かぼそい灯火
強烈かつ精確無比なショットで、露骨にアドの身体を狙うボルコフ。
タイミングなどお構いなしに、身体能力に物をいわせて連撃を繰り返す。
感情剝き出しなそのプレーに、アドは思わず苦笑いを浮かべてしまう。
(なンだァ、オイ? アーキアってのは、使うと脳筋になンのか?)
<凶暴性が増す傾向は確かにある。が、こりゃ単に、相手の性格じゃねーの?>
対するアドは縦、横、高さ、そして速度を駆使した立体的な配球の組み立てで応戦。
ボルコフの猛攻をのらりくらりと躱し、たまに不意を突いてカウンターを織り交ぜる。
<っつーか、本当にやるのか?>
(ンだよ、オメェがビビる道理はねェだろ)
躊躇いをみせる弖虎に、アドが当然とばかりに言い放つ。
(根拠はねェが、オレ等がこういう成り行きになってンのは、恐らくそういうコトさ。でなきゃ、こんな回りくどい状況になる意味がねェ。オレも神様なンざ信じちゃいねェが、それでもオマエが想像してるほど理不尽な存在じゃねェと思うぜ。もし仮に、オレやオマエが苦しむザマを見たいがために、わざわざこんな状況が用意されてるンだとしたら、神様ってのはとンでもなく底意地の汚ェクソッタレだ。それに、そんなもんが存在するんだとすれば、結局オレ等はどこまでいっても、ソイツの手の平の上じゃねェか。なら、せいぜい自分に都合よく物事を解釈して、できることをやった方がマシだろ)
前向きなんだか後ろ向きなんだか、よく分からないやつだと弖虎は思う。本当に何をどうしても結果が変わらないのなら、自分は何もしない方を選ぶだろう。少なくとも、以前の弖虎はそうだった。しかし、最近は不思議と、そうではなくなっていた。
物心ついたときから、弖虎の身体にはアーキアが備わり、十五年という短い人生の大半をモルモットとして過ごしてきた。抵抗も反発も、すべてが無駄。理不尽に抗う術を持たぬ弖虎は、基本的に全ての物事に対して無関心でいることで、己の心を守ってきた。アーキアの影響で攻撃的な気分になるときに限り、多少の高揚感は得られたが、それはあくまで、アーキアの副次的な効果でしかない。機能が止まれば、やってくるは決まって、虚無感を伴う自己嫌悪ばかり。それゆえに、ずっと以前から早く終わってしまえばいいと願い続けていた。
そんな弖虎の元に、この口の悪い同居人は突然やってきた。押しかけ女房などという生易しい表現では到底及ばない、意味不明なシチュエーションを伴って。それがアド本人の意図するものではなさそうではあったが、弖虎からすれば経緯は関係ない。いきなり意識に割り込まれ、身体の主導権を持っていかれてしまった。しかし、そんな異常事態が、弖虎のモルモットとしての人生を唐突に終わらせた。それから一か月弱という短い時間だが、弖虎は初めて何者にも阻害されることなく、自分の気持ちと、或いは自分という存在そのものと、向き合うことができた。
――オメェをモルモット扱いした連中を片っ端からブチのめす
提案されたのは、そんな強い言葉。自身を蔑ろに扱い続けた連中に対する憎悪は、ずっと弖虎が抱いていた唯一の本心でもある。具体的なやり方も何も分からない状況ではあったが、僅かでもあのリアル・ブルームに意趣返しできるなら、面白いかもしれない。自然とそう思った。例え、その結果がどういうものになろうとも。
<言っとくが、ハンパじゃねぇからな>
これはアドを気遣っての言葉ではない。単に、事実を述べているだけ。
(おうよ、覚悟の上だ。モノホンの力、みせてやろうや)
意に介さず、アドが強気に応じる。
<後悔するなよ>
脅すように、付け加える。
しかしそこに込められたのは、これまでのような自棄でない。
その気持ちの正体に気付いて、思わず弖虎は苦笑する。
期待? このオレが?
これまで、一度も抱いたことのなかった、前向きな感情。
いや、徹底的に踏みにじられ、存在を忘れていたもの。
人間が行動を起こすとき、最初に生じる、決意の灯火。
その小さな灯は、やがて大きな炎へと変わるだろう。
それは情熱の炎か、或いは復讐の炎か、それとも別のなにかか。
<アーキア、起動せよ>
しかし言葉とともに、弖虎はその感情から距離をとる。
そのぬくもりに触れるのは、まだ早すぎる気がしたから。
★
稼げる裏トーに、強いやつがいる。そんな噂を聞いたボルコフは、まず情報を集めた。といっても、アメリカには気心の知れた友人などいなかった為、前回の対戦相手を見つけて半ば強引に試合の動画を手に入れただけだ。見た限り、勝てると確信した。確かに上手い。テニスというスポーツにおける勘所を、実によく押さえている。タッチセンスや咄嗟のショットチョイスも、センスが良い。しかし圧倒的にフィジカルが足りていない。なんでも、アメリカではそこそこ有望なジュニア選手らしい。しかし身長はあっても体に厚みがなく、所詮はまだまだトップジュニアの域を脱していない、発展途上の子供だと思った。そのはずだった。
「オォォルルルアァッ!」
相手の咆哮とともに、激烈な一撃が炸裂する。ボルコフが放った渾身の強打を、いとも簡単に、倍の力で打ち返されたのだ。起こった事象はそれだけ。だが、ボルコフは何が起きたのかすぐには理解できなかった。
「なん、だ今の……!」
「速過ぎだろ、見えなかったぞ!」
「誰かショットスピード計ってねぇの!?」
あまりにも常軌を逸した速度の一撃に、観客のどよめきが収まらない。どうやら動画で撮影していた者がいたらしい。場面を遡ってアプリで計測された暫定的なショットスピードの数字が、観客たちの口を伝わってボルコフの耳にも届いた。
「201km/h!? マジかよ!」
「バカな」
馬鹿げた数字に、思わず声が出るボルコフ。
公式的な記録ではないが、テニスにおけるフォアハンドの歴代最速は、チリ出身のフェルナルド・ゴンザレス選手が叩きだした190km/h台だ。他にもフォアハンドにおける快速自慢な選手は数多くいるが、そのどれもが190km/hを下回る。サーブならまだしも、ストロークで200km/hなど、とても信じられるような速度ではない。というより、普通は成立しないのだ。
(惑わされるな。確かに速かったが、数字は目安だ。それにそう何度も打てやしない)
サーブと異なり、フォアハンドが200km/hを超えないのには理由がある。テニスはその競技性において、コート中央にあるネットを越えて相手コートにバウンドさせなければならない。ネットの高さは、中央のもっとも低い部分で91.4cm、両端のもっとも高い部分で107cm。このネットという障害物を超えて、かつ相手コートでバウンドさせなければならないという制約があることで、ボールに加えられる速度に上限が生じる。厳密にいえば上限があるわけではなく、速度と角度の関係から「その速度で打ってコートに入れるには、この角度が必要」という物理的制限が伴う。
サーブの場合、身長があり高い打点から打ち下ろすことのできる選手なら、200km/h超えのサーブを安定的に成功させられる。しかし身長の足りない選手は、打点位置の関係で仮に200km/hのサーブが打てるフィジカルがあったとしても、成功させるための軌道が長身の選手よりも狭まってしまう。ピンポイントでその軌道に打たなければならないため、理論上打つことが可能でも、現実的には限りなく不可能に近い。ストロークは言わずもがな、そもそもの打点がサーブよりも低くなる。速度を出すほど、ボールが直線軌道で飛ぶ距離は延び、コートに入らなくなってしまう。
(~~なのにッ!)
またしても、弾丸と見紛うほどの速度でボールが着弾する。目で追う事はできても、身体が速度に反応しきれない。しかし、複数のドーピングによって強化されたボルコフの動体視力が、早くも相手の超速球が成立している理由を捉えた。
(回転が掛かってやがる! 無回転じゃないだと!)
相手の守備範囲を突破する速度のショットを、安定的に成功させるのは極めて難しい。しかしテニス選手たちは、肉体と技術と道具の進化により、回転を効率よく取り入れることでその難事を克服した。速度を出す為の推進力と、軌道を変える強力な回転の融合。ボールの回転、均一にかかる重力、空気抵抗、マグヌス効果などが作用することで、本来一直線に飛んでいくボールに落下軌道を加えコートにおさめるのだ。しかし当然、回転をかければ速度は落ちる。速度を保った上で回転をかけるには、技術はもとより、強靭なフィジカルが必須だ。
(あの速度でかつ回転を……未発達なジュニアとは思えない)
相手の打ったボールの具体的な速度は、この際あまり関係ない。驚嘆に値し、脅威と思うべきは、他にある。少なくとも対戦相手は、ボルコフの反応速度を上回るだけの速球を打つ技術と、強靭なフィジカルを有している。所詮はジュニア、などという認識は、勘違いも甚だしかった。
「ッダラァアアッ!」
「チィ!」
またも放たれた超速球を、ボルコフが強引に打ち返す。打点位置がズレているのを無視し、力任せにラケットを振る。衝撃に耐えきれず、ボルコフのラケットに張られたストリングスが弾け切れた。反撃に失敗し、ボルコフは怒りに任せてラケットで地面を殴りつける。ラケットが枯れ木のようにあっさり折れ、衝撃でバラバラに砕け散った。
「なァ、いっこ聞かせてくれよ」
視線を向けると、対戦相手がネットの前でニヤニヤと笑みを浮かべている。
ボルコフの全てを見下し蔑むような、侮辱的な眼差し。
「あァ……?」
「ドーピングまでして敗けるのって、どんな気持ち?」
★
試合を終え、部屋代わりの倉庫に戻ったアドは、その隅で蹲っていた。
より正確には、身体を襲う猛烈な苦痛にのたうち回った挙句、力尽きていた。
<だから言ったろ、ハンパじゃねぇって>
「……」
弖虎の肉体には、未だに生体ナノマシンのアーキアが残っている。起動することで人間を遺伝子レベルで強化するアーキアは、通常使用でも激しい肉体的苦痛を伴う反動が起こり、その強さは筆舌に尽くし難い。弖虎は聖との試合でアーキアが原因不明の不具合を起こし、生死の境を彷徨うことになった。
<オレのアーキアは割と完成品に近かったハズだが、どういうワケだかあの時にバグが見つかったらしい。それを修正するためにあれこれ弄くったようだが、結局は直らず仕舞い。研究員ども、途中からこれは直せないって思い始めたんだろうな、バグがあるって分かってるアーキアを無理やり起動させて、なんとかなれ〜つって遊んでやがった。ったくどいつもこいつも、知能の代わりに倫理観捧げたようなクズだったぜ>
弖虎の意識、ないし魂は肉体から切り離され、現在は身体の主導権をアドが握っている。つまりアーキアを起動させた際に発生する反動は、必然アドがその全てを引き受ける。ただ起動に際しては、アドの一存では実行できず、弖虎の意志が必要だ。彼の魂が身体から離れていかないのは、ひょっとすると何らかの形でアーキアとの繋がりに起因しているのではないか、というのが今のところ二人が導き出した仮説である。
<っつーか、相手の方はどうなんだろうな? アーキアの模造品だかなんだかを使ってるんだろ? 最後はなんか抜け殻みてぇになってどっか行ったが、アイツあのまま死んだりしてねーだろうな? っつーか、そもそもアーキアの模造品ってなんだよ。どこで情報が漏れた? オマエいい加減知ってること全部話せよ。不公平だろうが>
不満を口にする弖虎だが、アドはピクリとも動かない。先ほどから相手の反応がなくても喋り続けているのは、せめて気が紛れるようにという弖虎なりの心遣いのつもりだったのだが、喋るネタが無さ過ぎて、普通に口の悪いこの同居人への不満になってしまった。
「……お」
<あん?>
「……っこ」
<なんだ? ハッキリ言えよ>
アドの不明瞭な呟きに、弖虎が少し苛つきながら応答する。元々は自分の身体でもあるから、できることなら最低限の介抱ぐらいしてやりたいところだが、生憎とそれは不可能だ。しかしだからといって、優しい言葉で慰めてやろうという気にはなれない。誰が好き好んで、得体のしれない男の世話を焼くというのか。しかし、続く言葉を聞いた瞬間、できることなら全力でなんとかしてやりたいと、心の底から思うこととなった。
「お……しっこ、漏れ……る」
<今すぐ立って! 便所に行けバカ!>
だがいうまでもなく、弖虎に出来ることなど、何もなかった。
★
二日後。
ようやく動ける程度に回復したアドは、重たい体を引きずりながら、対戦相手のボルコフの宿泊先を訪れていた。試合が終わった直後、サマンサ達に言い含めて動向を探らせていたのだ。ボルコフは閉鎖されたスタジアムにほど近い安宿で、アドと同じように反動で身動きが取れなくなっていたらしい。
「当然ながら、善意の施しじゃねェぞ。聞きてェことがあンだよ」
「……なんだ」
試合の時は筋肉の塊かと見紛うほどの肉体を有していたボルコフだが、たった二日で別人のように痩せこけてしまっていた。風船が萎むように筋肉が削げ落ち、薄くなった皮膚の下にある肥大した血管がぼこぼこと浮き出て、まるで一気に50年は老け込んでしまったと錯覚するほどの変わりようだった。
「オマエ、やってるのはクスリだけじゃねェだろ。今さらすっ呆けるンじゃねェぞ。オマエがいつ、どこで、どういう経緯でソレを手に入れやがったのか。知りてェのはそこだ。別に吊し上げようってワケじゃねェからそこは安心しろ。オマエのキャリアにゃ興味ねェンだ。さっさと吐けばな」
単刀直入に要件を告げる。そう簡単に口を割らないだろうと予想してたので、まずは牽制がてらいつでも弱味を突けることを示しておく。仮にボルコフのことを男子プロテニス協会やWADAに報告すれば、彼は二度と選手として表舞台には立てなくなるだろう。
「……ロシアンマフィアだ」
しかし意外なことに、ボルコフはあっさりと口を開いた。勝利のためならどんな犠牲でも払う、と覚悟していたであろう男の目には、もうその暗い光でさえ宿っていない。己の罪を認めて真摯に裁きを待つ罪人、という風でもない。今のボルコフは、全ての希望を手放し、生きる意志さえ投げ出して、文字通り何もかも失くしてしまった悲壮感に満ちていた。
<チッ……>
苛立ちを誤魔化すように、弖虎が舌打ちをこぼす。アドは弖虎の様子に気付きながらもそれを無視して、ボルコフから情報を聞き出していく。どうやらロシアンマフィアが窓口となり、仲介人を通して必要な施設で生体ナノマシンの移殖を行ったらしい。しかしかなり厳重に秘密を保持しているようで、ボルコフも具体的な場所などは知らない様子だった。
(ロシアンマフィアを手あたり次第ぶちのめして聞き出す、ってのは無理があるか)
ロシアンマフィアといっても、組織は多岐に渡る。仮にアタリを引けたとしても、末端の構成員を締め上げたところで本命には遠いだろう。せめて、その仲介人とやらが特定できればまだやりようがあるのだが。
「そういえば」
思案していると、ボルコフが何かを思い出したらしい。
ゆっくり記憶を辿りながら、ある人物の名前を口にした。
「マフィアの男が、仲介人の名を言っていたな。確か……イクゥシマ」
その名を聞き、アドが瞠目する。
<イクシマ? 日本っぽいな。わかるか?>
ピンときていない弖虎が尋ねると、アドはくつくつと笑いながらいった。
「あァ、知ってる。会ったことはねェがな」
続く




