ガベロットの末裔
国際ジュニア団体戦
Dブロック 日本 VS イタリア
第四試合 男子シングルス
能条蓮司 ― Geo Vran Luno
「Game,1st set Italy. 7games to 5」
会場を包む歓声の大きさとは正反対に、蓮司は言葉を失くす。自分のプレーが普段以上に高いパフォーマンスを発揮できている自覚を持ちながらも、ここぞというところでポイントが取れず、最初のセットを落とすこととなった。重要な第9ゲームで、自らのミスによって3本のブレイクチャンスを相手に与えてしまったことが分水嶺となり、ゲームの均衡は崩れた。調子の良さと相反する事態に、蓮司は強い焦燥感を覚える。
「クソッ!」
セット間の休憩時間でベンチに戻った蓮司は、思わず自分のラケットバックを蹴りあげる。上手くプレーできていたはずなのに、些細なミスで先行されてしまった自分が許せなかった。ベンチに座って足を小刻みに動かしながら、タオルを頭から被って視線を遮断する。焦燥感とイライラで解けてしまいそうな集中力を、一人の世界にこもって整えようと目を閉じた。
(相手は専守防衛型ってワケじゃない。攻める所はしっかり攻めてくる。後方攻撃型を軸にした全方位万能型。テンポは速いけどついていける。つーか、これぐらいがオレには丁度良い。攻めるにせよ守るにせよ、このリズムは悪くねぇんだ。そういや、さっきチャンスボールをあえて繋いできたな。スマッシュは苦手なのか? チャンスでも手堅く来る辺り、慎重な性格なのかも。それとも、こっちの調子が良いとみてミスを抑えたとみるべきか?)
蓮司は1stセットでの内容を反芻し、自分と相手の相性や戦術に思考を巡らせる。先行はされたが勝敗が決したわけではない。調子が良いのに結果が伴わないという場面はこれまでにも経験したことがある。そんなときは何か些細な見落としをしているはずだと自分に言い聞かせ、客観的に自身のプレーを振り返った。
(オレの調子は悪くねぇんだ。むしろ絶好調。良くなかったのは、ちょっと勢いに任せ過ぎたこと。相手を侮るな。自分を過信するな。オレは小さいんだから思ってるほどの攻撃力はねぇ。一撃よりも連撃だ。リズムよく、タイミングよく攻撃する。力任せじゃない、流れの隙を突くようにしなきゃ)
徐々に冷静さを取り戻し、蓮司は焦りと苛立ちで波立っていた心を落ち着かせる。ふと、タオルの隙間から自チームのベンチに視線を向けると、チームメイトとともに自分を見守っている聖の姿が目に入った。
「時間です」
主審が告げると、蓮司はタオルをぞんざいに取り払ってベンチに投げる。
(見とけよ。あの頃とは違う)
★
1stセットを奪ったジオは、自身の目論みに手応えを感じていた。
(概ね、想定通り。事前調査の信憑性の高さが証明されたと考えて良いだろう。少しばかり気になる点はあるが、方針はこのまま変えずにいこう。彼がこちらの意図に気付く前に、さっさと仕上げてしまうのがベストだ)
ラケットに張られたストリングスの歪みを指で整えながら、ジオは冷静に次のセットで自分が採るべき行動について思考する。彼が蓮司に対して仕掛けた戦略は見事にハマり、狙い通り最初のセットを先取した。
(確か、彼は日本のプロ選手である黒鉄徹磨に強い憧れと影響を受けているんだったな。昨年の試合映像では確かにその通りの印象だったが、今の彼はそれより幾分か進化しているように思える。より自分に合ったスタイルを見つけた、ということだろうか? だが、性根のところは変わっていないと見て良いだろう)
ジオは頭の中で、対戦相手である能条蓮司のプロフィールを思い返す。低身長ながらも積極的に攻撃を仕掛けてくるアグレッシブベースライナー。最新の調査内容ではないにせよ、概ね彼の特徴を正確に捉えているといって差し支えない。
(出場が決まった段階で、各国の有望なジュニア選手について情報を集めることはできたが、さすがに人数が多かったのとメンバーの入れ替わりで全員は無理だった。加えて情報が古いのも惜しい。それでも、最初の対戦相手がプロフィールを入手している選手なのは幸運だった)
ジオはふと、右手の小指にはめた小さな紋章の指輪を指で撫でる。てんとう虫の意匠が刻まれた幸運の証。小指は好機を呼び込むとされ、右の小指は特に願い事を叶えるのだという。そのリングは、リーダーであるティッキーに力を貸すと決めたとき、顔も覚えていない父親から一言のメッセージと共に送られてきた。
――オマエのゆく道に幸運を、ジオ
ジオ・ブラン・ルーノ。彼は、イタリアに存在する、最も歴史ある裏社会組織の長を父親に持つ。父親の組織は、アメリカのニューヨークへとその活動拠点を移したいわゆる四大犯罪組織とは異なる。マフィアという組織は、古くはシチリア王国時代にまで遡る。もとは農民と大地主の間に立って農地を管理する農地管理人という存在だった。武力を持つようになった彼らは、やがて外国人支配を嫌った住民同士の互助組織に生まれ変わり、それがマフィアの源流となった。
シチリアの地は数百年に渡って国際政治の取引材料として扱われ、時代の流れに幾たびも翻弄されてきた歴史的背景を持つ。そんな地で暮らす人々の間から自然に発生したマフィアは、ある時は住民同士で力を束ね、またある時は外国との相互扶助を力とし、いつしか人間社会の表にも裏にも強い影響力を与える存在として成長していった。
時は流れ、マフィアの大半が組織の利益を求め海外へ進出するようになったが、古い組織はそれを善しとせず、あくまでイタリアの地に根を張った。そのもっとも古い組織に忠誠を誓い、やがて中心となっていったのがジオの家系であった。
いつの時代、どこの国においても、反社会組織は共通して身内の繋がりに重きを置く。ジオの父親もその例外ではなかったが、彼は複数の愛人を持ちながらも結婚はせず、できた子供はみな母親と共に裏社会とは無関係の表社会に追い出した。その為、ジオは父親の顔を知らず、幼少期は母親とその世話役によって育てられた。
人生の転機が訪れたのはジオがまだ6歳の頃。何らかの抗争に巻き込まれたか、或いは父親に対する報復か。幼いジオの家を敵対組織が襲撃し、ジオ以外の人間を皆殺しにする。ギリギリのところで難を逃れたジオは、幼いながらに知恵を振り絞り反撃に転じると、世話役がいざという時に備えて隠し持っていた手りゅう弾を使い、襲撃者たちを母親の亡骸もろとも木っ端みじんにしてみせた。
駆けつけた父親の組織者に保護されたのち、ジオは今の名前と完全に違う身分を与えられ、組織と繋がりのあったテニスアカデミーの寮へとその身を預けられる。それが、ジオとテニスの出会いだった。幼くして母親と悲惨な別れを経験したジオだったが、高い知能と強い精神性を持つ彼は与えられた環境に適応し、テニスに励む普通の子供として育つことになる。だが、彼の心はいつもどこか遠くにあり、彼自身もその有りように気付いていた。
彼はいつも、表社会という平和の檻の中から、外の世界へ思いを馳せていたのだ。
★
「ジオのやつ、なにチンタラしてやがんんだ? あの程度の相手ならもっとサクっとやれんだろ。得意のサーブも使ってねぇし。もしかしてアイツ、手ぇ抜いてやがんのか?」
「違う。ジオには戦略あってのことだ」
小指を鼻の穴に突っ込みながらぼやくグリードを、ティッキーがぴしゃりと否定する。彼が手を抜くなどということは絶対に有り得ないと、彼以上にそれを確信しているかのような物言いだった。
「戦略ぅ?」
ギルが眉間に皺を寄せながら、声をあげる。こちらはこちらで、周りから見えないのを良いことに大股を広げながらふんぞり返ってガムをクチャクチャやっている。試合が終わり完全に緊張感が抜けているらしく、その姿は路地裏のギャングのようだった。
「そうか、同調行動か」
ロシューが右目にアイスパッドを当てながらつぶやく。聞き慣れない単語を耳にしたギルが、大げさに首を傾げながらムーディに視線を投げる。だが、ムーディはまるで赤の他人のようにギルを無視した。
「相手に何もさせず圧倒して勝つのは理想だが、それは簡単なことじゃない。綱引きのように、上手く相手の力を誘い利用することで、プレーのバランスやメンタルのバランスに揺さぶりをかける。それが一番手堅く、そしてもっとも確実性の高い戦い方だ」
ティッキーはコートから目を離さず補足する。内容が分かっているメンバーは小さく頷いてみせるが、分かっていないメンバーは興味すら無いのか小難しい説教でも聞いているような表情を浮かべている。背中に感じる雰囲気でそれを察したティッキーは、胸中で溜め息を吐く。大事な仲間だが、こういう細かい点で微妙にちぐはぐな空気になるのは少し残念だ。もっとも、和気藹々としたチームを目指しているわけではないし、ある程度は仕方がない。人知れず説明による理解を諦めた彼女は、いつものように黙って試合を見守ることにした。
それにしても、とティッキーは試合を見ながら思う。
(なんともジオらしい戦い方だ。やろうと思えばもっとアグレッシブなプレーもできるだろうが、アイツの生い立ちを知ってるとこれこそが最も信頼のおける戦い方のように思える。表の社会にいながら、ずっと裏の社会について考えていたのだろう。そういう物の見方が、常に他人を観察し、人間の性質を個人だけでなく集団としても見極める才能が磨かれたに違いない。少し悪い癖があるとしたら、相手の本質を最後まで見極めようとしてしまうところか。時おり好奇心に負けて、目的を忘れるのが玉に疵だな)
コートの上では、日本の選手がミスを冒しポイントを失う。それに対しなんらリアクションを見せず淡々と振る舞うジオ。数少ない、そして自分と似通った腹心の友と呼ぶべきその男は、着々と勝利への歩みを進めていく。気付けば、2ndセットのゲームカウントはジオが三連取し、3-0となっていた。
★
「基本中の基本だろ、同調行動ってのは。つっても、ありゃ相当な手練れっぽいけどな。完全に自分の実力は抑えてるとみたね。それにやってるのは同調行動とは正反対だから、言うなれば同調行動崩しだな」
日本側のベンチでいち早くジオの戦い方を見破ったのは奏芽だった。
<コイツ、やっぱ見た目の通り厨二病だな。なんだそのネーミング>
聖の頭のなかでアドが茶化す。
「言うのは簡単だけどさ、ぶっちゃけ机上の空論じゃね~?」
「要するに相手の嫌がるプレーを徹底することじゃん?」
マサキやデカリョウが奏芽の説明に異を唱える。それに対し、奏芽ができの悪い生徒を相手に講義でもするかのようにあれこれ説明を加えてみせた。聖はその言葉にひっそりと聞き耳を立てて自分の理解と照らし合わせることにする。
「ただ嫌がるプレーをするってのとは違う。むしろ基本はその逆だっての。相手が打ち易いように、相手のリズムに文字通り同調すんだよ。テニスはボールが飛んできた方向に、飛んできたのと同じようなボールを打ち返すのが一番簡単だからな。逆に、クロスに飛んできたボールをストレートに変える方が難しい。スピンをスライスに、スライスをスピンに、スピードボールをスローボールに、ってのも同じで難しい」
奏芽が説明するように、道具を使って対戦相手とボールを打ち合うテニスは、プレーにおいて非常に複雑な動作を要求される。そのうえポイントを獲るために、自分の意志で自分の打ちたい場所・球威でボールを打つとなると難易度は跳ね上がり、それゆえ習得が難しいスポーツの一つとして挙げられることも多い。
その習得過程において、相手が打ってきたボールを、打ってきた方向に打ってきた球威で返す同調行動がある。相手のプレーに同調することで、リズムを簡易的にし、心地良くラリーを行うことができる練習方法。つまり、相手が打ってきたように打ち返した方が容易なため、それを活用して実戦的な動きでフォームを身体に覚えさせる。そしてジオが採った戦略は、この同調行動を試合用に応用したものだった。
「つまり、序盤はわざと蓮司がやり易いように打ってたってこと?」
聖が理解を確認するように奏芽へ質問する。
「たぶんな。試合の出だしだったのもあるから、恐らくは自分の調子を整えるためってのもあっただろう。それはきっと蓮司も同じだと思うぜ。だけど見た感じ、相手は最初からそのつもりだったんじゃねぇかな。今思い返すと、第7ゲームくらいからちょいちょいそんな感じがあった。極めつけは第9ゲーム。蓮司が打ったチャンスボールを決めにいかなかった。あんだけ身長があるのに直接スマッシュ打たないなんて有り得ねぇよ」
蓮司がコート後方へボールを追いかけてノールックで対処したあのポイント。ファインプレーを見せた蓮司だったが、結局はミスでポイントを失った。よくよく考えてみれば、あれを相手がチャンスボールで決めていたら、状況は違っていたような気がする。相手にトドメを刺されたのではなく、どうにか持ち直したと思ったら自分でミスをしてしまったのだ。決められるより、その方が精神的なダメージは大きいだろう。
「でもさ、相手の調子を上げるために相手が打ち易いようにやるって怖くない? 下手すれば手が付けられなくなる場合だってあるでしょ? むざむざ調子を上げるより、最初からやり難いテニスをした方がリスクが低いっていうか」
聖が奏芽の話を聞いていて一番疑問だったのがこの点だった。自分の調子を整えるために相手のリズムを利用するところまでは分かる。だが、奏芽の説明だと相手は故意に蓮司の調子を上げるようにプレーしたことになる。自分で自分の首を絞めるだけではないのかと不思議だった。
「ま、そこは相手の判断だから外からじゃなんとも言えないんだけどよ、要するに綱引きみてぇなもんだ。あと手押し相撲とか? 完全に相手を調子に乗せるんじゃなくて、乗り切る手前で引くのさ。途中までは同調行動して、急にやめるんだ。テンポを下げるでも良いし更に上げるでも良い。ほら、たまに篝コーチが練習でやるじゃん。ボレーの練習してるときにいきなりロブ打ってきてさ。『ネット前にいてロブの警戒をしないつもりか』つって。あの理不尽な感じ」
そういわれて、合点がいく聖。確かに、あれは理不尽だ。
「自分が相手の動きを見切っているつもりが、実は相手にリズムを支配されてる状態。最初からあれこれやってくる相手なら、そのつもりで心の準備が出来る。でも実はそうじゃない。一番わかり易いのは意表を突く狙撃球だな。サーブはトス上げて打つものだって思い込みがあるせいで、あれは成立する。こうくるハズって先入観を逆手に取られると、どうしたってリズムが狂う。その上、もし自分がその先入観に気付けてなかったら――」
歓声が大きくなり、審判のアナウンスが流れる。蓮司が4つ目のゲームを失った。これでゲームカウントは蓮司からみて0-4。いよいよあとが無い。
「大丈夫」
凛と小さく鈴の音が鳴るように、ミヤビがつぶやいた。
「蓮司なら気付く。大丈夫」
その瞳は、まるで彼女もコートの上にいるのではと思えるほど、鋭く深い色を湛えていた。
続く




