いものもあるだろう」
確かにそうだ。セラフィナ達の人生は、総計すると幸福より不幸の量が遙かに上回る。
「うん――うん。たしかにそう。思い出したくないこともある。自分の誇りを蹂躙されて、わたしもわたしを傷つけた、暗い記憶が、あるわ。それを思うと、今でも気が狂いそうになる。
だけど、わたし、思うの。どんなわたしだって、それはわたしなんだって。人を陥れて快楽に浸る悪女も、純粋で善人でいようとしていたわたしも。でもね、ショウ。わたし、大丈夫よ。だって、アーヴェルは全部知っているけど、その記憶を見せてもわたしだったら大丈夫だって、信頼して託してくれたんだもの。その信頼を思うと、わたし、頑張れるわ。不幸の量が多くたって、絶対に揺るがない幸せな思い出があれば、わたしはそれで、大丈夫なの」
今やっと、わたしはアーヴェルと対等な存在になれた気がした。
自分のしでかしたことから、逃げるなんてきっとできない。向き合い、決着をつけなくてはならない時が必ずやってくる。
だけどわたしは一人じゃない。アーヴェルは側にいるって言ってくれたけど、本当にそうだ。彼のくれた愛の中で、わたしは今も呼吸ができる。
ショウは言う。
「時が戻っているのではなくて、世界が再編されているのかもしれない。あの食事会以前に、この世界は存在しなかったんだろうな。だから私も、そこから頭がおかしくなった」
「あなたは前にも似たようなことをアーヴェルに言ったわ。わたしたちは、ループしているんじゃなくて、一直線上にいるのかもしれないって。だから表出していなくても、人の思いは消えては無くならないのよ」
きっと今の世界にいるアーヴェルも、前の世界にいたアーヴェルと変わらないはずだ。そう思うとわたしの心は勇気づけられた。