湖畔の休日
翌日も、その翌日も、それからずっと、キスをしたことなんてなかったことになったかのように、アーヴェルは拍子抜けするほどいつも通りだった。だからわたしもなにも起こっていないように振る舞った。ショウの前では、バレリーが来たことさえ秘密だった。
でも水面下で、アーヴェルはまた、画策していたのかもしれない。戦争に行くと言ったのはそれからすぐのことだったから。
聞いた瞬間、わたしは彼に詰め寄った。
乱雑に置かれたカップから、紅茶がテーブルの上に流れ出る。
昼間で、お茶を飲んでいた時で、ショウはいなくて、わたしとアーヴェルだけだった。
「ショウを助けるんでしょう? わたしを幸せにすると言ったのに、どうして側を離れるの?」
困惑は、表情と口調に出ていたことだろう。だけどわたしが引き留めることなんて、何の効果がないみたいにアーヴェルはまた、いつも通りに答える。
「俺も色々、調べたいことがあるんだ。そのためには、ここにいるわけにはいかないんだよ」
「ショウが死んじゃうわ!」
「お前が守ってやれ。できるはずさ」
泣いてすがるわたしを無理矢理引き剥がして彼は言う。
「泣くなよセラフィナ、大丈夫だからさ」
いつか聞いたような台詞を言って、本当にアーヴェルは去って行ってしまった。
何が大丈夫なのか、少しも分からないし、わたしは泣くことを、止めることができなかった。
◇◆◇
アーヴェルがいなくなって、北壁フェニクスの屋敷は、少しだけ静かになってしまった。彼はやかましいし、声は大きいし、そして元気だったから。
ショウが旅行に行こうと言ったのは、そんな頃だった。湖畔に佇む別荘を、一週間ほど借りられたのだという。
丁度わたしの誕生日も近くて、少し早いけどお祝いも兼ねてのことだった。
それは、素晴らしい提案だった。
湖面はほとりに立ち並ぶ白樺を映していて、その先に屋敷があった。手入れが行き届いた屋敷は、童話に出てくるお城のようで、わたしは一目でそこが好きになって、きっと、素敵な休暇になると、そんな予感がした。
昼に別荘につき、日が沈む前にボート遊びをして、夜にはショウと夕食を食べる。大抵は他愛もない会話をしていたけれど、食事中、ショウはそのことに、ついに触れた。
「君はいつか、あいつなどどこかへ行けばいいと言っていたことがあったが、本当に行ってしまったな」
アーヴェルのことだと分かって、手を止める。
「いなくなって、寂しくなると思ったが、想像以上に寂しいよ。屋敷が広くなったような気さえする。実を言うと、私が戦地へ行くつもりだったが、先を越されてしまった。残ってセラフィナを守れと、説教をされてしまったよ」
ショウはじっと、わたしを見つめていた。少しの間の後で、彼は言う。
「……私は君が好きだけど、君はアーヴェルの方が好きらしい」
「ちがっ……違うわ。そんなこと、ない」
否定したけれど、ショウが納得したかは分からない。わたしだけの秘密だった恋心は、アーヴェルに暴露してしまったけれど、ショウにはまだ秘密だった。だけど、見ていれば分かるものなのだろうか。
「公国から、手紙が来るんだ」
わたしの気持ちを知ってか知らずか、ショウはまた、別の話を始めた。
ナイフとフォークを置き、椅子に寄りかかり手を組み始めた。
公国というのは、まず間違いなく、わたしの父、ロゼッタ・セント・シャドウストーンが支配する占領地からだろう。
予想通り、ショウは言う。
「君の父親さ。だがシリウスからも来た。どちらも、長い長い長い――文章で、延々と、君は北部には相応しくないと綴られている。それも一度じゃない。何度も来るんだ」
それは、驚くべきことだった。
魔法が使えるようになったわたしを、お父様は取り戻そうとしているようだし、シリウス様にしても、一度しか会ったことがないのに、わたしを手に入れようとしているらしい。
「君はもう、幼い少女じゃない。価値のある女性に変わったんだ。皆が君を求めている以上、いつまでも私の婚約者として北に縛り付けておけはしないと、考えている」
恐怖だった。ショウは、わたしをどこかへとやろうとしているのだろうか。
「わたしが、重荷になったの? 嫌になって、遠くへやってしまいたいの?」
幼い頃に度々感じていた恐ろしさが、今再び地を這って忍び寄るようだった。だけどショウは即座に否定する。
「いいや。言っただろう、君が好きだと。側にいて欲しいと思ってるのは、本心だ。だが、なにが君の幸福になるのかと思うと、私の隣ではないように思える」
彼の言葉はいつも真摯で、まっすぐにわたしの中に落ちてくる。ショウはわたしを、本当に大切に思ってくれているのだ。それはきっと、わたしに魔法が使えても、使えなくても変わらない。
ならわたしも、彼にしっかりと向き合わなくてはならない。
ナイフとフォークを置いてから、わたしは彼をまっすぐ見つめた。
「……わたしは小さい時に、セント・シャドウストーン家じゃなくて、フェニクス家を選んだの。
……いいえ、そうじゃない。選んだのは、家じゃない。あなたの、妻になることを、わたしは選んだの」
ショウもわたしを見つめ返してくる。
「わたし、北部が好きよ。高い山々が見えるのが好き。夏でも涼しい気候が好き。冬の冷え切った空気が好き。あなたと、アーヴェルと過ごした思い出の詰まってる、あのお屋敷が好き。だから、誰がどう言おうと、どこにも行かない。あなたの、お嫁さんになって、ずっと北にいるわ」
ショウは静かに笑うと、頷いた。
きっと、どんな女の人だって、彼に憧れるはずだ。
どうして、わたしなんだろう。
彼にぴったりの女性は、他にいるはずなのに。
わたしは夜、彼の部屋にいた。
自分に与えられた部屋は別にあったけど、彼の部屋に、いたのだ。
胸元のリボンに彼の手がかかり、簡単に解かれてしまう。
「怖がらなくていい」
優しい声の後に、キスが降ってきた。
ショウは、わたしに痛いことはしなかった。
触れる指先は優しくて、決してわたしのことを傷つけることはなかった。
翌朝になって、彼は言う。
「セラフィナ、そろそろ結婚しようか」
問いかけに、わたしは頷いた。