交渉
セント・シャドウストーンへの帰宅の日、セラフィナはいつになく沈んでいた。
「……帰りたくないなぁ。フィナだけここにいちゃ、だめ?」
目を潤ませる彼女をなだめるのは心が痛んだが、彼女がいなくては、俺とショウはシャドウストーンの屋敷に入れてさえもらえないだろう。
「さっと話して、すぐに戻ってこよう。そうしたらお前も、こっちで住めるようになるからさ」
「アーヴェル、ずっと一緒にいてくれる? 家で、フィナと絶対に離れないでいてくれる?」
俺の服を引っ張り、セラフィナは必死に訴える。
「いるよ、ずっと一緒にいる」
「じゃあ、帰る……」
セラフィナは、小さく頷いた。
馬車でも、休憩中でもセラフィナは俺にべったりとしがみつき、離れようとしなかった。
それが愛情でないことくらい、俺だって気がついていた。虐げられ続けた彼女は庇護者を求め、そうして俺がそこに収まっている。それだけだ。
それでもいい。今はまだ。
何も知らない幼いセラフィナ。不幸などもう忘れてしまえ。楽しさと喜びだけを、感じていればいいんだ。俺は彼女を幸せにすることを、彼女自身に誓ったのだから。
◇◆◇
「なんだ、帰ったのか役立たず。二度と帰ってくるなと言ったものかと思ったが」
過去の記憶のとおりにジェイドが現れ、セラフィナの腕を掴もうとする。だが奴が掴めなかったのは、俺ががっちりとセラフィナを抱いていたからだ。
ショウは俺とセラフィナを庇うように、ジェイドの前に一歩進むと言った。
「折り入ってお話があります。君の兄上か父上はご在宅だろうか」
「あいにく二人とも留守にしています。話なら、俺が聞きますよフェニクス公」
クルーエルはいるはずだから、これはジェイドの嘘だろう。
「少なくともクルーエル公に話したい」
兄貴が言うが、明らかにジェイドは不服そうだ。お前じゃ役者が不足するんだよ。
俺の出番だった。
「セント・シャドウストーンの質が知れるなあ、皇帝一家がわざわざやって来たというのに、家にさえ招き入れないとは!」
屋敷中に響き渡るほどの大声を出すと、セラフィナの体が、腕の中で硬直するのが分かった。
「……こいつ、頭がおかしいのかよ」
ジェイドがそう呟いた直後だった。別の声がする。
「アーヴェル・フェニクス、ショウ・フェニクス。弟が失礼した」
名家の奴らは煽り耐性がないのだ。やはりクルーエルは出てきた。セラフィナに似ているが、単眼鏡の奥の瞳は冷ややかだ。
その目が、俺をじろりと見る。
「やはり、噂は宛てになりませんな。アーヴェル・フェニクス公、あなたが並の魔法使いであるとは、大きな誤解のようだ。……それとも、魔力が増幅されるきっかけでもありましたかな?」
シャドウストーンの長兄は、ジェイドのように、単純ではなさそうだ。
ふ、と侮蔑したような笑みを浮かべると、兄貴に顔を向けた。
「お話があるとのこと、私が相手をいたします。どうぞ客間へ」
こうして、俺たちは二度目に屋敷に足を踏み入れることになった。
すでに夜、外は暗い。
セラフィナは俺から離れようとしないので、子供に聞かせるような話ではなかったが同席させていた。
客間に通され、席に座る。俺たちが上座であるのは、一応奴らも露骨には下に見てはいないという証拠だろう。話を聞く態度も持っているようだ。
俺たちの前に、クルーエルとジェイドが座るなり、兄貴は単刀直入に言った。
「北部をあなた方に譲りたい。代わりに、私が皇帝になる手助けをしていただきたい」
「はぁ?」
頓狂な声をあげたのはジェイドだった。せっかく座ったのに立ち上がり、テーブルを叩く。
セラフィナがびくりと体を震わせ、俺のシャツにしがみついた。
「兄弟共々頭のいかれた奴らだ。北部など田舎者の集まりだ! 意味のない場所だろう。兄上、話など聞く必要はない。追い返そう」
「馬鹿な奴だな、話はこれからだろう。ジェイド、座れよ」
俺が親しげに話しかけたのを不審に思ったのか、ジェイドは訝しげな表情を浮かべる。
過去二度戦場を共にしているこいつには、俺からするとそれなりの親しみやすさがあったのだが、こいつからすると初対面なのだから順当な反応だ。
クルーエルが、冷徹な目を光らせた。
「ショウ・フェニクス公はやり手の経営者だと聞いている。そのあなたが、わざわざそんな話をするということは、我々に利がある交渉をしに来た、という理解をしてよろしいのか」
ジェイドよりは、話の分かる人間だ。
「ええ」ショウは頷き、鞄の中から袋を取り出す。
「まずは、これをご覧ください」
袋を机に滑らせると、中身がこぼれ落ちた。乳白色の石の欠片だ。
クルーエルとジェイドの顔色が変わった。
「我が領土で採掘された魔導石です。ほんの一部を切り取り、お持ちしました」
クルーエルは石の欠片を手に取ると、凝視し、しばらくの間の後で言った。
「確かに本物だ。混じりもなく、純度も高い。ですがにわかには信じられませんな。これを北部のどこで?」
「今ここで、場所を言うことはできない。これは我々の命綱と言っていい、大切な交渉の道具ですからね。場所は私とここにいるアーヴェルだけが知っている。ひとつだけ言えるのは、あそこには、手の付けられていない魔導石が、無尽蔵に眠っているということです」
ショウは首を横に振る。
「これを、あなた方に、まるごと差し上げましょう」
クルーエルの態度は露骨に変わる。身を乗り出し、兄貴を見つめていた。
「先ほど、皇帝になりたいとおっしゃったか。普通に考えれば狂気の沙汰だ。現皇帝は、北部を恐れている。貴殿等が怪しい動きをすれば、難癖を付けて、いつだって排除するだろう。やるならば、綿密な計画を立て、実行しなくてはなるまいが、そう易々と勝てる相手でないことは承知されているはずだ。勝機はどれほどあると見込んでいるのです」
叔父上がショウを殺したくてうずうずしているのは、先のループで承知済みだ。ショウは言った。
「北部の諸侯は父の忠臣が多く、私が北部に追いやられた際に、共に付いて来た者たちです。私とアーヴェルに忠誠を誓っている。彼らに背後を任せ、ここにいるアーヴェルと、そうしてあなた方がいれば、中央の制圧は難しいことじゃない。
アーヴェルの魔力にはお気づきでしょう。おそらくは、今世紀出現した魔法使いの誰よりも強い魔力を持っている」
よくもまあこんな場で笑えるものと思うが、ショウはシャドウストーンの兄弟に向けてあやうく優しささえ感じさせる表情で柔和に微笑んだ。
「勝機はどれほどとお尋ねに? 間違いなく、勝てると見込んでいます。中央と南部にも、ローグの信者は未だに多いですからね。私の支持も高い。多くの国民にしたら、皇帝が叔父でも甥でも大した違いはない。反発もあり得ません。まるで午後のティータイムのように、和やかに反逆は終わりますよ」
はったり半分だ。
俺は黙って、ショウの交渉を見ていた。
魔導石のある北部をまるごとくれてやるのは、確かに危険がある。ショウが皇帝になった後、シャドウストーンに国を支配されかねない。
実際、中央と戦いになったとして、勝機が高いかも未知数だ。だがその未知数をぎりぎりまで高めなくては、俺たちは生き残れない。
魔導石を見て、クルーエルはかなり揺れている。それだけ価値のあるものなのだ。
沈黙が訪れた。恐らく彼らの頭の中で、急速に計算が行われているのだろう。
「しかし、こうは思わないのかね」
突如として声が、部屋の外から聞こえてきた。