ちょろすぎる悪女
「アーヴェル! おさんぽに行こう!」
セラフィナが北壁フェニクス家に留まって三日目。
朝食を食べた直後、彼女は俺に飛びついて手を引っ張り、椅子から立たせる。
「ねえねえ、いつ結婚するの? いつ? 明日? 今日? ねえ、いつ?」
「あのさあ」確かに言った。俺は言ったけど。その気になるまで待つって。
だけどいくらなんでもその気になるのが早すぎるだろ。数年とか、そのくらいの単位で考えていた。
悪女セラフィナ、怖いくらいにちょろすぎる。
「フィナって、かわいい? ねえ、かわいい?」
「世界一可愛い」
セラフィナは目を輝かせる。
「アーヴェルも世界一かっこいい! アーヴェルの髪って、きらきらしてて、お月さまみたい! すき!」
まあ……決して悪い気はしない。
「アーヴェル、フィナのこと、すき?」
「うん、好きだよ」いつも言えなかった言葉を、俺も存分に口にする。「好きだ」
セラフィナは、顔を真っ赤にして満面の笑みになる。
「フィナもアーヴェルのことだいすき! すき! あいしてる! えへへへへ」
側で見ていた兄貴が、笑いを堪えるように口元をぴくつかせる。
「お似合いだ。本当に。微笑ましいよ」
――くそ!
過去付き合った恋人の誰とも、こんなバカみたいなやりとりはしたことがない。
だが、誰にも気を使わず思いの丈を口にできるということは、これほどまでに嬉しいことなんだと、改めて実感していた。
◇◆◇
セラフィナとの仲を順調すぎるほど深める一方で、俺は兄貴と長時間書斎に閉じこもり、今後について話し合っていた。
「嘘から出た真か。忠誠などくそくらえだな。私は本当に反逆者になってしまった」
半ば投げやりのような口調でショウは言う。
「中央に気取られないようにしなくてはなるまいな。表向き、私たちは皇帝に忠実なよく躾けられた犬のままでいなくては。特にアーヴェル。お前は短気だから心配だ」
兄貴が度々口にするのは、俺への忠告だった。
「俺の短気は治りつつあるぜ」
どうかな、と兄貴は笑う。
「だが確かにショウ、危険な橋には変わりない。まず第一の関門はシャドウストーンだ。奴らとの関わりが、俺たちの命運を分けると言ってもいい」
「お前はシャドウストーンが北部にこだわっていると思っていたようだな。北部に何があるんだ」
「間違いなく魔導石だろう」
散々考え、それしかないと結論づけた。
そもそも大昔、奴らが繁栄したきっかけになったのはその魔導石が大量に採掘される地を見つけたからだ。だが近年その量と質は低下していると聞いたことがある。
ならば地位を確保するために、奴らは新たな採掘場を探しているはずだ。一つはロゼッタが公国として与えられた略奪地だ。
だがどんなきっかけでかは知らないが、もっと近くに産出地があると知ったのだろう。それで北部を欲しがった。
兄貴は窓の外に目をやり、山々を見つめた後、視線を戻す。
「北部に、それがあるというのか」
「だろうな。だけど動機が北部への恨みでないとするなら、やりようはあるはずだ」
「恨みを抱えているのは、むしろシリウスか。従兄弟殿にセラフィナを見せると恋に落ちる。嫉妬で我々を攻撃してくるか、まったく、嘆かわしい話だ」
「ああ」あのクソ野郎にはいい加減辟易している。「だが俺とセラフィナが婚約している今、そう簡単に手を出してはこないはずだ。俺の魔力は、今とんでもないことになっているからな。ショウ、あんたも俺から離れるなよ」
これじゃあどちらが兄か分からんな、と肩をすくめた後でショウは言った。
「セラフィナが時を戻したいと思っても詰みだな。アーヴェル、不満の隙がないほど彼女を愛しまくれ」
「分かっ……てるよ」声が詰まった。「それに、あれが呪いだとしたら、あいつには魔法を与えないようにした方がいいと思う」
「まあ、そうだな」
歯切れの悪い兄貴に驚いた。
「おいおい、まさかセラフィナが呪いを受けた方がいいって思ってるわけじゃないだろうな?」
「いいや、まさか。ただ彼女の桁外れの魔力がないと、お前は過去には戻れないだろう。やり直しは二度とできない。危惧するのはそのことだ」
「もう過去には戻らない、ここで全て終わらせるんだ」
俺が断言すると、兄貴も数回頷いた。
「ああ、私ももちろんそのつもりさ。気弱になったな、すまん。
……私はしばらく、外回りをしてくるよ。父上の部下だった者たちに、会いに行ってくる。だが、本当の味方は少ない。ほとんど二人だ」
俺と兄貴の二人だけ。だがそれで十分だ。
「親父もそうだったんだ。ユスティティア家から皇帝の座を奪ったとき、ローグの味方はドロゴだけだった」
たった二人で国外れの小さな島から出てきた兄弟は、当時絶大な権力を握っていた皇帝を倒し、自分たちがその座に収まってしまった。
ドロゴと俺が違うのは、兄貴を大切に思っているし、皇帝になるのは兄貴しかいないと思っていることだ。
「ひとつ、思ったことを言っていいか」
しばしの思案の後で、兄貴は言葉を発する。
「お前は未来から精神だけ戻って来たと言ったな。だがさきほどの記憶だと、お前を起点にして、世界自体が過去に戻されたように感じる」
「それの何が違うんだよ。同じだろ」
人を過去に戻すのと、世界がそいつだけ残して戻るのは、結果として同じだ。
「さあな」
さあなってお前。
「ただ、思ったのはこういうことだ。時間がリセットされるのではなく同一線上にあるのだとしたら、なにかのきっかけがあれば、記憶が戻ることもあるのかもしれない」
「兄貴の記憶が戻ったみたいに?」
だが兄貴は首を横に振る。
「私の記憶はお前の記憶で、自身のものじゃない。性質が違うだろう。見たくもないものまで見ているんだ、同情してくれよ」
確かに俺の記憶は人に言えないようなものも、多少は含まれている。それに関してはすまないとは思う。
いずれにせよ、直近の壁がシャドウストーンであることには変わりない。
セラフィナが領地に帰るとき、俺とショウはついていく。そうして無事に北部へ戻れるかどうかは、俺たちの腕にかかっているのだ。




