失われた恋
以前の俺は、周囲に一粒の砂ほどの興味もなかったのだと思う。しかし今、改めて周囲を見ると、かつて見えなかったものも、見えてくるような気がした。
家にいる間中、俺は考えていた。
もしかすると時が戻る前の世界でも、セラフィナは男に襲われたんじゃないのか。恐ろしい予感だが、あり得なくはない。
以前のセラフィナはどんな女だった? 傲慢で気が強く冷血で欲望に忠実で、人を駒としてしか見ていなかった。このセラフィナも、同じセラフィナのはずだ。だとしたら、前の世界のセラフィナも、元は純真で良く笑う少女だったのかもしれない。魔法使いの権威の名家で無魔法の娘として疎まれ、権力しか頭にないような男の婚約者になり、そうしてパーティ会場で、男達に襲われた。極めつけは、婚約者の死により、その弟と婚約したことだろう。その弟も、兄とはまた違ったタイプの糞野郎で、女遊びとギャンブルにしか興味がなかった。挙げ句の果てにその弟は、別の男が彼女と結婚したいと申し出たら、どうぞどうぞと差し出したのである。セラフィナのプライドも誇りも、砕け散ったのかもしれない。
その糞の弟こそ、この俺である。
だが、今は違う。
今の世界は何もかも違うのだ。
初めは権力目当てだったかもしれないが、兄貴はセラフィナを大事に思っている。それが恋愛感情なのかは知らないが、少なくとも、家族のようには思っている。それを裏付けるように、二人は以前にも増して頻繁に、連れ立って出かけるようになっていた。
俺の謹慎がまだ解けないある日のこと、兄貴とセラフィナはまたしても朝からどこかへと出かけていて、戻ってきたのは深夜だった。二人が帰ってくる気配を、俺は自室で聞いていた。
それで終わるはずだったが、なぜかセラフィナが俺の寝室を訪ねて来た。
ガキの頃、度々彼女は眠れないと言っては、俺のベッドへと潜り込んできたが、それなりに成長してからは、一度もなかったことだ。セラフィナの表情は明るいとは言えず、思い悩んでいるようだった。
明かりを付け、ソファーへと促すと、彼女は言った。
「ショウと、キスをしたわ」
驚いて顔を見ると、目が合った。彼女の目は赤く、泣いていたようにも見える。
「彼と結婚するんだって、やっと分かった」
胸元のリボンの結び目が、出かける前と違うことには気がついていた。こんな深夜に帰ってきて、酒も飲んでいるような二人の間に、何が起こったかなど考えなくても分かることだ。十六歳になれば、結婚する奴だっている。兄貴とセラフィナの間にどんな関係があろうと、なにもおかしい話ではない。
「よかったじゃないか」
心にもないことを俺は言った。
このところ、めっきり見せなくなった泣きそうな表情で、セラフィナは俺を見ていた。それは初めてこの屋敷に連れてこられた時の彼女の表情と寸分違わず同じであり、そのことに俺は、計り知れない衝撃を受けた。
「アーヴェル。でも、わたしあなたが」
「言うな」
体がびくりと震えて、俺は言った。
「それ以上は、聞きたくない」
聞いたところでどうしようもないことだ。恐ろしかった。いつのころからか俺を取り巻くようになったこの感情に、向き合うことが怖かった。だがセラフィナは、俺を逃がしてはくれなかった。真剣なまなざしで、俺を見つめる。
「あなたはいつだってわたしの側にいてくれた。助けてくれたし、どんな望みだって叶えてくれた。わたしの側にいたのはショウじゃない、あなただった。わたしが好きなのは……好きなのは、あなたなの」
感じていた予感が急速に輪郭を帯びていく。セラフィナの声は震えているが、俺は首を横に振った。
「お前は兄貴と結婚するんだ」
俺じゃない。
「部屋に戻れよ。俺はお前を、どうすることもできやしないんだから」
拒絶の言葉だった。
セラフィナの目から、ついに涙がこぼれ落ち、そうして立ち上がると、黙ったまま部屋を出て行った。彼女は傷ついていた。傷つけたのは、この俺だ。
――これでいいじゃないか。
今は傷ついていても、いずれ時が経てば忘れることだ。
俺は自分に言い聞かせた。
ショウとセラフィナは、近く結婚するんだろう。ショウは戦場になんかいかない。死ぬこともない。俺は前と同じく叔父上のコネで宮廷魔法使いになり、自由気ままに暮らすのだ。その生活の中では、セラフィナが殺しに来ることはない。俺は彼女にとって、取るに足らない存在になるのだから。
そうとも、これでいいんだ。いいはずだ。
だが、もう一方で、気づきたくもなかった感情に気がついてしまった。
気がついたときには手遅れだった。人の感情なんて止められない。
ありふれたことだ。よくある話だ。
俺はセラフィナに恋をしていて、たった今、失恋したのだ。