萌芽するもの
二人目の話をしよう。どちらかというと、こっちの方が問題だった。
ジェイド・“セント”シャドウストーン。セラフィナの二番目の兄であり、そう、あのくそ野郎だ。
過去の世界の記憶にはないことだが、こいつはどういうわけか、俺が通う北部の学園に、中央からやってきた。わざわざ寮に入ってまで来たのだから頭が下がる。しかも目的は、どうやら俺らしいのだ。
男にモテても仕方がないが、察するに、数年前にセラフィナを連れ帰る際に負けたのが癪に障っているようだ。魔法使いの名門、セント・シャドウストーンに、負けはあり得ないと言うことなのだろう。
「成り上がりの穢れた皇帝一家」すれ違う度に取り巻きとともに揶揄しては大笑いをしてきた。
わかりやすいほどの挑発だが、相手をしてやるつもりもなかった。ジェイドのような小悪党に構っている暇はないのだ。俺は結構大人なのである。
だがある日、どうにも我慢ならないことがあった。試験があり、学園に行かなくてはならず、ジェイドに会ってしまったのが運の尽きだ。
普通、親族付き合いは円滑にしたいもので、表面上の笑みくらいは浮かべるものだが、俺もジェイドもそのつもりはなかった。
そして奴はいつものように、俺を挑発し始めた。始めは無視していたが、あいつが放ったその言葉に、俺は怒り、魔法を放った。俺が最も得意とする、火属性の上級魔法だ。だがジェイドははじいた。流石、一流の家に生まれただけはある。
泥沼だった。教師が止めに入らなければ、双方とも、怪我だけでは済まなかったかもしれない。
実力は拮抗しているらしく、俺とジェイドの喧嘩は学園の一部を破壊して、勝敗のつかないまま互いに傷だらけになって終わった。
教師数人に取り押さえられながらジェイドは叫んだ。
「アーヴェル・フェニクス、こいつはおかしい! 突然この俺を殴ってきたんだ!」
俺も言った。
「俺の頭は確かにまともじゃないが、今回に限ってはそいつが悪い」
教師達は困り果てていた。フェニクス家とシャドウストーン家、どちらに味方をしてもまずいのだ。どちらも影響力のある名家なのだから。
だから兄貴が呼ばれたのである。保護監督者として、俺の始末を着けに来た。
そこからは、もうひどかった。兄貴は俺を殺すのではないかと思うほど怒り狂い、俺は少しも悪くないにも関わらず、ジェイドに頭を何度も下げなくてはならなくなった。
一方でジェイドの方も、兄が来ていた。
シャドウストーン家の長兄である、クルーエル・セント・シャドウストーンだ。セラフィナと同じ色の髪と瞳を持っているが、冷徹な印象を持つ。奴には父親がいたと思うが、シャドウストーンの地から学園へもそれなりの距離があるせいもあり、わざわざ出る幕でもないということかもしれない。
クルーエルはショウとは違い、俺とジェイドを一瞥すると、ジェイドに向かってこう言っただけだ。
「あまり、恥をかかせるな」
いつだって尊大な態度を取っていたジェイドも、この時ばかりは意気消沈していた。
元々大して行っていないから問題はないが、しばらくの出席停止の処分を受け、一応は殊勝な態度を見せようと、帰りの馬車の中で反省したふりをしていた時である。
対面に座る兄貴が、俺を見て静かに言った。
「お前の短気はいつか身を滅ぼすぞ」
兄貴の俺に対する分析は実に的を射ていて、既に一度、セラフィナを怒らせて殺されている。
だが今回に限って言えば、俺は少しも悪くはない。反省はどこかへ消え飛んだ。
「兄貴だって俺と同じ立場だったら、同じことをしたはずだ」
「どうかな、私は魔法が使えないから」
そう言う兄貴の瞳の中に、途方もない感情が潜んでいるような気がして、思わず目を反らした。
「別に、そういうことを言ってんじゃねえよ」
「セラフィナが心配していたぞ。兄のように慕っているお前と、実の兄が喧嘩したんだからな」
彼女が泣くのを想像し、初めて自分が悪いことをしたのではないかという気になった。
「だ、だいたい、兄貴はセラフィナを甘やかしすぎなんだ。あんなにわがままに育っちまってどうするんだよ。このままだと国を傾ける悪女になるぜ」
「わがままを言うのは、お前の前でだけさ。私の前では素直そのものだ。……甘えているんだろう。懐いているからな」
兄貴はそう言って、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
家に戻っても他に何をする気も起きず、部屋に閉じこもっていると、控えめなノックの音がした。
返事をすると、セラフィナがいて、いつもとは違い部屋には入らず、扉のところから声をかけられる。
「ショウから、聞いたの。ジェイドお兄様と喧嘩したって。ごめんなさい」
「お前に謝られる筋合いはねえよ」
俺が腹を立てたのはジェイドであり、お前が悪いわけじゃないんだから。
彼女は困ったように眉を下げた。
「アーヴェルは、わたしとショウのために怒ってくれたんでしょう? だからあまり責めるなって、ショウが言ってた」
なんだと兄貴。俺の前では怒る一方で、そんなことはひと言も言わなかったくせに。
セラフィナはまだ扉の近くに立っていて、入ることも出ていくこともしない。わずかな間の後で、彼女は言った。
「アーヴェルは、わたしのこと、好き?」
何を問われているのか分からずに、硬直する俺に、懇願するかのように瞳を揺らした。
「ほんのちょっとでも、好き?」
俺は答えられなかった。
好きだとは、どうしても言うことができなかった。セラフィナは将来国中を震撼させる悪女になって、俺を殺す可能性がある。そうはさせないために、俺は彼女を見張っている。それだけだ。そこに、別の感情が入り込む余地など無い。
「嫌いじゃないよ。さあ、一人にしてくれ」
セラフィナは頷くと、今度こそ出て行った。ただひたすらの静寂が、俺を包んだ。
ジェイドは俺に言ったのだ。
“無能のセラフィナと無能のショウの結婚はさぞ北壁に衰退をもたらすだろうさ”
なにもかも、間違っている台詞だ。
セラフィナもショウも無能じゃない。だから怒った。それだけだ。
俺の中で、何かが芽生えかけていた。
大きく育つ前に摘み取らなければならないことにも、一方で気がついていた。