子猫の墓標
列を外れ、森の中に入ると、木陰に彼女を横たえた。広葉樹の枝の上では小鳥がさえずり、小川が俺たちの横を流れ、先ほどの事件が嘘であるかのように平和な雰囲気を作り上げていた。
セラフィナの瞼がピクリと動き、うっすらと目を開ける。
「……アーヴェル?」ぼんやりとしていた焦点が徐々に定まると、その両目から涙が溢れた。
「ジェイドお兄様が」
何を言っていいのか分からずに、伸ばされた彼女の、震える手を握る。
「ジェイドは、お前を狙った何者かから、お前を守るために、命を懸けたんだ」
ジェイドの死に際から見るに、敵も魔法使いには違いない。だがその姿は見つけられず、すでに逃亡したものと思われていた。
「ジェイドお兄様が、わたしを庇ってくれたの……?」
声を詰まらせながら、囁くように彼女は言う。
「わたし、いつか、お兄様に言ったことがあるの。血は、水よりも濃いって……。優しさは甘さに、甘さは裏切りに、裏切りは死に――繋がるって……。あれは、いつのことだったのかな――」
「思い出すな!」俺は彼女の体を抱きしめた。震えながら、彼女は俺にしがみつく。
背筋に、冷たい汗が伝った。
思い出してはいけないことだ。それは彼女の、一番暗い頃の記憶に違いない。封じ込めろと念じながら、彼女の体をさらにきつく抱きしめる。
「お願い。どこにも行かないで。側に、いてアーヴェル。わたし、心細いの……」
辛い記憶を、彼女に思い出して欲しくない。
セラフィナが流した涙が、俺の首筋を伝っていく。
「いるよ」俺は答えた。「俺は、いつだってお前の側にいる」
兄貴の墓の前で、俺の体を離した彼女の手の震えを思い出した。不安げなまなざしも思い出した。
いつか拒否した彼女ごと、俺は彼女を抱きしめる。
離れろと言われても、二度と離すものか。
俺は汚れた人間で、誰よりも綺麗なお前を汚してしまうかもしれない。だけどそれでも、離しはしない。俺がどれほど汚したって、それでお前は少しも汚れはしないんだから。
長い間、互いに何も語らずにそうしていた。
一方で俺は考えていた。
あれは手品と同じだ。
俺の魔法が蜘蛛の巣のように張り巡らされていることを知っている人間が、俺を欺くためだけに兵士にショウを殺させようとした。ショウを本当に殺したかったわけじゃない。
そいつの本命はセラフィナだった。
だがなぜセラフィナを殺す必要があるんだ。こいつは今、ただの少女で魔法も使えず、どちらかと言えば足手まといで、俺の婚約者である以上の何者でもない。ショウと違って、政治的に見れば命を狙われるほどの価値はない人間だ。傷つけたとして、むしろ俺とショウを怒らせるだけだろう。
ジェイドが放った魔法の先に誰がいたか、俺はあの時確認できなかった。
誰が、人一人の命を使ってセラフィナを殺したがるんだ。しかもそいつは、魔法の気配さえ感じさせないほど瞬時に返り討ちができる、力の強い魔法使いだ。そんなことは今の俺でさえもできないだろうし、そもそも俺に匹敵する魔法使いもどこにもいない。
冷静に回転させる頭に、ノイズのように挟み込まれるのはジェイドの死に際だ。正直言って、かなり堪えていた。
ジェイドが死んで、悲しい。
だがだからといって、時を戻したいか? ――いいや、そうは思わない。
人が人へ抱く愛情は、確実に差がある。ジェイドが死んでも、俺がやり直すことはない。実際、その手法もないのではあるが……。
思考が上手く纏まらない。
俺は冷徹な人間なのかもしれない。
このまま進軍すれば、ドロゴを倒すことができるだろう。そうすれば、俺たちの勝ちだ。ジェイドが死んだとしても、今更降りるわけにはいかない。
ジェイドの言ったことは本当だろうか。ロゼッタが俺を待ち構えて殺す気でいると。
それともあいつは、続く殺しに嫌気が差して、本当に病んでしまったのだろうか。
仮にロゼッタが帝都にいたとしても、俺の方が魔力は上で、負けるつもりはない。だがシャドウストーンと戦うことになるかもしれないということを覚悟はしておくに越したことはないだろう。
ジェイドが語った話を、兄貴にも後で伝えておかなくては。ショウはなんと言うだろうか。
「ねえ、アーヴェル」
セラフィナの、震える声がした。
「何か、お話しして……。沈黙が、こわいの。あなたまで、いなくなってしまうみたいに、思うの」
まるで幼い少女に戻ったかのようだ。
子供の時分、セラフィナはよく寝る前に物語をねだってきた。その頃語って聞かせたのは、俺が経験してきた未来の話だが、今は相応しくないように思える。何もかも、その未来とはかけ離れてしまったのだから。
考えた末、俺は、今まで誰にも話したことのないことを、話し始めた。
「子供の頃、一日だけ子猫を飼ったことがある――」
セラフィナは顔を上げる。
「ほんとう? 初めて聞いたわ」
「ああ、今まで、どういうわけか、ずっと忘れてたんだ。白くて小さくて、かわいかったな……」
「どうして一日だけだったの?」
「朝起きたら、いなくなってたんだ」
あの小さな体を思い出した。
封じていた記憶だ。兄貴とも、その子猫について思い出を語ったことはなかった。
セラフィナは言う。
「結婚したら、猫を飼いたいわ。犬も飼うの。寂しくないように、二匹ずつよ」
「別の種族で喧嘩するぜ」
「しないわ。しないように育てるもの。良い子に育てるんだもの」
セラフィナは赤い目をして微笑んだ。
「……いいでしょう?」
「いいよ」俺も答えた。「たくさん飼おう」
あの子猫。
そうだ、あの子猫だ。俺の子猫だった。俺が六つか七つか、まだぎりぎりかわいげがあった頃に、拾ったんだ。名前も付けた。
親猫とはぐれたのか、それとも見捨てられたのかは知らない。どういうわけか一匹でいて、庭で鴉に襲われていたのを助け、回復魔法をかけた。そのつもりだった。
部屋に連れて帰って枕でベッドを作ってやって、そこに寝かせた。兄貴には黙っていた。俺だけの子猫だった。翌朝になって、子猫は冷たくなっていた。
泣く俺に兄貴が気がつき、二人で庭に、小さな墓を作った。板切れで、墓標をこさえ、そこに子猫の名を書いた。わずかな間でも愛情と温もりを知って、きっと子猫は幸せだったのだと兄貴は言った。
腕の中のセラフィナの体温を感じながら、ぼんやりと思った。
その墓を、庭のどこに作ったのかもう思い出せない。子猫にどんな名前を付けたのかも、もう、忘れてしまった。
◇◆◇
そうして数日後、俺たちは帝都を制圧した。




