黒い魔法は暴走する
学園はフェニクスの屋敷から少し離れていたから、普通なら寮に入るのだけど、入学前からアーヴェルに教えてもらっていたせいか、基礎はできていると認められて、通うのは週に数回だけでよかった。そんな生活だったけど、友達と呼べる人も数人できた。
その内の一人は、もちろんリリィ・キングロードだった。
リリィはわたしよりも五つ上で、美人で頭がよくていい匂いがして、なのにそれを鼻にかけることもなく、とても親切にしてくれた。アーヴェルの他に初めてできたお友達で、彼女のしている植物研究の課外活動に、ときどきわたしも参加することもあった。ある目的があって、わたしは彼女に教えを請うていたのだ。
あるとき、わたしは彼女に言った。
「ねえリリィ、わたしの家に、来ない? ぜひ来てくださいって、ショウもアーヴェルも言うの」
それは本当のことだった。わたしがお世話になっている人にお礼がしたいと、彼らは言っていたから。リリィは喜んで、わたしの申し出を受けてくれた。
週末、フェニクス家の使用人に伴われ、リリィは家へとやってきた。
朝からアーヴェルもいて、いつもより着飾って、いつもよりそわそわしている様子が気にくわない。女の子が来るから格好を付けているんだ。むかつく。
ショウもリリィを待っていて、彼女がやってくると挨拶をした。アーヴェルとは違い、ショウに浮ついた様子はない。
四人で一緒に昼食を食べた後、わたしはリリィを連れて屋敷を案内した。
「セラフィナは、この家がだいすきなのね?」
リリィはそう言って微笑んだ。
一通り案内を終えた後、わたしの部屋でお茶にすることにした。自分より五歳上の、大人の彼女が退屈していないか気になったけど、古めかしいお屋敷は、彼女の好みにぴったり合ったようで、とても楽しそうにしていた。
わたしは彼女に自分の一番のお気に入りの本を見せたくて、屋敷にある図書へと一人本を取りに行く。
そうして戻ったとき、確かに閉めたはずの扉が少しだけ開いていることに気がついた。
中から、楽しそうな男女の声がする。リリィの笑い声、それから、アーヴェルの、声。
さっきまで弾んでいた心が、一瞬にして暗く澱んだ。二人きりで、彼らは中にいるのだ。
ドアの隙間から部屋を除くと、ソファーに隣り合って座るリリィとアーヴェルの姿が見えた。二人の距離は、普通の友人同士の域を超えているくらい近い。そして、あっという間に、アーヴェルはリリィにキスをした。
わたしの手から本が滑り、大きな音を立てながら床に落ちた。二人がわたしに気づき、アーヴェルが声を上げた。
「またかよくそ!」
後先考えずわたしは叫んだ。
「アーヴェルのばかぁ! なんでよりにもよってフィナの部屋なの!」
二人をくっつけるためにリリィを呼んだんじゃない。
アーヴェルは一度だってわたしにキスをしたことはない。なのに、たった二回しか会ったことのないリリィには、いとも容易くキスをした。
自分の顔が真っ赤に染まるのを感じ、これ以上この場にいたくなくて、わたしは庭へと走り出した。
アニキノキの根元に座り、頭を冷やしていたときだ。アーヴェルがやってくるのが見えた。
会いたくなくて、顔をひざに埋める。
「なにしに来たの! リリィといちゃいちゃしてればいいじゃないの!」
誰かにこんなに怒るなんて、生まれて初めてかも知れない。いつもだったら嫌われてしまうという恐怖が勝つのに、この時ばかりは止められなかった。
「そりゃあ、いちゃいちゃ続けたいけどさ」
そう答えるものだから、さらに顔を上げたくなくなる。
アーヴェルがわたしの目線に座り込んだ気配がした直後、言い聞かせるような声がした。
「なあ、顔を上げろよ。お前の部屋でリリィ・キングロードを口説いたのは悪かったよ。たまたま彼女が一人でいたからさ、退屈しないように相手をしてたら、そういう雰囲気になっちゃってさ。……だけど、お前が怒るのは違うだろ?」
違くないもん、と言う前にアーヴェルの言葉が続けられた。
「いいかセラフィナ。お前にはショウがいる。ショウにはお前がいる。じゃあ俺には誰がいるっていうんだ?」
むっとして言い返す。
「ショウとわたしがいるじゃない!」
「そういうことじゃない。もちろん俺はふたりとも好きだ。だけど俺は健全な男子だ、それだけじゃ足りないんだよ。人間には愛が必要だ。男には、女の愛がいるんだよ。リリィは俺が好き。俺も結構リリィが好きだ。俺たちは若い男女なの。愛し合うのが自然の摂理なの、分かるかなあお前に」
「ぜんぜん分かんないっ! 誰でもいいんでしょ! リリィじゃなくてもいいじゃない!」
「お前さあ、どうしてそう悪い子になっちゃうのよ」
はっとして固まる。幼い頃の恐怖が蘇ってきた。セント・シャドウストーンで、虐げられていたころの――。
アーヴェルに嫌われてしまったら、そう思うと怖くて堪らなかった。
「わるいこ、嫌い?」
「いや……べつに、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、好き? わたしのこと好き? ちょっとでも好き?」
「……まあ、嫌いじゃないよ」
望んだ通りの回答は得られなかった。
その時、息を切らしたリリィと、リリィに呼ばれたらしいショウもこちらに走ってくるのが見えた。
「セラフィナ! ごめん!」リリィが言う。
「彼、素敵だから、ほんの軽い気持ちで。びっくりさせちゃったよね?」
リリィが本当に申し訳なさそうに謝ってきた。ショウが困ったようにわたしたちを見ている。
自分がまた、子供みたいに癇癪を起こして、みんなを困らせてしまったんだと気がついて、消えてしまいたくなった。
「もうみんな、わたしをひとりにして――!」
どこか遠くへ行ってしまいたい。
そう思った瞬間だった。わたしの体から黒い魔法が出現して、周囲に渦巻いた。
「なに、これ!」
わたしはこんなの出してない。
なのに黒い光は、どんどんわたしを囲っていく。冷たい闇が体を凍えさせる。
「やだぁ! やだ!」
自分でも止められない。恐怖が募ってアーヴェルに手を伸ばす。彼も何かを叫びながら、必死の形相でわたしに向かって手を伸ばした。
――彼なら助けてくれる。彼なら、絶対にわたしを助けてくれる。
なにがあっても――……。
「助けて、アーヴェル!」
その叫びが、彼に聞こえていたかは分からなかった。瞬きの間に、周囲の景色は消え去って、わたしは黒い嵐の中にいたのだから。