やさしい提案
ボールを打っても、狙った場所とまるで違う場所に飛んでいく
相手コートから大きくオーバーしてしまう
抑えようとすれば、ネットにかかってしまう
やがてラケットのフレームに当たりはじめ、衝撃が腕に伝わった
ボールを打つたびに不快な衝撃と痛みが、腕や手首に蓄積されていく
一方、相手の打つボールは鋭く、自分のコートに突き刺さる
打ち返せていないのに、ラリーは続いていないのに、なぜかボールを追う
右へ左へ、前へ後ろへと飛んでくるボールを、駆けずり回って追いかける
身体に宿す、過去の名選手たちの力をもってしても
試合が終わるその時まで、自分は何もできなかった
――礼を言うぜ お陰でラクな試合になったからな
薄ら笑いを浮かべ、相手はそんなことを言う
感謝の言葉に込められた、嘲笑の念が憎らしいほど伝わってくる
――体調が悪かったのか? 無理はしない方がいい
労いにみせかけた、見え透いた、あからさまな煽り
――そうそう、お前が持ち帰ったアレ、調べても何も出ないぞ
一矢報いることができるはずと信じた手段は、最初から封じられていた
周到に、狡猾に、用心深く、なにもかもが準備されていたようだ
最初の一歩を踏み出した時から、既に罠に嵌っていたのかもしれない
――告発したければやってみろ 無駄だと思うがな
しないわけないだろう、と相手を睨みつけるが、蛙の面に水とはこのこと
相手は自分の精一杯の反抗心を、なんてことのないように受け流す
――せいぜい、幼馴染に甘えて、泣き言でも聞いてもらえ
春菜の顔が思い浮かぶ
自分には、彼女の隣にいるだけの力が無いと思った
自分せいで、彼女に余計な負担をかけたくなかった
周りの目は気になったが、一番気がかりだったのは彼女のこと
だから力を望んだが、はじめそれは自分の手に余り、扱えなかった
やけに寂しそうな彼女の横顔を目にし、生まれ育った地を離れると知った
居ても立ってもいられなくて、彼女と話し、宣言した
――オレが、春菜のペアになる
半分以上は強がりだったけど、そう告げたあとの彼女の顔は忘れられない
手段を正当化するだけの理由を持っていると、その時は思った
純粋に、透明な気持ちで、彼女の為にと力を手にした
今は、どうだだろうか
果たして自分は、今も透明な気持ちでいるだろうか
わからない 自分で自分のことがわからない
彼女なら教えてくれるだろうか 今、自分がどんな状態なのか
不意に、懐かしい彼女の香りが鼻をくすぐった
匂いのする方へ、意識を向ける
なんだか無性に、彼女に逢いたくなった
★
聖の意識が浮上していく。瞼を開ける前から、これから目を覚ますのだという感覚があり、それはゆっくり強くなっていく。同時に、未だ身体に残る代償の鈍痛が消えていないことが感じられる。目覚めに向かうほどその輪郭が明確になり、不快感が後を追うようについてきた。
「……ん」
それでも、目を覚ますからには、恐らく苦痛の終わりが近いはず。疲労が重なっていたとはいえ、意識を失うほどの代償は久しぶりだった。身体への物理的な負担は無いものの、しんどいものはしんどい。筋肉が鉛のように重くなり、神経がやたらと過敏になって、あらゆる刺激を大袈裟に感じさせる。五感全てが片っ端から不快な要素を拾い上げ、これでもかというほど自分の身体に伝えてくる。まるで「お前はまだ代償無しに力を扱えぬ。身の程を知り、苦痛を受け入れろ」と言わんばかりに。実際その通りなのだから、大人しく受け入れていた。これからも、その力を自分の意志で身に宿すのであれば、受け入れるつもりだ。ただ、果たしてもう一度、そういう決断を下すかどうか。それが今の聖には分からない。
「……は、る」
カラカラに乾いた咽喉を動かし、愛しい人の名前を呼ぶ。どんな夢を見ていたのかは覚えていないが、感情だけは明確に残ったままだ。夢で感じた春菜の匂いは、未だ聖の鼻腔をくすぐっているような錯覚があり、そのせいで余計に彼女のことが頭から離れない。匂いを頼りに、瞼の裏側に見える彼女の残像が消えないよう強くイメージする。情けなさが胸にこみ上げてくるが、嗚咽にもにたそれを今の聖に押し留めることはできない。あとでたっぷりアドにからかわれるだろうが、湧き上がる情動に身を任せ、聖は彼女の名前を呼ぶ。
「ハル、姉ぇ」
「どしたの、セイ」
春菜の声。
耳を疑った。
反射的に、聖の目が見開かれる。
視線の先には、前髪を垂らして微笑む、春菜の顔があった。
「は……?」
「おはよ。具合はどう?」
聖の額をそっと撫でながら、春菜が言う。冷やりとした掌の感触。風邪を引いて寝込んだとき、母親が心配して同じことをしてくれたのを思い出す。熱にうなされ苦しくても、そうされるだけでひどく落ち着けて安心できた。慈しみに満ちた彼女の所作が、憔悴して渇いていた聖の心にしみ渡る。
「な、んで……?」
それが現実であることは、聖の五感が伝えてくれた。代償によって著しい苦痛を味わっている真っ最中でありながら、その研ぎ澄まされ過ぎた感覚が、脳の覚醒を証明してくれている。間違いなく、聖の目の前に春菜がいる。より正確には、聖はベッドの上で横たわりながら、彼女の膝に頭を預けていた。なぜ、春菜がこんなところにいるのか?
「その様子じゃ、全然覚えてないね。慌てなくて大丈夫だよ」
優しく言いながら笑みを浮かべる春菜は、赤ん坊の仕草に思わず破顔する母親のよう。その声と表情で、聖の心の底が暖まる。しかし一方で、理性の方は疑問でいっぱいだ。そんな聖の様子を見て、春菜は聖を落ち着かせるように、額や頬をゆっくり撫で続けながらここにいる経緯を語ってくれた。
金俣との準決勝を終えてから、既に三日が経過していた。
聖が宿泊しているホテルは、出場する選手のために大会側がホスピタリティの一環で用意している宿だ。ATP250のグレードともなれば、基本的に選手はゲスト扱いで宿泊費等はかからない。とはいえ当然ながら、敗退した選手はその時点でホテルを出なければならない。聖も本来なら試合の翌日にはチェックアウトする必要があったのだが、完全に意識を失っていて動けずにいた。時間を過ぎても部屋から出てこない聖を訝しんだホテル側が様子を確認すべく中に入り、そこで衰弱した様子の聖を発見。
一方、春菜は女子の大会に参加すべく、スペインにやってきた。聖がバレンシアオープンへ参加しているのを知っていた春菜は、彼を驚かせようと宿泊先に足を向ける。ホテルのスタッフが聖を病院へ搬送するための準備に取り掛かったのと、春菜が現れたタイミングが重なり、現在にいたるということらしかった。
「それで、私の帯同チームのドクターに来てもらったの。外国で病院を利用すると高くつくでしょ。しばらく安静にしてれば大丈夫だって話だったから、延泊の手続きをして、ご両親にも連絡して、目が覚めるまで優しい春菜お姉ちゃんが健気に看病してあげているのでした」
話の途中から、春菜は聖の頬を突っついたり唇をつまんだり、あれこれと好きなように弄びながら説明した。されるがままの聖だったが、話を聞くうちに朧気ながら、ここ数日の出来事を断片的に思い出す。酷く心配した表情を見せる春菜の顔が、わずかながら記憶に残っていた。
「……ごめん、迷惑かけて」
どうにかしぼり出した最初の言葉は、謝罪だった。
それを聞いた春菜は、両手で聖の頬をむぎゅっと挟み、不満そうな顔をする。
「ご・め・ん・?」
「……ありがとう」
意図を察し、言い直す。それを聞いて、春菜は満足そうに目を細める。
手は聖の顔から離さず、そのままムニムニとこねたまま。
「ヘンなカオ~」
自分がそうしておいて何を言うのか。すぼめられて口が開かないので、聖は不満げな視線で抗議すると、いたずらがバレたときみたいな顔で春菜がクスクス笑う。つられて、聖も笑う。身体を起こして話をしたかったが、生憎とまだ動けそうにない。それに春菜の顔を見て安心したせいか、再び眠気も襲ってきた。起きていようとする聖に、無理しなくていいから、しっかり休みなさいという春菜。その言葉に大人しく従い、聖の意識が途切れるまで、他愛のない会話を交わす二人。
久しぶりに、心から安らぐ時間だった。
★
その日の夕方には、聖の体調もどうにか元に戻った。代償自体は時間が過ぎれば筋肉痛のように消えてしまうが、どうやら意識を失っている間に風邪も引いていたようだ。本当の意味で病み上がりみたいな身体の状態で、全ての感覚が鈍い。ただ春菜と一緒にいたお陰で、精神的にはかなりリラックスすることができたらしい。ネガティブな感情の嵐は、どうやら一旦過ぎ去ってくれた気がする。そうなると、いくつか気になる疑問が聖の頭に浮かんだ。
「ご飯、食べられそう?」
「うん。なんか凄いお腹すいた」
体調を完全に戻すためにも、何かしっかり食べた方が良いと思った聖は、頭に浮かんだ疑問をひとまず棚上げし、春菜と食事に出かけた。二人で食事するのは、何年ぶりだろうか。というより、聖の記憶が確かなら、そもそもこんな風に二人だけで出掛けることなどなかった気がする。一緒にテニスをしていたのは子供の頃で、常に親の出迎えがあった。聖がテニスから離れて以降は、春菜と二人で過ごした時間など無い。実質これは初デートなのでは、という考えが浮かんだところで、春菜が来たことのあるというレストランに到着した。
「おお〜、すごーい! 見事完食だ~!」
「いやハル姉ぇ、いくらなんでも頼みすぎ……」
食後のハーブティを啜りながら、聖はどうにか食べ切ったことに安堵する。本場の地中海料理は、見た目は美しく味も驚くほど旨く大満足ではあったが、いかんせん注文した量が多く、聖の腹ははち切れんばかりだ。パエリア、タパス、ムサカ、アクアパッツァ。運ばれてきた料理はどれもこれも彩り豊かで感動したものの、基本的に大皿に盛られていた為に、後半は食事というよりも半ば戦いのようだった。どうにか試練を乗り越えたところで、無計画に注文した春菜へひと言苦言を呈したら、あっけらかんと返される。
「いいじゃん。せっかくのお祝いだし。豪勢な方が」
「お祝い?」
「聖の。プロ1年目でATP250のベスト4だよ?」
言われて、聖の動きが止まる。外側から見れば、確かにそうかもしれない。
だが、その結果を素直に喜び受け入れられる準備は、聖にはまだできていなかった。
「そういえば、優勝したのって?」
「金俣選手」
別の人間の名前が出ることを僅かながら期待したが、そうはならなかった。春菜の話によれば、金俣は決勝戦も第2シードを相手にストレート勝ちを収めたという。この勝利によって金俣は世界ランキングを上げ、黒鉄徹磨を抜いて事実上日本男子選手のNo.1へと返り咲くことになるそうだ。
「だから聖があそこで勝ってたら優勝だったかも。惜しかったね」
「……惜しかった?」
聖と金俣の対戦スコアは、聖から0-6、1-6の惨敗。内容的にも、終始金俣に圧倒され続けた。前日に毒物を盛られていたとはいえ、能力を使ったにも関わらずブレイクポイントの1つすら迎えられなかった。正直いって、とても惜しいなどといえるような点は見当たらない。試合のことを、金俣の顔を思い出すと、聖のなかで黒いもやもやが再び広がり始める。春菜の前でそんな気持ちでいたくないのに、そう思えば思うほど、黒いもやは急速に心の中を占めていく。
「食後に少し、歩こっか」
そんな聖の様子を察してか、春菜がそう提案する。
会計を済ませると、二人は店を出てマルバロッサ海岸の方へ向かう。
陽が落ちて少し経つが、水平線の向こうはまだぼんやりと明るい。地中海から吹く海風は、潮の香りのなかに夜の気配を含ませ、穏やかに頬を撫でる。先を歩く春菜の綺麗な髪が、風に揺れて踊っているよう。幼い頃に遠ざかった彼女の背中が、今、目の前にある。自分の身体が大きくなったせいだろうか。あの頃は大きく見えた彼女の背中も、今はどこか小さく見える。不意に後ろから抱きしめたら、彼女はどんな反応をするだろうか? そんな衝動を堪えながら、聖は黙って彼女の後に続く。並んで歩こうとはしない。今はまだ、そうすべきではないと、心のなかで思っている。
特に会話も無いまま、砂浜を歩く二人。春菜は履いていた靴を脱いで聖に預けると、裸足で波打ち際へと進む。打ち寄せる波が、彼女の足にぶつかって弾ける。日中の気温は高かったが、さすがにまだ水遊びできるほど暖かくはない。風邪を引くよと言うべきか悩んでいると、春菜が振り返って聖に言った。
「私はね、充分だと思ってるよ」
何のこと、とは尋ねない。いくつかの偶然が重なっただろうとはいえ、聖は春菜が会いに来た理由を、なんとなく察していた。聖の実姉である瑠香に影響されて、すぐに自分をからかいたがる春菜だが、なんだかんだで聖には甘い。聖が泣くまでからかい続ける姉と違い、聖が困った顔をするだけで、すぐ手を差し伸べてくるのが春菜だ。
「確かに1年前の聖じゃ、私のペアにはなれなかっただろうね。でもさ、正直言うと、絶対なにがなんでも、聖がペアじゃなきゃダメって、そこまで拘ってるワケじゃないの。そりゃ、昔のことがあったし、そうなったら良いなとは、今も思ってるけど」
春菜が聖をテニスに誘ったのは、日本人の男女ペアが、ウインブルドンで優勝するところをその目で見たから。自分も同じように、好きな人とペアを組んで、栄光のあの舞台で優勝したいと、そういう夢を見たからだ。そして春菜にはその夢を見るだけの才能があり、聖には彼女について行けるだけの才能がなかった。
「聖が私のために、テニスの世界へ戻ってきてくれたのは、凄く嬉しい。まさかこんなに早くプロになって結果を出すなんて、思いもしなかった。期待はしてたけどね。聖が今、自分自身をどう評価してるかは分からないけど、私としては、今の聖は充分私のペアに名乗りをあげる資格がある、そう思ってるの。ていうか、特に決めてなかったしね。何を達成したらペアになろう、なんて。まぁ周りがどういう反応を示すかはちょっとアレだけど、もし聖が望むなら、今後はペアとして一緒に腕を磨いて、結果を出すために頑張ろうって話を私の帯同チームに持っていくことはできるよ」
少し大きな波が寄せて、聖と春菜の立っている中間の砂浜を濡らす。
白い砂と濡れて黒くなった砂で、境界線のようなものができあがる。
「…………」
春菜の誘いは、聖にとって望むべくもないものだ。元々は春菜のペアとして認められる為に、聖は虚空の記憶の力を借りた。春菜の隣へ並び立つに相応しい選手になるため。その春菜が「もう隣にいていい」というのだから、聖がここで「そうする」と答えれば、当初の目的は達成できる。少なくとも今の実力があれば、春菜の足を引っ張るということはないだろう。
だが。
「ごめん、ハル姉。僕はまだ、ハル姉のペアとして充分じゃない」
試合に負け、慰められる形で提案されたから、というわけではない。
「なんていうか、本当は、ハル姉がそう言ってくれるなら、もうハル姉のペアとしての活動を中心にしたい気持ちはある。僕はそのために、プロを目指したから。でも、その、なんていうか……」
上手く言葉にできず、口ごもってしまう。
そんな聖を、春菜は急かすことなく見つめている。
「僕はまだ、自分の力でやるべきことを、やれていないんだ」
出てきたのは、そんな言葉。聖がプロとして、今の現状でいられるのは、自分の力ではない。あくまで超常の存在である虚空の記憶の支えがあってのこと。決して、純粋な自分の実力ではない。だからこそ、力を貸してくれるという虚空の記憶が聖に担わせた使命を果たし終えていないのに、先に自分が目的を果たすのは違う。まずそう考えた。だから聖は、本当は飛びつきたいと思っている春菜の申し出を、一旦見送ることにしたのだ。
「そう。分かった」
春菜は頷いて、優しい微笑みを見せる。
波打ち際から聖に歩み寄り、聖の体に手を回す。
「無理しないでね」
聖の背中を撫でながら、春菜が言う。
自分も春菜を抱き締めようとして、今はまだ、やめておいた。
★
スペインの首都、マドリードで行われる大会に出場予定の春菜を見送る為、二人は一度ホテルへ戻った。今からタクシーで空港へ向かい最終便に乗れば、間に合うのだという。まさか大会の前日まで自分のところにいてくれたとは思わず、その事を聞いた聖は恐縮しっ放しだった。好きでやったことだから気にしなくていいと、春菜は言ってくれたが、彼女の帯同チームのメンバーからは何度も着信がきていて、だいぶ文句を言われたらしい。
「困ったことがあったら、いつでも頼っていいからね」
別れ際にそう言った春菜の表情は完全に弟に甘い姉のようで、正直なんともいえない気分になる聖。少しは成長したところを見てもらって評価されたかったのだが、そもそも知らぬ間に看病されていたうえ、医者やホテルの延泊代を持ってもらい、あまつさえゴールのショートカットまで提案されているのだ。それを断って体裁を保てたつもりではいるが、どうにも情けないところばかり見られた気がする。
部屋に戻り、シャワーを浴びて明日以降の予定を組み直し、ベッドに寝転がる。部屋のクリーニングを頼んだわけでもないのに、残っていた春菜の香りはもう感じられなくなっていた。しばらくの間、聖がぼーっと部屋の天井を眺めていると、珍しくリピカが話しかけてきた。
<撹拌者、よろしいですか>
「え? リピカ?」
ここ数日すっかり大人しいアドも意外だったが、それ以上にリピカから話しかけられることが珍しく、素直に驚いてしまう聖。星の光みたいな髪色をした小柄な少女が、音もなくすっと現れた。
「珍しいね。っていうか、アドはどうしたの? ここんとこ大人しいけど」
<そのことについて、ご報告があります>
そして聖はそこで初めて、聞かされた。
あの喧しい友人とも言い難い存在が、既に去っていたことを。
続く




