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沼地の猫

 街に鐘の音が十回、響き渡った。


 ピエールは処刑場の民衆に紛れ、ヤキモキしていた。

 つい先ほど、ジョンと彼の支持者たちが荷馬車に乗せられ市庁舎を出発してしたという知らせが巡ってきた。見せしめのため、市内をゆっくり回って処刑台に向かっている。しかしそれでも一時間もかからない。


 どうしただろうか、シャルルは。


 ピエールは友人の無事を祈る。

 目的は処刑の中止ではない。その延期である。議会を説得し、使いを遣るという話だった。

 しかし、その肝心の知らせは一向に届かない。

 代わりに聞こえてきたのは、ジョンが顎を負傷しているという話だった。

 あのよく回る小賢しい舌はジョンの武器だ。彼の方法なら正しい世界を実現できるのじゃないか、そう信奉者に思わせる力がその言葉にはある。早急に逮捕まで行ったのは、その武器が使えなかったせいなのかもしれない。





 

 憎い独裁者。


 国民の命運を自分のものだと勘違いした男。


 ジョンとその仲間に対して、ざまあみろ、という気持ちがある。

 ピエールの幼馴染が、多くの同輩たちが、辿ったのと同じ道を彼らも辿ろうとしている。彼らがしたことを思えば当然だ。


 多少王子に対して便宜を図ったからといってなんだろう?


 その程度の善行で、悪行が許されるわけがない。どんな大義があろうとも、ピエールはそれを許すことは到底できない。


 たとえ彼が自由と平等をこの国に持ち込んだのだとしても。

 たとえこの処刑場にいる半数が彼の死を嘆こうとも!


 ピエールははっきり、ジョンを憎んでいる。

 あの陰気なツラが苦痛と恐怖に歪む様を見てやりたい。

 自らの手で殺せるのなら、そうしてもいい。

 死刑に反対しない残りの半数は、こういう自分のような人間だという確信がある。

 それなのにピエールは、まるでジョンを助けるように行動している。別に死刑になったって構わない相手を。ただの勢いと衝動だ。

 自分のうちに眠るわずかな正義感。それが衝動となって表出したのだろうか。

 そうは思わない。

 ちがう。本当にただ、成り行きに乗っかっただけなのだ。





 ピエールはシャルルがもう生きるのを諦めているのではないかと思っていた。王家はなくなり、それどころか亡命を図った両親さえ処刑され、あの塔の中で朽ちていくのが運命だと悟っているのだと。

 それが、その口から、今が絶好のチャンスだと言わんばかりの、言葉が出て来た時、驚いた。

 心底無謀で、意味のないことのような気がした。

 それでも少し、心が躍った。

 今まで散々見てきた繰り返されるシェーマ。断首される側に今度は自分が回るのだとしても。

 今までずっと。

 気が遠くなるような永遠の間。

 生活も命も、すべてが革命軍の手に委ねられ、手のひらからすり抜け、命を守ることさえ叶わなかった。無実の友人も、親戚も、召使も、何人も失った。何ひとつ守れなかった。

 ピエールがしていた事は、処刑される彼らにせめてもの魂の安寧が訪れることを祈るだけだった。

 もはやただの習慣になってしまったそれが、何になったというのだろう?

 それが何かを変えることはなかったのだ。


 でも、もしかしたら。

 ようやく、自分にもなにかできることがある。

 そして、それはもしかしたら意味のあることかもしれない。

 そうしたものがこの世には存在するのをピエールは知りたい。

 シャルルは運命の理不尽に抗おうとしている。それが憎い敵の命を救うことになろうとも。

 それでもいい。

 それが見たい。

 ピエールはだから、この成り行きに身を任せることにしたのだ。そのためなら、死んでも構わなかった。





 数時間前。

 王子の監禁場所である塔の中、ペンを紙に走らせる微かな音。シャルルが机で書き物をしているのだ。

 退屈なのかハンスは窓に張り付き、王子を解放せよ、と暴れる民衆を観察していた。見られたらどうする、そう咎めるピエールにハンスはただ鼻を鳴らして返す。

 外から怒声が微かに届く。

 結局、ピエールも同じようにして外を覗いた。

 とうとう衛兵に市民が一人殴りかかったのだ。

 ハンスが歓声を上げる。


「あれがあんたのシンパ? すごい、なんて理性のある行動だろう!」

「君には劣るがね」


 机に向かうシャルルが冷ややかな声を出す。


「やめてほしいな。私に失礼でしょうが」

「僕の父は天使を夢見るようなお茶目なところがあった。彼らが全てを浄化するとね。君も天使に会ったら自身の罪を洗いざらい告白して、浄化してもらうといい。少しはその傲慢さも身をひそめるだろう」


 皮肉を言うと、軽く手を叩く。


「さあ、書き終わった。さっさと頼んだことをしたまえ。協力すると言ったのは君だろう」


 それからよろよろと立ち上がって、窓に向かっているハンスを自身の方に振り向かせると、封に入れた手紙を手渡した。

 ハンスはそれを受け取ると、もう片方の手を鉄格子越しに外に向かって突き出した。

 なにかを確認して、頷く。


「うん、だいじょうぶかな」


 ピエールはそれを見て、ようやく気がついた。


「この塔の窓、全部鉄格子がついているけど、俺たちどうやってここに入ったんだ? 出られるのか?」


 ハンスはイタズラっぽく笑った。


「不思議でしょう? ここにこんな立派な机があるのと同じくらいにね」


 チラリとシャルルを見る。

 シャルルは肩をすくめた。


「さあね。気にすることないさ、ピエール。この魔法使いはどこからともなく現れては、どこへともなく消えていく。まさか今回ばかりは僕たちをここに取り残すほど薄情じゃないだろうさ」

「まあ、いいけど」


 ハンスは鷲掴んだ手紙ごと窓枠の間から外に出すと、なにやら唱えた。


「『風よ、言の葉をどうか届けて』」 


 すると、手の上に乗せられた手紙がふるふる小刻みに震えたかと思うと、ふわりと鳥の羽ばたきのような動作をした。


「さあ、王子様。宛先の人物を頭の中で強く想像して。軍の先頭にいるであろう人物。もっとも権力を持っているであろう、そう、その男の人━━」

「……叔父だ」


 シャルルが瞳を閉じる。

 一瞬のち、手紙は羽ばたきを激しくし、ハンスの手のひらから飛び立った。


「間に合うのか?」


 思わずピエールが尋ねる。

 シャルルがほのかに笑みを浮かべた。


「間に合わなければ、別の結末が訪れるだけさ」


 それから、シャルルはピエールに告げたのだ。


「ピエール、君は連合軍が国に攻めてきていることを市政に広めろ。この街は噂が出回るのが早い。そうだろう? 議会にも、処刑場にいる人間たちにも、すぐに伝わるはずだ。真偽に関わらず、人々は風聞に惑わされるだろう。そのために議会は対処を迫られ、動きが鈍る。どうか、時間を稼いでくれ」




 ピエールは多くを知らない。

 思いつくのは、せいぜい馴染みの娼婦たちの元へ向かう事くらいだった。

 『沼地』と呼ばれる、どこもかしこも古くて入り組んだ地区。地区は中心地の真横であり、なによりすぐ隣でこの都で一番大きな市が開かれる。もう数時間もすれば、娼婦たちが眠気まなこを擦りながら、帰路に着くだろう。


 狭い階段、声が漏れる壁。ここはそんなもので溢れている。この地区に集まってくるのは、庶民や職人だけではない。浮浪者や落ちぶれた兵士も混じっている。

 空気はそうした者たちの汗と酒とタバコの匂いが入り混じり、澱んでいる。


 ピエールは反射的にえづきそうになる。

 ここにくるといつもそうだ。


 道を進んだ先に、洗濯屋の看板を掲げた娼館がある。客はみんな、裏口から入る。本当に隠れているわけではない。そう言う趣向なのだ。

 扉の向こうにあるのは、手狭で、薄ぼんやりとした室内。

 ピエールは無言で中に入る。

 訪れた客人に、濃く縁取った目を瞬かせながら、色褪せたドレスを着た老婆が出迎えた。

 強い香料が鼻を刺す。

 反射的に口元に手を持っていきそうになるのを抑えて、ピエールは軽く頷いた。


「ああ、お客さま。こんな時間に尋ねてくるなんて。もっと早くきてくれたらよかったのに。娘たちが待ちくたびれてるわ」


 開くその口は、前歯が欠けている。

 慣れたもので彼は薄く笑う。


「可憐な花よ、こんにちは。今日はマダムに会いにきたんだ」

「あの年増にかい? めずらしい客だね」


 鳥のように甲高い声を出して、老婆が喚く。

 この娼館でマダムと呼ばれる女は一人しかない。


「そう、ジュリア」


 ピエールが知っている娼婦の一人だ。

 たまに一緒に遊ぶ。

 老婆の顔に不満が浮かぶが、すぐに頷いた。


「そうかい。あの子なら空いているよ。ほら、金は前払いだ。とっとと払っておくれ」


 言われた通りに金を払い、奥の部屋に通される。

 ジュリアは微睡んでいたのか、眠そうな顔でピエールを出迎えた。


「あら? どなたかしら、お客さま。あなたのような方を知り合えるなんて、あたし、どんないい事をしたのかしら?」


 柔い腕をピエールの首に巻きつけた。


「光栄だ、ありがとう」


 ピエールが腕を腰を抱きしめ返し、笑みを浮かる。


「俺だよ。ピエールだ」

「え?」


 ジュリアは目を丸く見開くと、まじまじとピエールの顔を見つめ、それから大きな笑い声を上げた。


「あら、イヤだわ! ピエールじゃない。どうして分からなかったのかしら!! てっきり知らない人に見えたの」

「今日はそういう日なんだ。こういうミステリアスなのも好きだろう?」

「あはは、あいかわらずね、あたしの王子様」


 バシバシと胸を叩いたかと思うと一転、うっとりと目を細めた。


「さあ、合言葉を言ってちょうだい」


 吐息が顔にかかる。

 妖艶を装う様に、ピエールは苦笑した。


「さあ、知らないな」

「じゃあ、あたしは、あんたがピエールを装ったスパイじゃないって、どうやって知ればいいの。まさか、あたしを嵌める気?」


 そういう戯れだ。ジュリアのことは大して知らなくても、そうした事くらいは分かる。

 現にジュリアはピエールに回した手を離さない。

 肩をすくめてみせる。


「俺の知らないことは、知ってる方のピエールにでも聞いてくれ」


 案の定、唇は笑い、ジュリアは軽い笑い声を上げた。


「ふふふ。じゃああたしも正しい合言葉をもう一人のジュリアに聞いておくわ」

「そうしてくれ」


 するりと猫のようにしなやかな動作でジュリアが離れると、値踏みするようにピエールを見つめた。


「それで? そんなふうに身を隠して、ここに何をしに来たの、ピエール」


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