兄の郷愁
俺たちの関係は、子供の頃と全く同じという風にはいかなかった。俺が学園に通う様子を見てか、自分も通いたいと言い出したセラフィナは、貴族の子女が通う学園に入学していた。俺が通う学園との距離も近く、通うときはいつも一緒に向かっていた。彼女と過ごす時間は、以前よりも増していた。
俺が十七歳になり、セラフィナが十三歳になったときのことだ。休日にも関わらず、新しく始めた事業がどうのこうので、兄貴はおらず、俺とセラフィナは隣り合ってソファーに座りながら、過ごしていた。
「ショウのことは好き。だけど恋なのか分からないわ。どきどきするのはアーヴェルといる時だもの」
俺は読んでいた本を、テーブルに置いてあった紅茶のカップの上に取り落とした。魔法を使えばすぐに乾かすこともできるが、そうすると彼女に早く向き直らなければならず、布でこぼれた液体を拭き取りながら、彼女を見ることもできずに俺は言った。
「馬鹿だなお前、そりゃ、俺とお前は友達で、兄妹みたいなもんだろ。一緒にいる時間も長いし、忙しい兄貴よりも俺といる時間が多いのは当たり前だ。だから遊びの楽しさで、どきどきするんだろうが」
動揺しすぎて早口だ。
「そういうもの?」
首をかしげるセラフィナは、このところぐっと大人びたが、表情にはまだ幼さが残っている。
「じゃあアーヴェルも、わたしといるとき、どきどきするの?」
顔を近づけるセラフィナと、束の間見つめ合った。こいつ、からかっているんだろうか。もう悪女の片鱗が見え始め、男を弄んでいるのか?
だがセラフィナの表情は純粋そのもので、邪気の欠片も感じない。
こいつが男連中の気を引く外見に変わってきたことには気がついていた。実際、セラフィナが通う学園の連中など、ショウの存在があるにも関わらず結婚を申し込んでくるらしいのだ。セラフィナが未だそう言った話題に疎いのは幸いだが、それは俺があえてそういった話題から彼女を遠ざけていたおかげでもある。己に恋愛的価値があると気がつき魔性が開花したら大変だからだ。
「俺はしねえよ、大人だからな」
ふうん、とセラフィナはつまらなそうに呟いた。
セラフィナと俺との関係同様、違いがあったのは兄貴と俺との関係だった。
以前は道ばたの小石を見るよりも俺に無関心だったショウは、少なくともわずかな信頼を置くようになっているようで、事業の一端を、任せることも時にはあった。時が戻る前は数個の事業を転がしていたせいもあり、俺が実によくこなすので、兄貴は感心しているようだった。
俺が仕事を手伝うようになってからか、兄貴の多忙は多少はましになったようで、家にいることも多くなった。
その日、庭をぶらついていた俺は、“兄貴の木”の前で一人佇む兄貴を見つけた。枯れた木を物憂げに見つめる兄貴が、今にもどこかへ消えてしまうのではないかと、突然の焦燥に駆られ、慌てて駆け寄る。
「ショウ!」
振り返る兄貴の目が、俺を捉える。
「何してんだよ。こんなところで一人でさ」
何をしているのかは薄々勘づいていた。
この木は、かつて兄貴が暮らしていた南部に大量に生えていた木であり、その木を見ているということは、郷愁にかられているからなのではないかと内心思っていた。
「南部に戻りたいか」
兄貴の隣に同じように立ち、枯れた木を見ながら俺は言った。
「……今、北部総督は従兄弟のシリウスだ。あいつが皇帝になったら、次の総督は、多分、兄貴だろう」
我が国で最も資源が採れるのは南部だ。兄貴の、故郷の。だが今、南部は、クルーエルをはじめ、セント・シャドウストーンが実質的に支配している。兄貴が南部に戻ることは生涯ない。
兄貴は黙って聞いていた。
「北部を任せたぜ。俺は、雪深いこの土地が好きだ。冬の澄み渡る空気が好きだ。南部なんて暑いだけだ、たまに旅行に行くくらいがちょうどいいぜ」
俺が生まれたのも南部だが、赤ん坊の頃にこの地に追いやられ、育ったのは北部だ。ここが故郷だった。
俺は自分が何を言いたいのかよく分からなかった。ただ、南でしか育たない木をわざわざ庭に植え、その前に立つショウのことが、無性に嫌いなのだった。未練なんて抱いていないで、俺と一緒に北部を好きになればいいのに。
「アーヴェル、お前は気づいていないんだろう。私がどれだけお前を羨ましく思っているか」
ぽつり、と兄貴はそう言った。言葉を紡げない俺に、兄貴は静かに笑いかける。
「我が家の姓の由来を知っているか」
「……不死鳥だろ」やっと答える。
「ああ、だがお前の母方の姓はレイブンだ。自由に大陸を渡る大鴉だよ。お前によく似合うと、思っていた。私はどこへも行けないだろうから」
兄貴の言葉の意図するところが分からず、俺は黙った。
「もう子供じゃないし、馬鹿らしいとも思うが、未だに父の死に際を、夢に見ることがある。そういう時はここに来るんだ。たとえ枯れていても、この木は幸福だった頃を思い出させてくれる。心配させて悪かったな。たいした意味があるわけじゃないんだ」
俺の胸は無性に締め付けられた。
俺と兄貴の母親は違う。父親は兄貴の母親を追い出し、俺の母親と再婚した。
「俺の母親が兄貴から母親を奪ったんだ」
俺が言うと、兄貴は初めて木から目をそらし、首を横に振った。
「まさか、そうは思っていないさ。父は魔法が使える子供を望み、お前の母親を娶った。母は、合意の上だったと言っていた」
でも、俺たちは二人ともフェニクスだ。俺はレイブンじゃない。親達の間にどんな確執があろうとも、母親も父親も、兄貴の母親も、もう皆死んじまって、仲良く墓石の下だ。
「俺には、両親の記憶なんてない。家族は兄貴しか知らない。それでいいと思ってるし、親たちがしてたくだらない政治の遊びなんて興味ない」
そうだな、と兄貴も言った。
俺たちの父親は前皇帝一族を殺し皇帝となった。そこまでしてなりたかった皇帝だが、後を継いだのは自分の血を引く子供ではなく弟だった。だが俺たちに関係のないことだ。
この北部で、兄貴とセラフィナがいる、この場所が、俺の世界なのだから。
だが俺は、初めて気がついた。
兄貴が俺に弱音とも言える本心の一部を吐露したのは、これが初めてだったのだ。
人生の経験年数であれば今年二十二歳になる兄貴よりも俺は大人ではあるのだが、それでもやはり、俺にとって兄貴は兄貴であり、越えられない壁でもあり、その存在はこの家にとっての支柱だった。
◇◆◇
ある日、セラフィナが観劇に行きたいと言い出した。なんでも学園の友人は皆見たらしく、見ていないのは自分だけだと言うのだ。本当かどうかは知らん。劇に行く口実だったのかもしれない。
その日は兄貴も休みで、だから三人で向かったのだ。有名な戯曲であり内容は知っているし、過去では当時の恋人にせがまれて実際に観に行ったこともあったのだが、何度観ても正直言って俺にはよく分からん話で、おそらくは恋愛物なのだが、主人公の行動が理解できないのだ。
劇が終わり、いたく感動しているセラフィナに向かって俺は言った。
「これ面白いか? なんで女は男を殺すんだ? 好きだったんじゃないのかよ。結局は憎んでたのか」
「違うわ」セラフィナは、ため息を吐きながら俺を睨みつけた。「サロメは、ヨカナーンのことを本当に好きだったのよ。愛していたから殺したんでしょう? だってそうしたら、永遠に自分のものになるから」
「なるほど分からん。哲学の話かよ」
俺の言葉に、セラフィナは笑った。
「アーヴェルは、恋愛の話になるとからきし鈍感になるんだもん」
兄貴はじっと、そんな俺とセラフィナを見ているようだった。
そうしてその日から、徐々に俺たちの関係は変わっていった。
俺はその劇を二度と観る気はなかったため、セラフィナと兄貴は二人で劇場へ行くことが多くなった。兄貴が恋愛劇を観るなんて意外なことだが、劇場は社交の場でもあり、顔を広める意味合いも、兼ねているのかもしれない。
俺は気楽なものだった。セラフィナと兄貴の距離はこのところぐっと縮まって、もし彼女が戦争に行くなといえば、きっと兄貴は行かないだろうとさえ思った。そうすれば、セラフィナは不特定多数の愛人になることもなく、ただ一人の男の妻として、平凡な幸せを歩むのだろう。俺も殺されない。
ショウとセラフィナは、歳こそ離れているものの、誰がどう見ても、親密な恋人だった。だが実際、どこまで進んでいるのかは俺にはさっぱり分からなかった。




