ひとりぼっちの
第四章開始です。ここまでお付き合いいただき、本当に感謝しています。楽しんでいただけていたら、嬉しいです。
視点は再びセラフィナになります。
引き続きよろしくお願いします。
長い――。空白が、あったように思えた。
生まれて生きて、死ぬまでの間に、幸福が約束されていないのなら、一体、わたしたちはなんのために生み出され、存在しているのだろう。
命の終わりに大口開けた不幸が待っているのなら、生に意味など何も無い。
シャドウストーンの家にいた頃、わたしが願ったのはたった一つのことだった。
“違うわたしになれますように”
だけどアーヴェルは、わたしの命に意味を与えてくれた。あれだけ守りたかった自分とショウの命を、わたしのために捨てたのだ。今わたしが生きているのは、彼らがここにいないからだ。
だからわたしは、わたしでなくては意味がない。わたしの命には、意味がなくてはならなかった。
食事会の席で、突然立ち上がったわたしに、皆の視線が集まった。
親族たちが、訝しげにわたしを見ている。
ショウが、ぎょっとしたようにわたしを見ている。
……アーヴェルが、無関心にわたしを見ている。
この場面は、よく覚えていた。わたしとショウの婚約を、親族一同に告げている日だ。不安でいっぱいだった、あの日。
さっきまでいた帝都の城は消え去り、死体の山も消え去り、わたしを強く抱きしめていたアーヴェルもまた、どこにもいなかった。
わたしは一人だった。
たった一人で、この場所に戻って来てしまった。
胸が、張り裂けそうだった。
今ここに、彼らがいないことが、とても悲しくて耐えられなかった。
頬を涙が伝うのを、拭うことさえできない。
ショウが、彼にしては珍しく、唖然とした表情を浮かべている。
「君は、セラフィナか――」
当たり前にわたしはセラフィナだったけど、その事実にやっと気がついたのだろうか。
「……いや、なんでもない」
それから、ショウは親族に向き直って、苛立ちとも取れる口調で言い放った。
「申し訳ありませんが今日は中止にします。皆さん帰っていただきたい」
わたしが泣いたせいかもしれない。親族達はざわつき始める。
「セント・シャドウストーンの娘の機嫌を損ねたら、フェニクス家といえどただじゃ済まされない」
「先方の了承は得ているんだろう、彼女のわがままだ」
口々に、好き勝手言っていた。
小さく舌打ちが聞こえて顔を向けると、アーヴェルが、無言で食堂を出て行くのが見えた。
わたしの知っている彼とは、あまりにも違う。少年の彼は、一度もこちらを見ようともしなかった。
「アーヴェル、待――」
追いかけようとして、はっと立ち止まる。
追いかけて、どうするの?
彼は何も知らないし、さっきまであった出来事は、今はもう、わたしの頭の中にしかない。それにわたしは魔法が使えない。アーヴェルみたいに、記憶を流し込むことはできないのだ。
アーヴェルなら、こんな時どうするだろうか。
彼ならきっと、とにもかくにも行動するだろう。ショウが何かを言いたげに口を開いたのが見えたけれど、わたしは食事会の席を飛び出した。
幸いなことに、アーヴェルは、すぐに見つかった。お屋敷の玄関で、使用人に見守られながら、今まさに出かけようとしていたところだった。
「アーヴェル、待って! わたし、あなたと話さなくちゃいけないの」
呼び止めると、そこで初めて、アーヴェルはわたしの顔を見た。それだけでわたしの心臓は跳ねる。アーヴェルなら、きっとどうにかしてくれるはずだ。いつだって彼は、そうだった。
だけど期待はすぐに打ち破られる。
記憶の中よりも幼い彼は、眉を顰めてわたしを見た後で、すぐに使用人に顔を向けてしまった。
「おい、兄貴の婚約者が俺に話しかけているみたいだ。黙らせろ」
この世界で初めて聞く彼の声は、不服そうに響いていた。使用人の中で、わたしに一番よくしてくれていた女性が、たしなめるように言う。
「アーヴェル坊ちゃま、そのような言い方は……」
「俺は知らない奴に話しかけられると苛つくんだよ」
「だ、だけどわたし、あなたに話が」
「話すことなど何もない」
それきり、アーヴェルはまるでわたしなどいないかのように顔を背け、再び使用人に声をかけた。
「数日帰らないから、そう兄貴に言っておけ」
背後から声がかけられたのはその時だ。
「アーヴェル、どこに行くつもりだ」
ショウがやってきて、アーヴェルに向けて鋭い声を発した。アーヴェルはさらに表情を険しくさせ、態度を硬化させる。
「どこだっていいだろ、あんたに関係ないところだ」
「また問題を起こすつもりか。お前は魔法使いだ、一般人と喧嘩して、この前みたいに――」
「うるせえな! あれはあっちが悪いんだ!」
アーヴェルが大声を出して壁を殴ったため、わたしの体はびくりと震える。アーヴェルは無理に口の端を吊り上げたような、不器用な笑みを作った。
「珍しく俺に話しかけてきたかと思えば説教か? 婚約者の前で格好つけてんのかよ。無理して俺に興味があるふりなんて、しなくていいぜ。互いに兄弟だなんて、思ってねえだろ」
そう吐き捨てると、本当に出て行ってしまった。
そんな弟の背を見て、ショウは深いため息を吐く。
わたしは、呆然と二人を見ていた。
――なんて、仲が悪いの。
わたしの知っている二人の息はぴったりだったけど、今目の前にいる二人の間にあるのは深く長い、溝だけだ。
アーヴェルは、十三歳の頃の自分を見捨ててくれと言っていたけれど、当然そんなことできない。だけどあっという間に馬車に乗って、去ってしまって、話す隙さえ与えてくれない。
こんな状態の彼らに、どう手をつけていいのか全く分からない。だけど、どうもしないと、きっとショウはお父様たちに殺されて、アーヴェルも深く傷つき自暴自棄になる未来になってしまう。いいえ、それならまだましで、最悪は二人とも絶望のうちに殺される。
そんなこと、絶対に嫌だった。大好きな二人には、幸せになってもらわないとならない。
でもどうしよう、どうしたらいいの?
「セラフィナ――」
呼ばれて振り返ると、ショウが、じっとわたしを見ていた。不思議な感覚だった。ショウがわたしを呼ぶ声には、奇妙にも愛情が含まれているような気がしたのだ。
ショウはやっぱり何かを言いたげに口を開きかけたけど、結局は首を横に振った。
「――いいや、なんでもない。私は親族を見送りに行ってくるから、今日は戻らない。不自由があれば使用人に言ってくれ。君の屋敷に比べたら不便かもしれないが、ゆっくりくつろいでくれたまえ」
そう言って、彼もまた、親族の相手に戻ってしまった。
夕食の席には、一人でついた。食欲はあまりなく、ほとんど口を付けないまま、わたしは勝手知ったる自分の部屋に戻る。
まだぬいぐるみも、洋服も、気に入ったカーテンも、アーヴェルとショウからもらった山のようなプレゼントもない、質素な部屋だ。わたしが大切に作り上げて来たものが、音を立てて崩れ去ってしまったようだった。
思い出が詰まったこのお屋敷だけど、その思い出を、誰かと共有することはできない。
いっそのこと、何もかも、夢だったら良かったのに。わたしはまだ九歳で、初めてアーヴェルに会っただけの女の子。そうだったら、こんなに辛くはならなかったのに――。
「馬鹿ね、そんなの嫌よ」
考えを否定するために、声に出した。
どんなに今が辛くたって、優しく幸せな記憶まで失いたくない。温かくて、かけがえのない大切な思い出を失ったら、それこそわたしには何も残らない。
二人に会えて、わたしがどれほど幸せだったのか、全部伝えきれないままに、永遠のお別れをしてしまった。
「……だから今度は、わたしが二人を幸せに導くのよ」
月明かりが差し込む窓の外に目を遣った。
夜の北部の山は、巨大な壁のようにわたしを見つめ返す。夏場でも山頂の雪は溶けず、暗闇にあっても白く見えた。懐かしくて、大好きな景色だった。
「しっかりしなさい!」
両手で頬をぴしゃりと叩く。
今まで必死に奮闘してきたアーヴェルの思いが、消えて無くなるわけじゃない。
彼の心は、今、わたしの中に確かにある。だから大丈夫。悲しみに浸っている場合じゃない。
アーヴェルなら言いそうだ。約束された幸福を待っている人間が幸福に辿り着けるわけじゃない。どこまでも盲目的に、幸福になることを信じられた人だけが、幸福になれるんだと。だから彼は世界にあがいて、わずかな糸をたぐるように、わたしに希望を託したのだ。
「……ねえ、そうでしょう? アーヴェル」
話しかけても、当たり前に返事は返ってこなかった。