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ワンヒット・ワンダー

 六月、イギリス。

 テニスの聖地で名高いウィンブルドン地区は、首都ロンドンの中心部から南西に約十キロの地点に位置する。イギリスの古い町並みと近代的な建造物が併存し、自然が豊かで高級住宅街ということもあり、国内でも比較的治安の良い地域だ。また、六月のイギリスは日本と同様に雨の多い時期だが、日本の梅雨とは異なり、湿度が低く過ごしやすい。日の入りも午後九時ごろと日照時間も長く、そのため街中は常に人で賑わっているのも特徴的だ。


(宿から会場まではバスで十五分。歩いて帰れる距離だな)

 ホテルに荷物を置いて、聖は昼前のウィンブルドンの街を探索していた。観光地のため街のあちこちに案内板が設置されており、ガイド要らずで歩き回ることができる。奏芽からは「イギリスの料理はマジでクソ不味い」と散々脅されたが、朝食がてらに怖いもの見たさで立ち寄った露店のフィッシュ&チップスは満足のいく味で、聖は良い気分のまま街なかを見て回ることができた。


(お、アレかな)

 中心街から離れてチャーチ・ロードを北東に進むと、聖の目に『AELTC』と書かれた看板が目に入った。巨大な格子状の門の先には、近代的なデザインのスタジアムと思しき建造物が見えている。『GateⅠ』と記載のある門までくると、略称ではなくその施設の正式名称の書かれた看板が設置されているのが見えた。


『The All England Lawn Tennis and Croquet Club.』


「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ、か」

 感慨深くなって、聖は思わず看板の文字を読み上げる。そこはテニスにおける聖地、その入口となる正門だ。四つあるグランドスラムの一角であり、もっとも格式高い『ウィンブルドンテニス選手権』の会場がその門の先にある。テニスというスポーツの歴史において、決して無視することのできない、もっとも重要な大会が行われる場所だといえるだろう。


(予選にエントリーできたのはラッキーだった。空知さんに感謝しないと)

 やたらと声がデカく常に暑苦しい、もとい、情熱的な男の顔を思い出す。本来であれば、現在の聖のランキングではウィンブルドンの予選すらエントリーできなかったはずだった。しかし、新人として類を見ない活躍をみせた聖に対し、元プロ選手の空知太陽が日本テニス協会に掛け合い、ウィンブルドンを主催する組織であるAELTCに出場を推薦してくれたのだ。今年プロ選手となったばかりの聖にとって、願ってもない幸運といえるだろう。


(本当に、これは純粋な運と呼べるのか?)

 ゲートの中へは進まず、聖は再び歩き出す。

 手入れされた芝生の緑が眩しい。

 歩きながら、自分の現状について思いを巡らせた。


(本当は、アカシックレコードとの繋がりが関係してるんじゃないのか?)

 聖はつい、自分に都合の良い状況が整ったことに何かしらの意図を感じてしまう。確かに聖の戦績は、新米プロとして見ればかなり優秀な部類だ。しかしそうであっても、プロ初年度でいきなり推薦を受けて、グランドスラム、それも四大大会のなかでもっとも格式高いウィンブルドンの予選参加というのはかなり異例だ。これを自分の努力と様々な条件が重なった幸運だと捉えることは、もちろんできる。だが、普通の選手とは異なる事情を持つ聖としては、正直いって素直に喜ぶことに小さくない迷いが生じてしまう。自分の抱える特殊な事情が影響していないとは思えないし、それ以上に、グランドスラムの予選に出るために、日々世界を飛び回って必死に戦っている選手達は大勢いるのだ。そんな彼らを差し置いて自分が出場することに、罪悪感を覚えずにいられない。


(ったく、何度同じことで悩むんだか)

 あれこれ考える自分に呆れ、思わず自嘲的な笑みが零れる。あの口の悪い同居人が聞いたら、またぞろ嫌味を言われてしまうことだろう。生意気極まりない意地悪そうな顔を思い出し、なんとも言えない気分になってくる。


(アド……)

 あいつは今、一体どこにいるのか。そもそも、自分と同じ世界に存在しているのか。確かなことは何一つ分からない。だが、なんとなく、聖はアドが今もまだどこかにいるような気がしてならない。それが半ば自分の希望的観測であることを自覚しながら、しかしそれでも、予感のようなものが確かにあって、それを無視することができずにいた。


(どこかに何か、手がかりが)

 そんな事を考えているタイミングで、目的の場所に着いたことに気付く。


 Wimbledon Lawn Tennis Museum


 聖が目指していたのはここ、ウインブルドンローンテニス博物館だ。 名前の通り、テニスにまつわる様々な歴史的資料がここには集まっている。外観の写真をスマホで一枚撮り、聖は入口へと向かう。


(おお、思ったより近代的)

 イギリスにあるテニスの博物館ということもあって、聖はもっと古めかしい内装をイメージしていた。しかし施設内は意外なほど明るく、博物館というよりも大規模なショールームのような雰囲気だ。入ってすぐのところには大きなデジタルサイネージが設置され、その画面にはどこかの試合がリアルタイムで映し出されている。通路を進むと、大きな百貨店によくありそうなショーウインドウがあった。中には女性向けの衣服が飾られている。女性がテニスの際に着用するウェアの歴史的変遷を紹介するコーナーらしい。


(本では読んだけど、本当にこんなドレスを着てテニスしてたのか)

 テニスの歴史については、以前に図書館で本を借りたことがあった。ただその時に頭へ入れたのは、単なる文字情報に過ぎなかった。それが、書かれていた内容に沿った現物を目にすることで、欠けていた部分が補完されるような感覚に陥る。同じフロアでは博物館のスタッフらしき女性が、ショーウインドウの中に入っているのと似た服装で、観光客に何やら説明していた。


 ウェア、ラケット、ボール、大会の変遷、そして歴代の選手にまつわるエピソード。聖はそれらのコーナーをゆっくり時間をかけて見て回る。想像していたよりもずっと興味深い内容だったせいで、ついつい展示されている紹介文などを熱心に読み耽ってしまった。最後のコーナーを見終わる頃には、時刻は午後二時に差し掛かろうとしていた。


 空腹を感じた聖は軽食をとろうと、二階に併設されているカフェテリアへと入る。ライ麦パンを使ったサンドイッチとアイスコーヒーを買い、窓際の席についてひと息つく。日本の梅雨とはまた違った、濃い芝の薫りのする湿った風が流れ、心地が良かった。


(遊びに来たワケじゃ、ないんだけどなぁ……)

 サンドイッチを頬張りながら、自嘲気味に反省する。

 今日ここを訪れたのは、何もテニスの歴史に触れたかったからなどではない。


(大会の記録とかは、やっぱりこういう所ではないのかな)

 聖が本当に見たかったのは、テニスの歴史に関するあれこれではない。あくまで実際に行われた大会に関する記録、つまりどこの誰が、いつ何の大会で優勝したか、といった公式的な勝敗記録(レコード)を見たかったのだ。


――私も、彼も、貴方と同じ人間です


 以前、アドが聖の意識から離れたことを告げた際、リピカはそう言った。それが本当なのかどうか、聖に確かめる術はない。しかしそのことについて、彼らが嘘を吐く理由がない以上、おそらく本当なのだろう。もちろん断定はできないが、彼らに対して聖は一定以上の信頼を置いている。疑いだせばきりがないし、事実であるという前提で考えることにした。だとすれば、世界のどこかにアドが普通に生きていたときの痕跡があると考えるのは、不自然なことではない。そしてこれも憶測の域を出ないが、おそらくアドは何らかの形でテニスに関わりがあるはずだ。一緒にいた頃、彼は何度かテニスに対して自信満々に語っていたことがある。細かい会話は思い出せないが、まず間違いなく、ある程度の実績を出していたはずだ。


(まぁ、完全にただの思いつきなんだけど)

 とはいえ、聖がアドについて知っている情報は少ない。名前については管理人(アドミニス)という役割からつけただけの愛称にすぎないし、容姿でさえ実在の人物と同じかどうかはわからない。確かなのは、傲岸不遜で口が悪く、常に態度のデカい自信家だということぐらい。その程度の手がかりで、世界中のテニスプレイヤーの中からアドを特定することなど、不可能に近いだろう。


(でも気になるし。合間で出来ることはやっておきたい)

 聖には、やらなければならないことがある。自分より先にプロとなった春奈のペアとして相応しい選手になるべく、テニスの世界に舞い戻った。その過程で、特異な力を使うことに戸惑いを覚えながらも、同じようにプロを目指す選手たちに触発されながら覚悟を固めることができた。本当なら、そのまま真っすぐ自分の目標に向かって進みたいところだ。しかし、聖は知ってしまった。テニスの世界には、聖が想像もしていなかった、薄汚い陰が潜んでいることに。無論、関わらないでいるのが賢い選択だろう。だが、純粋にプロを目指して研鑽を積む選手たちを食い物に、或いは踏み台にするような連中を、無視することはできない。聖一人で根絶することは難しくとも、何らかの形で食い止めたい。聖はそう思うようになっていた。


――テニスの世界を穢すやつらを、アカレコ様のチカラでやっつけろ


 アドは伝言で聖にそう言った。お前は表舞台を、自分が舞台裏を、とも。それがどういう意味なのか、聖は最近になってようやくわかってきた気がする。つまり、アドが自分の元を離れたのは、どういう方法かはわからないが、何らかの形で舞台裏に巣食う悪質な連中を相手にする。そういうことなのではないか。アドの言い草を思い返すと、自らから進んで汚れ仕事にクビを突っ込もうとしている、そんな気がしてならないのだ。


(仮にそうなら、放ってはおけない)

 ふと聖の脳裏に、真っ白な人影が甦る。マイアミのハイウェイで、聖たちを追走してきた真っ白な怪人。あのときは、イタリアの監督でありながら実はマフィアの構成員だというリッゾらの手によって、どうにか事なきを得た。その一件以降、テニスの世界には、邪な心を持つ者たちが数多くいることを知った。妨害工作、ドーピング、果ては毒を盛られるなどだ。


 つまり舞台裏には、ああいった手合が数多く潜んでいるはずだ。

 そして、アドはそれを相手にしようとしている。

 聖にはそう思えて仕方がない。


(自分のことに集中しろ、って言われそうだけど)

 ただの考えすぎ、杞憂であればそれで良い。だがもし当たらずとも遠からずなのだとしたら、聖にも何かできることがあるはずだ。それをハッキリさせるためには、やはりどうしても、どこかにいるかもしれないアドの行方を知りたい。そのためには、彼が一体どこの誰なのかを突き止めるのが早道なのではないか。そう思って、聖はこの博物館へとやってきた。


(今日のところは空振りか。ま、そりゃそうか)

 サンドイッチの包み紙をくしゃっと握る。ウインブルドンの予選まで、あと数日。大会のための調整や準備もしなければならないので、自由に行動できる時間は思いのほか少ない。博物館のスタッフにロンドン市内にある図書館の場所を尋ねようと、聖が席を立とうとしたときだった。


「やぁ、君もしかして、日本のワカツキじゃないか?」

 大柄な白人の男が声をかけてきた。大柄、という表現が控えめに思えるほど、ずっしりとした存在感を放つ体格。一方で人懐っこい柔和な笑顔を浮かべている。くすんで錆びたような金髪、鳶色の瞳。体の大きさが、そのまま人柄の良さと器の大きさを表しているような雰囲気。クリーム色のポロシャツの下に隠れた鍛え抜かれた肉体が、一流のアスリートであろうことを示している。


「ヘリオン? ヘリオン・サープマス?!」

 一瞬戸惑った聖だったが、すぐその顔に思い当たる人物の名を口に出していた。

「オイオイ、もうヤンチャ小僧(ヘリオン)、なんてトシじゃないぜ」

 はにかみながらいうサープマスは、さながら人語を解するゴリラのよう。

 テレビで見た顔よりも老けているが、それでも本人であることはすぐわかった。


 一週限りの(ワンヒット・)一発屋小僧(ワンダー・ヘリオン)


 十数年前、そう呼ばれて世間を騒がせた、アメリカのテニス選手だった。


                                 続く

大変ご無沙汰しております。志々尾です。

半年以上のお休みをいただいてしまいました。お待たせしてしまってごめんなさい。また、しばらくは不定期更新となりそうです。できるだけ年内の完結を目指しますので、どうかお付き合いいただければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。

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