囚われた二人
大型のバンに詰め込まれた聖とミヤビは、相手を刺激しないよう極力従順に振舞った。銃を突きつけられる経験など、聖の人生において当然ながら一度も無い。それゆえ聖は、今まさに自分の身に起きていることに現実感が沸かなかった。しかし、隣にいるミヤビが小さく震えているのに気付いたとき、状況は思っている以上に切迫しているのかもしれないと思い直す。荷物や身につけていたインカム型の翻訳機を取り上げられた二人は、息を殺すように押し黙り、いずこかへと向かう車内で大人しくするより他なかった。
「女から降りろ」
車は聖たちを乗せて30分ほど走っただろうか。どこかの敷地に入って停車すると、助手席に座っていた出っ歯の男が訛った英語でそう指示した。太った大男は聖に銃を向けたまま、じっと身構えている。最悪抵抗されても、先に聖を撃てば残ったミヤビならどうにでもなると思っているのだろう。或いは、片方が抵抗すれば仲間を撃つぞ、という二人への警告か。
「さっさとしろ」
出っ歯の男が後部座席のドアを開け、怯えた様子でゆっくり降りるミヤビの腕を掴む。びくりと身体をすくませるミヤビを見て、聖は反射的に身体が動きそうになる。移動の最中、嫌でも想像してしまった最悪のシチュエーションが、刻々と迫っているような気がした。人間は身体に銃弾を撃ち込まれて、どのぐらい動いていられるのか。場所は分からないが、どうにかミヤビだけでも逃がせないか。自分たちを連れ去った男達以外に、仲間はいるのか。明日の試合には出場できるのか。ここを乗り切って、自分はハルナに認めて貰えるような選手になれるのか。
まるで目の前の現実から逃避するように、聖の思考が逸れていく。銃を持った太った男の顔に緊張感が増す。聖の顔を見て、抵抗の気配を感じたのだろうか。銃はリボルバータイプ。確か映画で、弾の入ったシリンダーを掴めば撃てなくなると見たことがある。イチかバチか、試す価値はあるかもしれない。
<撃鉄が下りてる場合、一発は確実に撃てるンだぜェ?>
頭で響く声に、ハッとする聖。
<最高に魅惑的な水着美少女と浜辺でキャッキャウフフしてたと思ったら、大ピンチだなァオイ。どうやら人生における幸運を全て使い果たしたみてェだな。これから先、オマエには不幸しか起こらねェ。何をしても上手くいかない。プロにはなれず、進学もできず、就職に失敗し、超絶ブラック企業でところてんの営業しながら一人寂>
(アド、どうにかならないか!)
<なるかボケ。油断しやがってヌケ作が。あの半グレみてェな監督も気を付けろってご丁寧にいってたじゃねェか。オレがコイツラの仲間なら、車に乗せた直後にまずはてめぇの両膝撃ち抜いて動けなくするっつーの。そのうえで、美人JKの水着を剝ぎ取って入念に逃げられなくするぜ。良かったなァ、コイツらが手ぬるい連中で>
自分が想像するよりも遥かに具体的でタチの悪いシチュエーションを聞かされ、怖気が走る聖。今アドのいった内容は、このあと現実にならないとも限らない。移動中、男達は何もしてこなかった。そのせいで、聖はどこか自分に都合の良い可能性を想定してしまったのかもしれない。大人しくしていれば手は出さない、というような。
(アド、頼む。どうにかミヤビさんだけでも)
<無理だな。前も言ったがオレは神様じゃねェ。テニスに関することに限ってオマエにちょっとした力を貸し与えるだけだ。万能じゃねェし、なによりオマエの人生に直接影響するような関わり方はやりたくてもできねェ。今こうして、オマエが自分以外の存在と意思疎通できるって状況だって、かなりギリギリなンだよ>
期待はしていなかったが、概ね聖の予想していた通りの反応だ。
<とりあえず、なるべく冷静さを保つこったな。いわゆる論理的思考ってやつだ。まぁ、オレみてェな存在が関わっている時点で、論理、なンてモンは所詮人間の価値観の域をでない役立たずの鼻クソだがな。だがそれでも、オマエがポジティブさを維持する根拠にはなるかもしンねェよ? 卑屈にならず、あくまで客観的に、自分の状況を常に考えるンだな>
アドが何を言っているのか、聖は冷静に判断できない。ミヤビに続いて、次は聖が降車を促される。言われずとも両手を上げ、聖は抵抗の意志が無いことを示しながら車から降りる。コンクリート建ての平屋のような家屋に、ミヤビが先に入っていくのが見えた。
(何にしても、無事で帰らなきゃ)
これまで感じたことの無い恐怖感を覚えながら、聖はゆっくりと歩いた。
★
PC画面の右横に、着信を知らせる通知がポップアウトする。
『Incoming call from SASHOW at ATC(――ATC 沙粧より着信――)』
アーヴィングは作業の手を止めず、返事もせずに通話をオンにする。沙粧の方から連絡を入れてくるのは珍しいが、どうせ大会に出場している日本チームのことだろう。わざわざ通話せずとも、進捗については共有サーバーで常に内容を確認できる。時計を見るとマイアミは16時になろうとしていて、時差を考えると日本は朝5時頃。ご苦労なことだなと内心で蔑みながら、声を発しようとした。
「用件はな」
「メグ、貴女なにしてるの」
沙粧の鋭い声が、アーヴィングの言葉を遮る。その声のトーンから、相手が自分の落ち度を指摘するものだと分かった。何かしら不備があったのかと瞬時に思考を巡らせるが、生憎とアーヴィングには心当たりが無い。大会の運営も日本とアメリカのメンバーに関する情報収集も、滞りなく進んでいる。それにアーヴィングの知る限り、日本の沙粧はどういう場面であれ余裕を見せたがる性格のはずだ。仮にこちらが何かミスをしていたとしても、むしろそれを交渉の材料とばかりに喜んで受け入れようとしてくるタイプといえる。
「その様子じゃ、まだ把握していないようね」
何を、とアーヴィングが言おうとした瞬間、ノックもなくドアが開き金俣が無言で入ってきた。彼の後ろでまごついている警備員の様子から、半ば強引にアーヴィングの執務室へやってきたのだろう。遠慮なく近寄ってきた金俣は、アーヴィングのデスクに一枚の薄汚れた便箋を載せた。
『Gli ospiti sono in equilibrio con il primordiale.』
その便せんにはイタリア語で、走り書きの一文がそう記されていた。
「イタリアが?」
状況とその内容の意味する所を察したアーヴィングが、思わず声をあげる。
「違う。そいつはあからさまなミスリードだ」
金俣が腕を組みながら、否定する。
「イタリアチームに妨害を仕掛けたロシア人を、オマエは趣味の悪いやり方で制裁しちまった。お陰で、ロシアの連中は大喜びで標的をアンタらに変えたのさ。それだけならこっちは問題無かったが、連中はどうやら、ウチとアンタらとの繋がりに気付いたらしい。直接仕掛けることも出来ただろうが、揺さぶりをかけるために、ガードの緩いウチに目を付けたんだ」
アーヴィングは金俣の発言を聞いて眉間に皺を寄せる。言葉こそ発しないものの、静かに唇を噛むその顔には、屈辱を受けたことへの激しい憎悪が浮かぶ。汚い野良犬を蹴り飛ばしただけだと思っていたが、ゴロツキがそれは自分の財産だと因縁をつけてきたような状況。しかも、直接自分にではなく、自分にとって重要な取引先に。まさか、ロシアがこんな陰険なやり方をしてくるとは予想もしなかった。連中はどちらかといえば、何かにつけて武力でゴリ押すやり方を好む。一体、いつから悪知恵を働かせるようになったのか。
「ウチの若槻と雪咲が揃って姿を消した。アンタに気を遣って、まだ警察には通報していない。だが、これは間違いなくアンタらの落ち度だ。アンタがどう思おうとな。警察に任せるのか、リアル・ブルームのセキュリティチームを動員するのかはそっちで判断しろ。ウチからの要望はただ一つ、連れ去られたであろう2人の選手を、傷ひとつなく保護すること。それも可及的速やかに、だ」
まるで命令するかのように言い放つ金俣。所詮は沙粧の犬でしかないと思っているこの男に、あれこれと指図されることへ激しく嫌悪感を抱くアーヴィングだが、感情を抑えて小さく頷いてみせる。日本の選手を連れ去った連中が早まった真似をしていなければ、人質となった選手2人の保護それ自体は難しくない。問題は別にあった。
「で、どうして連中が始原を知っているの?」
スピーカーから、それこそが本題であると言わんばかりに沙粧が疑問を口にする。しかしそれについては、アーヴィングの方が知りたいぐらいだ。本来ロシアが知るはずの無い情報が知られてしまっている。ただでさえ、日本メンバーの安全を維持できなかったうえに、情報漏洩についてまで責任を問われたらたまったものではない。反論を試みようと口を開きかけたアーヴィングだったが、それよりも先に沙粧が声を発した。
「いいえ、既に知られてしまっている以上、経緯はどうでもいい。それよりも問題は、連中が更なる情報を欲していること。知られたところでロシア風情がどうこう出来るモノではないにせよ、どこまで知っているのかによっては、下手な沈黙や隠蔽は却って危険ね」
「待ちなさい。まさか交渉に応じるつもり?」
ロシアに対し、沙粧がある程度の譲歩を既に想定しているのを察したアーヴィングは異を唱える。有機ナノマシン『ジェノ・アーキア』は、アメリカが最初に発案してGAKSOと共同開発したものだ。非合法の極秘研究ゆえ、その権利関係には複雑な取り交わしが存在するため、一概にアメリカの独占とはいえない。だが研究開発に深く関わっているアーヴィングからすれば、あれは間違いなくアメリカのものだという認識を持っている。
「冗談じゃない。あれは合衆国の所有物よ」
それだけは譲れないと主張するように、アーヴィングが断じる。確かに沙粧が言うように、例えアーキアについてロシアが全ての情報を手に入れたところで、GAKSOを含めたアメリカの科学技術が無ければ、複製はおろかまともな運用さえできない。しかし、ことロシア相手に自分たちの切り札について情報をくれてやるなど、アーヴィングのプライドが許さなかった。
「あのねぇ、メグ――」
聞き分けの無い子供に呆れかえる母親のような口調とともに、沙粧が溜め息を漏らす。どう言ったものかと沙粧が逡巡した僅かな沈黙を、壁越しのくぐもった怒号と、乱暴に開け放たれたドアの開閉音が打ち破った。
「無礼は許せよ、インチキ野郎ども」
灰褐色の髪に黒いジャケットを羽織ったひとりの名誉ある男が、痩せた狼のように鋭い視線を向けていた。
★
聖とミヤビが閉じ込められた埃っぽい家屋は、簡素なベッドと粗末な家具が申し訳程度にあるだけのものだった。窓は外から板が打ち付けられ開かず、扉には鍵をかけられ外に出ることは不可能。ただ、幸いなことに二人とも拘束の類はなく自由に部屋のなかを動き回れた。唯一の出入口であるドアには、外からしか開けられない覗き窓と、足下にペット用の小さな小窓のようなものがある。しばらくすると、その小窓にペットボトルに入った水と安物のエナジーバーが二人分放り込まれた。
(積極的に危害を加える気はない、のか?)
初めはいつまた男たちが戻ってきて、何をされるか分からないという恐怖を感じていた聖とミヤビだが、陽が傾いても彼らは一向に家屋へ入って来ようとしない。与えられた食事を恐るおそる食べてみたが、どうやら毒の類も入っていなさそうだ。時間が経つにつれて二人は落ち着きを取り戻し、念のため声を潜めて彼らの正体について話した。
「どう思いますか?」
「何とも言えないね。ただ、英語は少しイタリア訛りだと思う」
「僕らがイタリアチームに勝ったことへの、腹いせでしょうか」
「ありそうだけど、どうも違う気がするんだよね。ただの勘だけど」
「奏芽たちは、僕らがいないことに気付いてるでしょうか」
「多分ね。ノッポの人に付いて行く途中、スズさんにメッセ入れてあるし」
「ホントですか? さっすが」
「でもティッキーに会えそうだから行ってくる、としか。そのせいで、かえって心配してなかったりするかもしれないよ」
「それでも、それ以降なんの連絡も無ければすぐ気付くはずですよ」
「だといいけど……」
ミヤビが手で自分の二の腕をさすったのを見て、聖がベッドにある粗末なタオルケットをミヤビの肩にかけた。昼間は泳げるほどの気温だが、さすがに夕暮れ時になると冷えてくる。聖は割とまだ平気だが、このままずっと水着でいると風邪を引きそうだ。
「聖くんも寒くない? いっしょに包まる?」
あくまで心配してそう言ってくれているのは分かっているが、ミヤビの仕草が妙に艶っぽく見えてしまい、聖は目を逸らして断る。そして、わざとこれから起こるかもしれない嫌な想像を膨らませ、場違いな自分の煩悩を無理やり掻き消した。
(最悪、刺し違えてでもミヤビさんは守る。僕はその為にいる)
拳を握り、いざという時に備え覚悟を決めようとする聖。だが、自分が胸中でつぶやいたその言葉に、ふと引っ掛かりを覚えた。
(僕はその為にいる?)
頭のなかに浮かんだ閃きのようなものを、聖が掴もうとした瞬間、ドアで音がする。二人が鋭くその音に反応すると、何者かが外からドアの覗き窓を開け、部屋の様子を窺っていた。聖とミヤビに緊張が走る。
「なんだい、そんな恰好で。ちょっと待ってな」
嗄れた声が聞こえ、一度気配がドアから離れていく。さっきの男達とは別の人間のようだが、男なのか女なのかすら判別がつかない。油断なく家屋の外に気配を巡らせていると、すぐにまた同じ人物が戻ってきた。
「古着だが、そんな恰好よりマシだろう。夜は冷えるからね」
声の主はそう言って、ドアの下にある小窓に布袋を押し入れた。聖はそれを受け取るべきかどうか判断ができず、じっと動かずに様子を見る。話しぶりの印象から害意はなさそうだが、それは主観に過ぎない。
「そう心配しなさんな。あの子らは別に、あんたらを傷付けたりはしないよ」
(あの子ら……? あの男達のことか?)
もしかすると交渉の余地があるかもしれないと感じた聖は、この人物に状況の説明を求めようと思った。だが、英語のリスニングはそこそこ出来ても、いざ喋るとなると単語が出てこない。聖が言い淀んでいると、突然若い女性の怒鳴り声が外で響いた。
「バアさん! 何してんだよ! 勝手な真似しないでっ!」
「リッカ、馬鹿な真似はおよしよ。人攫いなんて……」
「カンケーないでしょっ! いいから、人質には近寄らないでっ!」
ヒステリックに叫ぶ女の声は、かなり若い。バアさんと呼んだ人物を追い返し、代わりにその女が覗き窓を開ける。怒りに満ちたその目は野良猫のように大きく丸く、しかし強い敵意に満ちていた。
「あんたら、調子に乗るなよ。いざとなりゃ、こ、殺して海に沈めてやるから! ば、バラバラにしてお仲間に送り付けてやったって良いんだ。そのまま大人しくしてりゃ、苦しまずにこ、殺してやるからなっ!」
当てつけのように覗き窓の蓋を乱暴に閉じ、地面を踏みつけるような足音を立てながら気配が遠ざかっていく。少し間を置いてから聖が布袋を回収して中身を確認すると、中には着古したような着替えが入っていた。ややサイズは大きいが、水着でいるより遥かにマシだ。下着もあったが、さすがにそれは遠慮しておく。
「なんか……意外となんとかなりそう、だね?」
「です、かね?」
素肌に着たスウェットのゴワゴワした着心地が、なんだかむず痒かった。
続く




