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喝采なき終幕

 不吉の訪れを告げる災禍の警鐘(アラート)が、執務室に鳴り響く。


「一体どういうこと」

 アーヴィングは激しい怒りを露わにし、PCモニターを確認する。そこに映し出されているのは、今まさに試合を行っているロックフォート兄妹の生体数値(バイタル・データ)だ。その数値は明らかな異常値を叩きだし、秒単位で目まぐるしく変動している。状況を理解するよりも先に、彼女はアーキアの緊急停止信号を送った。しかし、状態は応答不能(ビジー)を示し、命令を受付けない。


「なぜっ!? 自動安全装置(フェイル・セーフ)のエラーなどありえない!」

 思わずこぶしをデスクに叩きつける。

 すると、別のモニタが日本からの着信を報せた。


「ミス沙粧、悪いけど今は」

「アーキアの稼働を続行しなさい、メグ。動作不良のデータが必要よ」

 汚い罵声が喉元までのぼってきたが、アーヴィングは辛うじてそれを飲み込む。ありったけの冷静さを総動員し、唇を震わせながら落ち着いて反論を試みる。


「あの兄妹を使い捨てろとでも仰りたいの? アレは生育段階からアメリカ(我々)が手に塩をかけて調整した素体なのは知ってるでしょう? このままアーキアを起動し続ければ、使い物にならなくなる。せっかくの貴重な素体を、動作不良のデータ取得などのために消費しろなんて。到底、受け入れ難いわね」

「いいえ、やるの。というか、貴女に拒否権は無い。ひと足お先にマスターコードは変更させてもらったから。自動安全装置(フェイル・セーフ)は機能しないでしょう? 安心なさい、メグ。双子はウチが管理する天然モノを使えば良い。そっちの量産品は、それに相応しい使い方をするまで。それにしても、妙に失敗(ミス)が続くのね?」


 その一言で、アーヴィングの堪忍袋の緒が切れる。


「沙粧ぉ、貴様ッ!」

「頭を冷やしなさい。リアル・ブルーム(貴女がた)はアーキアを完成させるのに都合の良い環境が欲しい、アリアミス(私たち)はなるべく質の良い素材と、研究人員が欲しい。だからお互い協力し、共同歩調を歩むということで双方合意したでしょう? 貴女は敬愛する曾祖父アーヴィング博士の悲願、その成就の為にどれほどのものを積み上げてきたか忘れたの? これは必要な犠牲よ、メグ。貴女なら理解できるはず」


 音も無く通話が終わる。モニタに表示された数値は、あらゆるパラメータが見たことの無い乱れ方をしている。その様子はまるで、今のアーヴィングの胸中を表しているかのようだった。


           ★


(まずいッ!)

 蓮司がバランスを崩した一瞬の隙を突き、アレクシアが強打を叩き込んできた。威力、狙い、タイミング、そのすべてが獰猛かつ精確無比。同世代の女子とは思えぬその苛烈な攻撃は、試合開始からずっと衰える気配がない。それどころか、ゲームが進むに連れて威力を増しているようにも思えた。


「OUT」

 機械音によるコールが響く。

 失点を覚悟した蓮司だったが、運よく判定(ジャッジ)に救われた。


(あっぶねぇ~……。機械判定サマサマだな)

 会場の上部へ設置された巨大スクリーンに、着弾の瞬間を映した判定動画が流れる。アレクシアの打ったボールはほんの数ミリ、ラインを割っていた。肉眼によるラインジャッジであれば、有効(イン)判定されていてもおかしくなかっただろう。


「蓮司、ナイスラリー」

「あぁ、危なかったけどな」

 駆け寄ってきたミヤビが蓮司に声をかける。


「相手、ちょっとミス増えてきたね」

「ようやくって感じだな。相変わらず平然としたツラしてるけど」

 二人は口元を隠しながら、ロックフォート兄妹の顔を窺う。時おり薄っすらした冷笑を浮かべるぐらいで、基本的に二人とも表情を変えない。ポイントをとろうがミスをしようが、その整い過ぎている顔は凍った水面のように揺らがない。


「変化が無いのも変化だよ。完全に感情を隠すなんてできっこない」

 蓮司が相手の表情に注目するのに対し、ミヤビは身体全体を見る。試合開始当初から現在に至るまで、彼女は二人の雰囲気に気を配っていた。時に数時間にも及ぶことのあるテニスの試合において、相手の精神状態を探るのは非常に重要だ。人間が集中力を持続可能な時間は、およそ90分。程度の差はあれど、試合の最初から最後まで集中し続けることは困難を極める。必ずプレースメントには波ができ、それは試合中の表情や態度に表れるものだ。一流のトップ選手ですら例外ではない。ましてや相手は、ミヤビたちとほぼ同世代のジュニアだ。


「底が見えないのはちょっと不気味だし、こっちのスコアに余裕が無いのも事実だけど、相手もそう余裕綽々ってワケでもなさそうだよ。始めた頃と比べたら、なんとなくいけそうな気がする。切り札を使うならここ(・・・・・・・・・・)だと思う」

 ミヤビが真っ直ぐ蓮司を見る。薄々そういう頃合いだと感じていた蓮司は、逡巡するもすぐに頷いて応じる。


「ま、出し惜しんでもしゃーないしな」

「背水の陣、みたいなの好きでしょ?」

 そういって二人は、お互いの手を重ねる。


「遅れんなよ」

「あくまで冷静に、ね」


 覚悟を決めた二人は互いに好戦的な笑みを浮かべ、ポジションへついた。


           ★


 自分たちの身体に、何が起こっているのか。ロックフォート兄妹は知る術を持たない。だがそれでも、普段とは異なる何かが起きている、そのことだけは明確に実感していた。研ぎ澄まされた感覚のなかに、明らかな歪音(ノイズ)が入り込んでいるのを強く感じる。


 目にしている相手の顔の皮膚が、突如として透けて見える

 聞こえている音の中に、本来は聞こえないはずの音が飛び込む

 身体を覆っている大気が、密度を増して粘性を持ってまとわりつく


 五感の全てが過剰なまでに鋭くなり、かと思えば突然もとに戻り今度は鈍くなる。再生速度に受信速度(ストリーミング)が追いつかず、不規則な途絶を繰り返す動画のような感覚が、全神経に渡って広がっている。次第に、身体の細胞その一つ一つが捩じ切れてゆくイメージに包まれる。潰れてひしゃげた細胞が、無機質な異物(ナノマシン)で無理やり繋ぎ直されていく。そう感じるのは、自身に宿した科学の叡知に対する、ネガティブな印象のせいかもしれない。


(勝たなきゃ)

 不快な感覚が身体のなかで横溢してなお、二人は同じことを考える。


(勝たなきゃ、勝たなきゃ)

 耐え難い違和感から逃れるように、やるべきことを言語化し無心に繰り返す。


(勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ)

 浅くなる呼吸、早鐘を打つ鼓動。

 血流は巡っているのに、力が抜けていく。


(勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ、勝たなきゃ)


 単純な言葉だけを、ひたすら頭のなかで繰り返していく。幸か不幸か、まだ、その言葉には意志が宿っていた。その言葉が辛うじて、二人の意識が離れていくのを繋ぎとめている。それが二人にとって、救いなのかどうか。誰が、何を基準に決めるのか。それはまさに、神のみぞ知るものだった。


           ★


「Game. The 2nd set Japan.1set all. Next Final set」


 主審のコールと共に、会場が沸く。やや判官贔屓のきらいはあれども、劣勢の日本が持ち直したことで、観客の興奮は最高潮に達しようとしていた。セットカウントが並び、実質的に戦況は五分へと持ち直し、いよいよ最終セットを迎える。


「おっし! よく獲ったぁ〜! こっから!」

「いけるよ! このまま集中!」

 日本のベンチからも、熱の入った声援が飛ぶ。セット後半では特に、桐澤姉妹とデカリョウ、マサキの4人がポイント毎に檄を飛ばしていた。敗色濃厚な場面から、獅子奮迅の立ち回りを見せる蓮司とミヤビの姿が、敗北を喫して心折られていた4人の士気を立ち直らせた。


「しっかし、思い切ったよな」

「最初は自棄んなったのかと思ったぜ」

 蓮司とミヤビがとった作戦は、シンプルなものだった。試合のテンポを上げること。特にラリー戦においては、守備を担当するはずの蓮司がフルパワーでストローク戦を展開してみせた。通常、ミックスダブルスは男女ペアであるがゆえに、速いテンポのラリーは敢えてしないことが総じて多い。男女の運動能力に大きな差が出てしまい、リスクに対しメリットが小さすぎる為だ。運動量のある男性が守備を担当して形を作り、できたチャンスを狙って女性が攻撃を実行する、というのがミックスのセオリーといえる。二人はこれを、可能な限り速いテンポで実行した。


「蓮司のやつ、ストロークに磨きかかってんな」

「カウンターとランニングショット上手くなりすぎ」

「ミヤビさんも、あのハイテンポによくついていけるよ」

 メンバーが口々に二人のプレーを賞賛する。聖の目から見ても、ハイテンポな蓮司のストロークは驚異的に思えたし、そこに遅れずついて行くミヤビの勘の良さには舌を巻いた。ただそれ以上に、聖は対戦相手のロックフォート兄妹のプレースメントが気にかかった。


(イタリア戦でも、途中からこうなってた)

 聖は試合前日の夜、公開されている試合のアーカイブ動画をおさらいしていた。一番の目的は対戦予定の弖虎・モノストーンだったが、自分が今大会で最初に戦ったピストーラとウナーゾが、どういう試合をしたのかが気になったのだ。展開は今と似ている。序盤はロックフォート兄妹がイタリアの二人を圧倒。試合が決まりそうな所まで進むが、イタリアの二人がどうにか盛り返し、決着がつく前にロックフォート兄妹が棄権した。


<味方が勝ってンのが気に入らねェのかァ?>

(そういうことじゃないよ。あの兄妹、また体調不良なんじゃないか?)

<どーだかな。なンにせよ、素直に応援してやりゃあ良いだろ>

 その通りだと思う聖だが、どうしても気になってしまう。蓮司とミヤビにはもちろん勝って欲しいと思っている。ただなにか、言うなれば不公平感のようなものが聖の胸によぎる。試合開始当初は不気味さすら感じていた兄妹に、今はなぜだか、憐憫の念すら覚えてしまう。


<放っとけ。連中がテメェで選んだ道だ。それしか方法が無かったンだとしても、それ以外に取り得る選択肢が無かったンだとしても、だ。個人がそれぞれ抱える状況まで平等(フェア)にはできねンだよ。いうなりゃ、この世の中は全てが不平等なンだからな>

(? どういう意味?)

<ケッ、しるか>

 それきり、アドは喋らなくなった。自分からリンクを切ったのかもしれない。


(連中が選んだ? 不平等?)

 意味不明な発言だったが、なんだか的を射ているような、そんな言葉に感じられる。


「おい聖、ボケっとしてねぇで応援すんだよ」

 マサキが考えに耽っていた聖の腕を掴み、最前席へ座るよう促す。試合は、遂にファイナルセット。ここを獲れば、まだチームとして起死回生のチャンスが生まれる。


「蓮司、ミヤビさん! まず1つずつ!」

 メンバーが声を張り上げる。聖もそれに倣って二人にエールを送る。

 そしてふと視界に入る、対戦相手の二人。一見すると、そこに表情は無い。


 その無感情な相貌(ポーカー・フェイス)が、やけに痛々しかった。


           ★


「フ~ム、やはりリアル・ブルームの遺伝子操作技術(ジェノ・テクノロジー)は優秀ですなぁ。さすがは、かのアーヴィング博士が理論構築しただけのことはある。ジェノ・アーキアを稼働させながらあれだけ運動を継続できるのは、最初からそう設計されていなければ不可能でしょう。なかにはナチュラルに適合率の高い例外もいますが、多岐に渡る遺伝性能の平均値はやはり仕組まれた(デザイナーズ)子供たち(・ベイビー)の方がバランスが良い。大変素晴らしい素体だ。これが量産体制に入っているのだからやはりアメリカの資本は侮れない」


 沙粧の執務室で自前のラップトップを3台開きながら、新星教授が独り言をつぶやいている。どうやら、その顔に身につけたゴーグルの中では、他の画面をも繋げているらしく、果たしてどれほどの情報を同時に処理しているのか見当もつかない。


「しかしまぁ、時間の問題でしょう。このままジェノ・アーキアを稼働させ続ければ、急成長を始めている潜在性学習素子(P・L・E)を強制的に停止させるため、遺伝子そのものを死滅させるでしょうからな。初めての事例ですから、実に興味深い。意識のある状態で遺伝子を内側から食い破られる(・・・・・・・・・・)とどうなるのか? 適合率の高い素体は貴重ゆえ、これまで出来なかっただけに良い機会です」


 教授の様子を、沙粧は自席で興味無さげに眺めている。モニタにはアメリカの現地映像と、ロックフォート兄妹の身体にあるジェノ・アーキアの稼働状況が映し出されていた。


「教授、そういえばさっき、P・L・Eの急激な活性化についての仮説があると言っていた気がするけど、続きをお聞かせ願える?」

「おほほーぅ! まだ活性化しますか! おもしろぉい! 人体の不思議! これはこの兄妹の特性なのかそれとも遺伝子設計によるものなのか見極める必要があります! 沙粧クン、この兄妹の遺伝子情報を入手してウチでも量産すべきです! 未完成ですが成長促進剤を使って肉体年齢を進めれば条件を整えるのは容易い! 無論、成長促進剤が遺伝子に与える影響も無視できないがサンプル数さえ確保できれば帰納的に法則性を導き出すことは恐らく可能でしょうそうなると飼育環境が」

「ごゆっくり」


 沙粧は小さく溜め息をついて、試合の様子を観察することにした。


           ★


 一球一球、一打一打。蓮司はその全てに、自分の持ち得るありったけの力を込めて打ち続けた。さしものロックフォート兄妹も、逆転を図る相手に警戒心を抱いたのか、序盤のような予測不能な攻撃はしてこなくなった。試合の大尾が近づくと、大抵の選手は慎重になるのが勝負の常といえる。状況が拮抗しているならば、なおのこと。


「オッラァ!」

 一切の出し惜しみをせず、自ら果敢に攻撃を続ける蓮司。チャンスメイクのためか、少しでもペースを落そうと、アルフレッドがボールの回転数を上げて時間を作る。蓮司はそれをバウンド直後の跳ね際(ライジング)で捉え、手を緩めない。必然的にお互いの前衛が割って入る時間も無くなり、さながらシングルスのような打ち合いが続く。しかしミヤビは、男子二人の攻防の最中にほんの僅かなタイミングを見つけると、飛び込み様に奇襲攻撃(ポーチ)を仕掛けポイントを搔っ攫っていく。


「Game,Japan.5-3」

「しゃあッ!」

「よぉし!」


 主審のコールと会場の歓声に引けを取らない迫力で、日本の二人が叫ぶ。


(行けるッ! このまま押し切る!)

(大丈夫、もう少し!)

 蓮司とミヤビは着実に勝利へ歩を進めていると確信し、さらに気を引き締める。終わりが見え始めても、二人の心に油断は無い。大きなリスクを背負った戦術を行使している緊張感が、深い集中を持続させた。しかし、どんな些細な変化も見逃すまいとするそのテンションが、却って余計な事実に気付かせた。


(は? なんだあいつら)

(二人とも、泣いてる?)

 対峙するその双子の兄妹は、いつの間にかその目に涙を浮かべている。表情こそ崩れていないが、兄のアルフレッドも妹のアレクシアも、宝石のような目を充血させ、涙が滲んでいるのが見てとれた。その奇妙な表情は、敗北以上の何か(・・・・・・・)を恐れているのだと告げている。


「蓮司っ!」

 鋭い声色と厳しい表情を浮かべたミヤビが振り返る。名を呼ばれた蓮司がハッとし、奥歯を噛み締めて覚悟を決める。相手が浮かべる表情の意味を、二人は経験から察することができた。試合に負けて失うものがある、それも、取り返しのつかない可能性のあるなにか。それを背負っている人間の表情だ。


(知るかってんだ。この試合で負けらんねぇのはオレ等も同じだ!)

 どうしようもなく湧いてくる余計な感情を、蓮司は怒りで塗り潰す。だが、相反する感情の揺らぎは、集中していたはずの蓮司に迷いを生み、僅かなズレがプレーに現れ始める。


「Game,U.S.A. 5-4」

 獲ればそのまま勝利できた第8ゲームを、もつれた末に日本ペアは落としてしまった。とはいえまだ、カウント的には優勢。迎える第9ゲームは、蓮司のサーヴィング・フォーザマッチ。これまで通りキープすることができれば、勝利をその手中に収めることができる。


「蓮司、大丈夫?」

「当然だろ。これ獲って勝つ」

 そう言い切る蓮司に、ミヤビはそれ以上声をかけられない。彼は今、必死で自分のなかにある矛盾した感情と戦っている。普段は自己中心的で、他人への気遣いなどしてやるものかといった態度をとる蓮司だが、本当の彼は独善的とは程遠い。実績を出す為に甘い感情を押し殺す習慣が、近寄りがたい雰囲気を作り、その一方で脆い一面を抱えてしまっていた。単純な言葉だけでそういう性格の癖を正すことは難しいし、試合の最中にやるべきことではないとミヤビは知っている。


 蓮司の放ったサーブを、アルフレッドがネットにかける。

 まずはポイント先行、ミヤビは内心で胸を撫で下ろした。


「アアァァァァッ!」

 すると突然、アルフレッドが奇声を上げた。ラケットを地面に落とし、頭を抱えて掻きむしるように髪を掴む。明らかに癇癪を起したような態度だが、不気味なほど表情は変わらない。爪が頭皮を裂いたのか、白い肌にひと筋の赤い線が伸びる。


 続く第2ポイント、今度はアレクシアがリターンをミス。彼女は特に癇癪を起こさなかったが、両手でスコートの端を力いっぱい握り込み、主審が警告を取るまで動こうとしなかった。


(ポイント2つ先行……なのに、この空気は何?)

 さすがのミヤビも、相手二人の様子を見て異常を察する。そのせいで集中が途切れたのか、気にならなかった身体の疲労が一気に襲ってくるのを自覚した。呼吸が浅くなり、筋肉に溜まった乳酸が体に休息を提案してくる。


 3つ目のポイントを、アルフレッドがフルスイングで打ち大きくアウト。これでマッチポイントを迎えた蓮司とミヤビ。しかし、勝敗が決する直前の高揚感を伴う緊張感は微塵も無い。コートを、いや会場を包むのは、言い知れぬ不愉快な悲壮感だ。


 嫌な空気をその身に感じながらも、蓮司はどうにかサーブを打つ。1stとは思えぬ、入れにいくだけのサーブ。場面が場面なら、相手にチャンスボールを献上するようなものだったかもしれない。しかし、アレクシアはこれを当て損ない、それ以上のチャンスボールが日本ペアのコートへ返ってくる。ゆらゆらと、力を失い、今まさに墜落しようとする傷付いた鳥のように、ボールが力無く弧を描いて落ちてくる。


(落ち着け、一度落として、きっちりセンターに)

 足を動かし、気を整えて準備する蓮司。相手の様子を必死に頭から追い出し、ボールだけを見る。しかし今の蓮司には、どうしても上手くボールを打ち返すイメージを持つことができない。筋肉が硬直し、関節が無くなったような錯覚を覚え、身体の動かし方さえ分からなくなる。


(ざけんな! 動けよ!)

 心の中で叫ぶが、意に反して身体は上手く動いてくれない。

 意識を総動員して、破れかぶれにラケットを振ろうとした瞬間――


「どいて!」

 軽快な足運びで横から割り込んできたミヤビが、鋭い動きでボールを捉えた。乾いた打球音が鳴り響き、見事なフラット・ショットが相手コートに突き刺さる。ロックフォート兄妹はそのボールに反応さえできず立ち尽くし、やがて二人は、眠るように崩れ落ちた。


 勝敗が決したにも関わらず、暫くの間、会場には沈黙が下りたままだった。


                                   続く

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