黒鉄徹磨
身長197cm、体重102㎏、体脂肪率11%、年齢19歳。
この数値だけ見れば、既に肉体はトップアスリートと遜色ないと言っても差支えないだろう。生家は鉄鋼業で財を成した一族でありながら、明治時代から続く武術流派の本家。親族のなかにはオリンピックのメダリストが複数おり、名家と呼ばれるに相応しい実績を上げていた。
黒鉄徹磨はそんな恵まれた家系の下に産まれ、充分過ぎる程の環境で学び、持って生まれた才能を存分に発揮しながら育った。彼は極めて幸運な星の元に生まれた、いわゆる選ばれた人間であると言えるだろう。
子供の頃の不幸な事故で武術からは早い時期に身を引いたものの、身体を動かすこと、相手と一対一で向き合う事への楽しさは徹磨を既に虜にしていた。相手を怪我させるストレスをほとんど負わずに全力で取り組めるテニスを徹磨が選んだのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。
才能は早い段階で開花した。
プロを目指す選手としてはテニスを始めた時期は遅い部類に入るものの、ラケットを握って半年も経たないうちに小学生の大会で優勝した。体格に恵まれ、運動神経に恵まれ、練習環境にも恵まれていた徹磨は、武術家の祖父の厳しい躾から、驕ること無く愚直にテニスに取り組んだ。
小学五年生の時点で既にインターハイ出場選手と同等に渡り合っていた。年齢に見合わぬ落ち着いた性格と秘めたる闘争心を併せ持つ徹磨は小学校卒業と共にアメリカへ留学し、その才能を更に磨いた。
海外選手にも引けを取らない、強靭な肉体
祖父に叩き込まれた、古き良き日本の精神性
異文化の交わる恵まれた学び舎で育んだ価値観
およそテニス選手として必要な要素を貪欲に吸収した彼は18歳でプロ選手となり、その活動を本格的に開始した。日本男子プロテニスプレイヤーの新星。世界の頂点を目指す彼の戦いは、前途洋々と言えた。
★
飛行機は定刻通りに空港へ到着した。長時間のフライトにも慣れたもので、近頃では時差ボケも克服出来るようになっている。手荷物を受け取るとタクシーを拾い、徹磨はアリアミス・テニス・センターへ向かうよう運転手に告げた。タクシーの中で携帯端末を取り出し、メッセージを確認する。帰国早々、沙粧アキラからの依頼でひと仕事こなさなくてはならない。
――素襖春菜の幼馴染が、選手育成クラスへの入会を希望している
沙粧の説明ではそういうことらしかった。ハルナと徹磨は、友達とまではいかずともそれなりにお互いをよく知っている。片や「テニス界の至宝」とまで言われている天才少女、片や日本男子テニス界の新星と呼ばれている男。練習はもちろん、雑誌の取材やらスポンサーのCM撮影などでも一緒に仕事をした仲だ。しかしその彼女から、幼馴染の話は聞いたことが無かった。徹磨の実家は北陸地方で、アリアミス・テニス・センターへ正式に所属したのは15歳を過ぎてからだ。ハルナは幼少の頃からフランス人の名コーチの下で特定のアカデミーには所属せず独自に腕を磨いていた。
一見すると可憐な少女にしか見えないハルナだが、コートの上では底知れぬ実力を発揮し、徹磨もその溢れる才能を存分に肌で感じたことがある。徹磨は直接見ていないが、確かハルナは彼女が中学生の時、当時日本ナンバーワンだった金俣剛毅選手を相手に、練習試合とはいえ白星をあげている。
数年前まで、テニスは性差による男女の実力差が如実に表れるスポーツだった。
しかしある時期を境に、戦術、トレーニング方法、道具の進化などに伴い、その差は徐々に狭まっていった。それでも、中学生の、それも女子が大人の男子プロを倒すという異常事態は、ハルナの他には例がない。それほど、彼女は特異な存在だった。
そのハルナの幼馴染。名を若槻聖というらしい。試しに過去の戦績を調べてみたが何一つ見つからず、唯一手に入れた情報は「小学生の頃、素襖春菜とペアを組んでミックスの試合に出ていた」というだけだった。本当であったところで何の参考にもならない。ハルナと同じ歳で、過去に何度もハルナと対戦している現アリテニ選手育成クラス所属の雪咲雅のように、昔からお互いに切磋琢磨し合った仲、というわけでもなさそうだ。そんな彼が、何故今さらプロを目指そうというのか。ハルナがプロテストに合格したことが関係していそうだが、徹磨にはいまいち背景が見えてこなかった。
——素襖春菜の幼馴染よ。いえ、婚約者かしら?
婚約者。
確か沙粧は面白がってそう言っていた。
フン、と鼻をならして一笑に付す徹磨。女の尻を追いかけてプロを目指すとでも? どんなヤツかは知らないが、仮にそうなのだとしたら、考えが甘いにも程がある。勿論、本人と相対するまでは、下手に先入観を持つべきではないことは承知している。だが、現時点で徹磨が得ている情報から推察される今日の対戦相手のイメージは、なんとも尊敬に値しない、取るに足らない相手のように思えてならなかった。
★
<さ・ァ・て! 今日は運命の日だなァ!調子はどうだ? トレーニングのし過ぎで筋肉痛だったりしねェか? 夜の日課のヤリ過ぎで疲れてねェか? 緊張しないで昨日はゆっくり眠れたか? Hey、メーン! 今日の意気込み3・2・1 Q!>
いつにも増してハイテンションなアドが頭の中で喧しく煽り立ててくるが、聖はもうウンザリすることすら無くスルーしている。任意で接続を切ることも出来るが割とすぐ再接続されるので、よほどのことがない限り切っても無駄であると学習していたのだ。
<オイなんだよマジでキンチョーしてんのか? 折角のイベントだってのによォ>
「そりゃまぁ、緊張してないといえば嘘だけど」
ラケットバッグに着替えを詰め込みながら聖は適当に答える。家族にテニスを再開する旨を伝えたら意外そうな顔をされたぐらいで特に気にも留められなかった。特に瑠香は「今さら?」というような顔をしていたが、特に理由を追求するわけでもなく、大学時代に使っていたお古のラケットバッグを譲ってくれた。シューズとテニスウェアは先日大型スポーツ量販店でセール品を適当に見繕って買ってきた。
<つーか結局おめェ、時間あったのに非撹拌事象でのテスト運用しなかったな。ぶっつけ本番で大丈夫なのか?>
「言っただろ。代償である失徳の業がどの程度のものか分からないんじゃ、準備期間の1週間は短すぎるよ。学校もあるのに新学期早々何日も休むわけにはいかないし」
<慎重だねェ。ま、それもアリだな。今日のテストがワンチャン撹拌事象になる可能性もあるし、取り敢えず出し惜しむのも悪くはねェな>
「一応聞くけど、その撹拌事象かそれともそうじゃないのかはどの段階でわかるんだ?」
<正確なタイミングは書記が教えてくれる。が、ざっくり言うと“その事象が覆らない段階まで確定したら”だな>
「えぇ? もうちょい分かり易く」
<普通に考えりゃ、今日のテストは今の段階じゃほぼ実施確定してるだろうが、もしかするとキャンセルになる可能性はまだ充分ある。相手が怪我したとか地震が起こってそれどころじゃなくなったとか、可能性は低いがゼロじゃねェだろ。ま、試合相手とコートで顔合わせる頃には”確定”してると思って良いンじゃねェの>
「分かるような分からないような……。とにかく直前までは分からないってコトね」
<そゆコト。他にご質問は?>
「うーん……なんか見落としがあるような気がしなくもないけど、大丈夫」
<さいで>
聖はアドを倉庫から出した日に虚空の記憶と繋がり、叡与の儀を経てアンドレ・アガシという選手の力(使えるようになる能力を総称して叡智の結晶と呼ぶらしい)を自分の魂に刻んでいる。聖はてっきりチュートリアルだと思っていたが、どうやら叡与の儀事体が撹拌事象だったらしく、その恩恵として功徳の業を受けている。その為、先日まで初心者同然だった聖自身のテニスの基礎的な腕前は、世間一般で言うところの中級ぐらいまでは上がっていた。
随分と気前のいい大幅な習得率だと思ったが、アドが言うには、例えるならゲームと同じで、初期レベルが低いほど成長率が高いとのこと。試しに市営のコートへ行って壁打ちをしてみたところ、最初に空振りしていたのが嘘のようにボールを打ち続けることが出来た。その時、自分と同じように練習に来ていた中学生が何度かボールを吹っ飛ばしてしまっているのを見て少し複雑な気分になったのだが、アドには他人に遠慮してる場合かと一喝されてしまった。今はとにかく、一刻も早くプロになるための階段を駆け上がらなければと、聖も自分の決意を固めるよう努めた。
「行ってきます」
ラケットバックを背負って自転車にまたがり、聖はアリアミス・テニス・センターへ向かった。行き先を導くように、少し強い春風に舞い上げられた桜の花びらが、ひらひらと流れて散った。
★
同日 アリアミス・テニス・センター内
一般開放トレーニングエリアにて
休日ではあったが、不破奏芽は日課のトレーニングに勤しんでいた。先日参加した男子シングルスの試合では随分と不甲斐ない結果に終わった。そんな自分に喝を入れるべく、普段よりも重めのメニューを設定して悔しさを紛らわせる。銀髪に見えるアッシュグレーの髪、上下共に真っ黒なスポーツウェアで黙々とトレーニングする様は、ヤンチャ系の格闘家にも見える。
「あ、いた! 奏芽!」
そんな奏芽のもとに、幼馴染の神近姫子が慌てた様子でやってきた。ピンクのパーカーを羽織り、耳下で左右に括ったローツインテールの髪を忙しなく揺らしながら駆け寄ってくる。「大ニュース!」の文字が浮かんでいるのが分かりそうなほど愛くるしい瞳をきらきらさせていた。
仕方なくトレーニングを中断した奏芽は、汗を拭きながら姫子の話に耳を傾ける。
「ガネさんが育成クラスの選抜試験の担当する上に、その相手が聖? オマエ、そりゃさすがに何かの間違いじゃねェの?」
「ホントだよっ、ミヤビ先輩が言ってたから! ガネさんはさっき見かけたのっ」
聖と奏芽、そして姫子の三人は木代市内の同じ小中学校の出身だ。奏芽と姫子は小学生の頃からテニスをしており、その頃からアリテニに在籍している。二人とも選手育成クラスの所属ではないものの、志はプロを目指す他の選手と同じように、日々研鑽を積んでいた。二人は当然聖がテニスから離れたことを知っている。ハルナと聖の関係は二人が仲良くなるより前からの事だったし、暗黙の了解としてそれについてはあまり触れないよう心がけていた。聖は中学時代陸上部で、テニスとは一切関わっていなかったはずだと二人は認識している。
二人は小走りで選抜試験が行われるインドアコートへ向かいながら、あれやこれやと事情を推測した。
「実はどこかで密かにテニスやってたのかなっ?」
大きな瞳を興奮でくりくりさせながら、姫子は奏芽に尋ねる。
「聖のヤツは真面目に陸上部やってたし、そんなヒマねーだろ」
「じゃあどうして急に? ハルナさんがフランス行っちゃったからかな?」
「理由としちゃそれが一番アリそうだが……なんで選抜試験? なんでガネさん?」
「謎だねっ」
「なんか嬉しそうだな」
「うんっ、もしかしたらセイ君とテニス出来るかもしれないし」
「そんな話じゃなくねーか、別に期待するのは良いけどよ」
聖との久しぶりの再会が嬉しくてたまらないといった様子の姫子。そんな彼女の様子に、奏芽は内心で呆れてしまう。本人は秘密にしているつもりらしいが、姫子が小学校の頃から、聖に恋心を抱いていた。しかし聖の視線の先には、既にハルナがいた。友情とも恋慕とも区別のつかない、生まれたての感情。姫子は長らくその想いを燻らせ、結局はケリをつけられないまま中学を卒業した。
(聖のヤツ、間が悪ィなホントに)
何やら期待に胸を膨らませている姫子の横顔を、奏芽は盗み見る。姫子は自分の想いを秘めたまま、中学を卒業した。聖とハルナが疎遠になっていることを知っても、彼女は決して自ら聖との関係を進展させようとはしなかった。初めて異性を好きになったクセに、自分の感情を後回しにして、相手の望む形を姫子は優先したのだ。
(聞き分けが良い、って見方もできるケドな)
奏芽はそんな姫子を、ずっと傍で見守っていた。彼女が好きだったから、という理由ではない。一時期は自分の抱えている感情の正体が恋心なのかと疑ったこともあるが、彼の出した結論はそうではなかった。単純に姫子という人物が「つい助けてやりたくなる性格」であり、奏芽もまた「なんだかんだ人の世話を焼きたがる性格」だったという、それだけのことだと、彼は解釈している。
姫子が聖に想いを告げぬまま中学を卒業したことで、一応の区切りはついたと思っていた。それがまさか、こんな形で聖と再会するとは、と、奏芽は心のもやつきを押さえられない。大事に思っている友人二人が、仲良く振舞いながらその実、片方が強い思いを我慢しているのである。奏芽は態度こそおくびにも出さなかったが、完結しないじれったい恋愛ドラマを、ずっと間近で見せられ続けているような日々を送っていたのだ。
(どうしたモンかねぇ)
長年の悩みの種が再び芽吹こうとしている事に気を揉みながら、奏芽は姫子とコートへ向かった。
★
「マジでガネさんいるじゃん」
二人がコートに着くと既にウォーミングアップをしている黒鉄徹磨の姿があった。
「ガネさん、おかえりなさいっ!」
姫子が嬉しそうに声をかけると、無表情のまま徹磨が振り返った。
「チビ姫、と……お前なんだよその髪の色は」
銀のようなアッシュグレーに染め上げられた奏芽の髪を見て、徹磨は苦笑する。
「なんだっけそういうの、ヴィジュアル系っての?」
「趣味じゃねェっすよ、仕事の兼ね合いで仕方なく」
「とか言ってますけど、普段から服もバッチリ合わせてますよっ」
悪戯っぽく告げ口する姫子。
奏芽はテニスをする傍ら、ファッション誌のモデルを兼業している。
「まァ、まだ大人しい方か。海外だとバリバリにタトゥー入れてるやつザラだしな」
「そんなことよりガネさんっ、なんで選抜試験の担当するんですか?」
「沙粧さんの御指名なんだよ。米国でまだ用があったってのに」
「あ、そうだった、ガネさん、ATPツアー初優勝おめでとうございます!」
「おめでとうございますっ!」
先日、徹磨はATP250大会(※)で遂に優勝を果たした。これによって大きく世界ランキングを上げ、直近の目標である100位突破へ大きく近付いた。
(※テニスにおける国際大会のこと。グランドスラムを頂点とした7段階あるうち、ATP250は下から3番目のグレード。現実の2022年の時点で日本人の優勝者は合計5名。そのうち、複数大会で優勝しているのは錦織圭のみ)
「ありがとよ。オメー等が支えてくれるお陰だ。感謝してるぜ」
真っすぐ二人をみて感謝を述べる徹磨。
そのあまりに堂々とした言葉に、思わず奏芽と姫子は恐縮して黙ってしまう。
「オメー等こそ大変だろ。その年で自分の活動資金をスポンサーとは別に用意しなきゃなんねェんだから。奏芽はモデルだろ? 姫子は今何してんだ?」
「わ、私も、その、一応、モデルとか、あとは歌とか声のお仕事とかですっ」
プロスポーツの世界は、とにかく金がかかる。特にテニスは個人競技の為、自分の結果不振は即資金難に直結する。これまでこの資金問題に泣かされ、プロを諦めざるを得なかった選手は数えきれないほどおり、これは日本のみならず世界共通の課題だった。トッププレイヤーは華やかな世界に身を置くことが出来る一方、ランキング下位の選手やプロを目指す選手たちの抱える資金問題が、ドーピングや八百長問題といった違法行為の根底にあった。
しかし日本が東京五輪を経てスポーツ産業に力を入れるようになった事が幸いし、少しずつその状況は変わりつつあった。実績のある選手でなければスポンサーがつかないという部分に変わりは無いが、テニスの社会的地位の向上やプロモーション効果に期待する企業が増えたおかげで、以前よりも資金難に喘ぐ選手は減少傾向にある。
アリアミス・テニス・センターに身を置くジュニア選手たちは、選手育成クラスでなくとも選手活動の他に何らかの仕事をこなすことが義務付けられている。個人の特性を活かしたものから、興味のある分野など様々だが、活動資金の調達目的はもちろん、プロとしての道を閉ざされた後に、選手が社会人としてやっていけるようセカンドキャリアを見越した対策として自ら金を稼ぐ手段を学んでいる。奏芽や姫子が仕事をしているのはそういう理由だった。
プロを目指す選手は、そうした方法でテニス以外のキャリアの下積みを経験する。そしてアリアミス・テニス・センターは、本格的にプロとして活動を始める選手達へのサポートを手厚くし、彼らが結果を出す支援をする。プロ達は実績を残すことに専念しつつ、世界で戦った経験を後輩たちに伝え、新しい世代を育てていく。
「それにしても、驚きましたよ。今日参加するヤツ、オレ等の同級生なんすよ」
少し穏やかさを感じさせていた徹磨の表情が引き締まり、僅かに緊張感が宿る。
「若槻聖だっけか。どんなヤツだ。戦績は何も見つからなかったが」
「えっと、素襖選手の幼馴染でミックスのペアだったんですが、小三くらいでテニス辞めたんです。素襖選手についていけなくなって」
奏芽と姫子はそう認識している。聖とハルナがペアを組んでいることは周知の事実だったし、それを快く思っていない人が大勢いたことも。友達とはいえ幼かった二人にどうこうできるはずもなく、ただ普通の友達として子供時代を過ごした。
「確かこの前、素襖はプロテストに合格したな。それで渡仏した」
「はい、多分そのことが関係してると思うんですが」
「セイ君、ずっとテニスしてなかったんですよ、なのにいきなり」
「お前等はなんも聞いてねぇのか」
「先月までは学校同じでしたけど、卒業式以降は会ってないです。直接会うのはオレ等も一ヶ月ぶりですね」
奏芽が聖と自分たちの関係について簡単な紹介を徹磨に話したが、徹磨が興味を引くような内容は含まれていなかった。三人はどこにでもいる同級生という関係でしか無いようだ。そうこうしていると、選手育成クラスの責任者である篝コーチが現れた。
「お前等、見学なら上に行け。邪魔だ」
挨拶も無くピシャリと言い放つ篝。
上下黒のジャージに、短く刈ったツーブロック。精悍な顔つきで眼光は鋭く、コーチというよりもむしろ選手のような雰囲気を漂わせている。身体のラインが分かる服装でなければ、ほぼ確実に男性と間違われるような容姿だ。奏芽と姫子はコソコソとその場から退散し、コートを見下ろせる二階へ向かった。
「徹磨、次のツアースケジュールは決めてあるのか」
二人が離れたのを確認するや、篝は唐突に徹磨に尋ねる。
「次はジュネーブ。結果に関係なく全仏は予選からです」
「金俣と渡久地は?」
「金俣さんは全仏スルーだったかと。渡久地さんは次、エストリルかな」
「そうか」
短く言って、篝は主審台に座った。手元に備え付けられた小型タブレットを起動し、ブレスレット型の端末と同期させている。
「篝さんが主審を?」
「沙粧代表の指示でな」
「相手のこと、何か知ってるんすか?」
「知らん」
セッティングが終わると篝は一度主審台から降りた。
身長は圧倒的に徹磨の方が高いのだが、篝には妙な威圧感がある。
「今日の相手がどういう人物か、私は何も聞いていない。だが、沙粧代表がわざわざお前を呼びつけて選抜試験を行えと指示した以上、通常の試験同様の段取りで実施する。お前も自分の力に驕ることなく全力で相手をしろ」
本人の性格もあるだろうが、篝は自分に対しても他人に対しても恐ろしく厳しい。常日頃から、理性で精神を律することが他人の子供の将来を預かるコーチとしての自分の責務だと強く信じている。いついかなる時であろうと、選手そして子供の手本となるよう振舞っている彼女に、徹磨は祖父に近しいものを感じていた。徹磨も以前は直接指導を受けていたが、その頃は徹磨でさえ彼女の厳しい態度には畏れを抱いていた。しかし実は甘いものに目が無いという人間らしい一面を知ってからは、選手の将来を第一に考える尊敬に値するコーチとして大きな信頼を寄せている。
「勿論ですよ……っと、おいでなすった」
徹磨たちのいる端っこのコートを、遠巻きにチラチラ見ている青年の姿があった。買ったばかりの真新しいテニスウェアで、見たところシューズも新品のようだ。
「若槻君だな。コートに入りなさい」
良く通る声で篝が声を掛けると聖はいそいそと遠慮しがちに入ってきた。
「あ、あの、初めまして、若槻聖です。今日はよろしくお願いしますっ」
なんとも人の良さそうな優男だ、というのが徹磨の印象だった。篝は無表情だが恐らくは同じような感想を持っているに違いない。コイツが素襖春菜の幼馴染? いや、婚約者?
実際に聖の姿を目の当たりにし、徹磨はますます分からなくなった。沙粧は何故、こんなやつの為にわざわざセレクションを設けた?およそ強者と呼べそうな雰囲気を一切まとわない聖の雰囲気に、徹磨はすっかり気勢を削がれてしまった。だが、なんとか理性を奮い立たせて緊張感だけは解かないよう努める。油断大敵、心の中でそう唱えた。
「黒鉄徹磨だ。よろしく」
自然と見下ろすような格好になる。聖の身長は175cmほどといったところか。低くはないが高くも無い。20cmほどの身長差、筋肉の厚み、骨の太さ、何をとっても徹磨が勝っている。テニスはフィジカルだけで勝敗が決まるスポーツではないとはいえ、ここまで体格差があるとそういうわけにもいかなくなる。
「君は、私の知る限りしばらくテニスから離れていたそうだが?」
そう聖に尋ねる篝コーチ。
徹磨は、調べてあるじゃねーかと心の中で毒づいた。
「はい、あ、でも、一応練習はその、続けてて」
「ほう? どこで?」
「え、あー、その、自主練です」
つまり誰かに教わっていたとかですらないことになる。どの程度の練習をどの程度の量やっていたのかは知らないが、プロを目指す選手育成クラスの門を叩くには残念ながら努力が足らないだろう。選手育成クラスに参加するのは、小学校時代に優秀な成績を収めている選手が大半だからだ。実績の無い選手はそもそもセレクションすら受けられない。そのはずが、どういうわけかこのアリアミス・テニス・センター最高責任者のご指名で彼は今ここにいる。一体彼に何があるのか?何もあるはずがない。何かの間違いだろうと徹磨は思っていた。
「準備運動はしてあるな? 今回は6ゲーム先取ノーアドバンテージだ。短いだろうがお互いベストを尽くすように」
篝コーチが主に聖に向かってそう言うと、ポケットから銀色のコインを取り出す。
「Head or Tail?」
「え?」
「表か裏か、という意味だ」
「あ、じゃあ、Head」
聖が言うと篝コーチはコインを指で弾いた。
コインは回転しながら宙を舞い、高い音を立ててコートに転がる。
「Tail、徹磨」
「サーブ」
「若槻君、コートを選択してくれ」
「じゃあ、このまま」
「お互い、良いゲームを」
そう言うと篝コーチは徹磨にボールを渡し、主審台へ座った。
徹磨も大きく息を吐きながらポジションへ向かう。
聖はやや緊張しながら、身体のエンジンをかけるように足を小刻みに動かしたり、ラケットを振ってみる。さぁ、いよいよだ。
<良いニュースがあるぜ>
不意に、アドが囁く。まるで悪巧みを持ち掛けるかのように。
<撹拌事象だ。存分にやれ>
ラケットを握る聖の手に、力がこもった。
続く