雪景色
ピエールが橋の根元に戻ると、ハンスは足を投げ出して地面に座り、なにやら木製の小ぶりな筒を覗き込んでいた。地面には不思議な文字や紋様が静かに輝いている。白いチョークはもはや必要な役目を終えたらしく、無造作に地面に置かれていた。
ハンスはピエールが戻ってきたことに気づくと、軽く顎をしゃくって迎える。
「ほんとに来た」
「来るか分からないのに、準備したんだな」
「まあね」
「それはなんだ。魔法に使うのか」
「カレイドスコープだよ。覗き込んで遊ぶ」
「……ああ、そう」
ピエールは文字や数字を崩さないように慎重に近づき、ハンスの前に立つ。
「あげないよ」
それだけ言うと、ハンスはそそくさと玩具を胸元にしまった。どこか子供じみたその仕草の呑気さにピエールは呆れ、
「魔法をかけてくれ」
ハンスは目を細め、ほんの一瞬だけ考え込むような表情を見せた後、口角を少しだけ上げて言った。
「その顔で女を釣ってたのに、残念だね」
ピエールはその軽口を受け流しながら、口の端を釣り上げて応じた。
「女性どころか、処刑人まで魅了することになる顔だ。この顔を隠すのに、本当にそれだけの材料で足りるのか?」
ハンスは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「術の上に立てよ」
ピエールは言われた通りに移動して、完成している術式を見下す。
自分が作り変えられる事に異論はない。
気後れもしない。そのはずだ。
それでも、自分が作り替えられるという事にどのような気持ちを抱けばいいのかよく分からなくなり、ぽつりと呟く。
「俺は俺ではなくなるのか」
「あんたは十秒前のあんたと同じ人間なのか?」
意味がわからず、ピエールはハンスを見る。
ハンスは肩をすくめて、惚けたことを言った。
「子供の時と今のあんたは? 答えは明快だ。同じ人間だ。が、全くちがうところがないわけでもない。魔法もそうさ。理を捻じ曲げない限り、魔法の変化とはそうしたものだ」
意味が分からない。
「変化とは、痛みを伴うものだろう」
ハンスはその言葉に反応を示さず、ただ淡々とした口調で言った。
「さあ、魔法をかけよう。顔だけじゃなく、気配や存在感までもがぼやける。誰もあんたを特定できなくなる。まあ、あんまり目立つような事をしたり、リストの上から順に虱潰しに生存確認していけばそこから特定できるけど、ないよりはマシだろ? さあ、準備はいい?」
ピエールは静かに頷き、ハンスの言葉をかみしめるように目を閉じた。
そして再び目を開けると、真っ直ぐハンスを見つめる。
「ああ、頼む」
「いいだろう」
ハンスは頷くと、
「あんたは新しいあんたになる」
片手を地面に置く。地面に描かれた紋様が一瞬輝き、ピエールの体を柔らかく包み込むような光が広がった。
いつの間にか握りしめていた自分の手を見つめる。
痛くも痒くもない。
なにかが変わった感じもしない。
「これで終わりか?」
「そうだよ」
「なにも変わらない」
「だからそういうものなんだって。ところで、王子の所まで行くんでしょ?」
どこか腑に落ちない思いはありつつ、頷く。
「ああ」
「そこに到達するまでの道筋はどうだっていいわけだ」
「まあ、そうなる」
ハンスは楽しそうに頷いた。
「よし、じゃあ連れて行ってやろう。お釣りだと思ってくれればいい」
「なんのことだ、お前」
ハンスはピエールに構わず楽しそうにくるくる回ると、なにやら呪文を唱え出した。
「『風よ! その翼で人々の夢を守り、叶えたまえ』」
「おい、説明をしろ!」
思わず廃屋での出来事を思い出して、その身を構える。
しかし、異変は足元から来た。
なにか、むずむずする。
「え?」
「せええ━━━のっ!」
愉快そうな掛け声。
「は?」
次の瞬間、ピエールの体は砲丸のように宙に舞っていた。
*
目が回る。
上も下も分からない。
胃の中のものが全部出そうだ。いや出た。遠目に見えるあれが向かった方が下だろう。なら自分は上昇しているのか。遠のく意識に瞼が落ちかける中、そんな事を思う。
早く終われ。
早く終われ。
早く、おわれ。
瞼を強くつぶる。
視界が暗くなったことで、余計に気持ち悪さは増し、若干遠のいていた意識が少し戻る。
最悪だ。
もういっそ気を失いたい。
もういよいよダメかと思われた時、シャツの首根っこを上方向に掴まれた。
「だいじょうぶ?」
シャツが首に擦れるのが不快だ。
自分が床の上に立っていることに気がついた。
膝をついて、胃のなかに残っていたものを全て吐き出す。
「こんなに耐性がないとは」
上から降ってくる呑気な声に、息も絶え絶えに批判した。
「なにをするんだ。……気持ちが悪い」
「移動だよ。手っ取り早いだろ? もう着いた」
「……はあ?」
ようやく息を整え、顔を上げる。
ハンスと椅子に腰掛ける死にかけの幼馴染の顔が見えた。
どこだここは、と言いかけて、王子が幽閉されている塔であることに気が付く。
暖炉に火でも入っているのか、暖かい。
「なにしに来たんだい、ピエール」
なぜか冷ややかにシャルルが言う。
「そこの悪党と組むのは悪手だぞ。余計なことしかしない」
その声のなんと冷え冷えとしたことか。
ピエールは眉を寄せる。
「……魔法使い、お前の魔法効いてないじゃないか」
「効いてるさ。そこの皮肉屋が敏感なだけだ」
反対に、ハンスは機嫌が良さそうだ。
「やあ、また会ったね」
楽しそうにシャルルにお辞儀をした。
挨拶を受けた方は苦々しげに顔を歪める。
「化け物め」
「会えてうれしいよ」
「僕も感激で涙が出そうだ、しかしあいにくこれからティータイムでね。帰ってくれないか?」
ふらふらとピエールは立ち上がると、
「わざわざ助けに来たのに、それはないだろ」
口を挟んだ。
「僕は助けなど頼んでいないが?」
シャルルが不機嫌に鼻を鳴らす。
「なんだ、お前。なにかあったのか?」
普段の皮肉屋であれど理性的な態度とはちがう珍しい様子に、思わず尋ねると、それが余計癪に触ったようでシャルルが眉を顰めた。
「いいや、なにも? しかしいくら僕の人生が空虚なものだと言ったって、なんとなく腹が立つ事だってあるさ。……ああ、そうだった。どうやらあの代議士は逮捕されたらしい。明朝、処刑されるそうだ」
寝耳に水の情報に、ピエールはシャルルによたよたと詰め寄る。
「はあ、ジョンが? またか。誰に代わるんだ」
一気に血の気が引いた気がする。
しかし、幼馴染は本当に興味がなさそうに、どうでもよさそうに答える。
「僕が知るものか。どうせ新しいのもしばらくすればいなくなる。覚えてなんになる」
「そんな……、新しい人間に代わったら、また俺らは面会できなくなるかもしれない。それどころか、医者だって……、いや……」
息を吐いて自分を落ち着かせる。
きっとこれは好機だ。
天がピエールにチャンスを齎したのだ。
ピエールはシャルルの肩を両手で掴んだ。
「亡命しよう」
しかし、その手はやんわり払い除けられた。
「いいや。僕はこの国を出るわけにはいかない」
「また混乱が訪れる。お前なら大陸のあらゆるところに親戚がいるじゃないか。王妃の忘れ形見だと大切にされるにちがいない」
「だからだよ」
シャルルはじっとピエールの目を見つめた。
「僕はこの国を見捨てるわけにはいかない」
「それは、そうだろう……お前は、王子だ」
言葉を探す。
「先に体を治して、機を待とう。それからでも遅くない」
「また無辜の民が死ぬことを、僕は望まない」
まるで思いもしなかった言葉。
「うそだろっ!」
思わずピエールは叫んだ。
「民が無辜だって? そんなわけあるかよ。煽動した奴らはそりゃあいたけど、破壊したのはあいつらだ! 直接貴族に手を下したのはジョンたちでも、民がそれを望まなければ達成されないことだった。お前が見ている民って誰のことだよ」
「……父上が」
「だから王を殺したのだってお前の言う民だろ!」
悲鳴のような言葉に、ついに我慢の限界になったのかシャルルが椅子から勢いよく立ち上がった。
その勢いで衰えた体が少しふらつく。
「うるさいな! ティエリーは貴族でもブルジョアでもない!」
「はあ? 誰だよ、それ!」
言い返したピエールに、シャルルは目を閉じ不機嫌そうに眉間を揉む。
それからゆるゆると椅子に腰を下ろすと、ポツリとつぶやいた。
「……医師見習いだ」
「その医師見習いがお前に民を救ってくれって言ったのか?」
「ちがう。ティエリーはただ僕の治療をしていただけだ」
意味が分からない。
「でもずっと言っていた。明日はきっといい日になる、と。この国に穏やかな日が訪れると。僕は、彼が見ることの叶わなかった夢を放棄するわけにいかない」
「……ここに来るまでに命を賭けた。俺との友情を優先してくれ」
「ごめん、それはできない……ティエリーは僕のせいで殺された。あんな死に方に値する人間はいない」
「罪悪感のためにここに残ると? そいつが死んだのはお前のせいじゃないだろ」
シャルルは苦しそうにつぶやいた。
「ちがうよ、ピエール。僕は、……感謝しているんだ、彼に」
「お前、……死ぬぞ」
「そうだとも、君も死人に用はないだろう。さっさとここから立ち去るといい」
「ふざけんな」
気がついたら、胸元を掴み上げていた。
シャルルが驚愕で目を見開く。
「なんのためにここに来たと思ってやがる」
「な、なんのつもりだ……」
当惑したように瞬く。
ピエールがこんな風にシャルルに詰め寄ったことはない。いつだって今にも壊れてしまいそうな器を引き止めるのに必死で、指先が触れるのさえ怖かった。
でも今それは関係ない。
どうせ死ぬのなら、今死んだって同じではないか。
「俺がここに来たのはな、お前を死なせないためだ。勝手に死なせてたまるか!」
体の中からマグマのように感情が湧き上がってくる。悲鳴が口からこぼれ出そうだ。
ところが、にまにまと楽しそうに傍観していたハンスが横から気軽に口を挟んだ。
「喧嘩はやめなよ」
反射的に言い返す。
「「うるさい」」
シャルルとピエールの声が重なる。
ハンスはおやまあ、と肩を竦めた。
「ぐだぐだ喋っている間に時間切れになる。ほら、階段を昇ってくる足音が聞こえる」
その言葉にびくりと凍りつく。
それを見て、ハンスは腹に手を当ててケタケタと笑った。
「ウソだよ」
「は?」
少し気が抜け、襟首を掴んでいた手を離す。
「とにかく、お前を死なせない」
その言葉に、シャルルは心の奥底まで見透かそうとするようにピエールを見あげた。
「お前も死ぬぞ」
「このまま死んだように生きることはできない」
「他に生きる方法を探せ。君の家族を巻き込む」
「リスクは承知の上だ」
「彼らは知っているのか?」
「必要ない。俺もお前も親も死なない。生き延びるから」
シャルルは訝しんだ。
「なにを根拠に?」
「お前、昔から俺より頭がよかったじゃないか。必死でその頭働かせて、俺たちを生かしてくれよ。頭はお前だ」
呆れたように首を振る。
「無策か。バカだな、君。あまりに、愚かだ」
「そうだよ。でも俺にだって分かることはある。ティエリーって奴は、お前の心を支えていた、そうだろ? でも、今、彼の存在がお前を殺そうとするなら、俺はそいつの代わりになる。そいつがお前の守護神だったのなら、俺がそいつの代わりにお前を死なせない」
「ティエリーは僕を殺さないし、神でもない。そして、その代わりはいない」
「しかし、……」
シャルルがふう、と大きく息を吐き出す。
「君だってそうだよ。……君、本当にそんな事だけのためにここに来たのか? つまり、僕を死なせないためだけに?」
大きく首肯する。
「そうだ」
シャルルは困ったように笑った。
「そうか」
それを眺めていたハンスは気まぐれな猫のように伸びをすると、一歩シャルルに詰め寄った。
「助けて報われないより、関与を知られないより、助けを求められず関わるのを拒絶される方が辛い。なにかしたいって言うんだから、好きに使ったらいいじゃないか。……それより、なにか考えてるだろ。なにを考えている」
「うるさい、黙れ」
けんもほろろなシャルルの態度にまるで気にした様子がない。それどころか余計にニヤニヤ笑っている。タチが悪い。
「随分な態度じゃん、友達まで連れてきてやったって言うのに」
「その命を危険に晒すことに感謝しろと? 随分めでたい頭をしているんだな、君は」
「いやこの魔法使いは役に立つ」
割り込んだピエールに途端に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「どうかな?」
「俺だってそうだ。俺たちを使え」
「なんで私まで!」
すかさず抗議の声をあげたハンスに言い返す。
「目的は一緒だと言っていたじゃないか。なら、力を合わせた方が効率的だろう」
「うぐう」
ムッと黙り込んだシャルルはため息を一つつくと、聞かれたから答えるがね、と前置きして、
「……処刑場に向かうところだったんだ」
「なぜ?」
「別の勢力が僕を担ぎ上げようとしている。新しい王党派とでも言おうか。僕は即位する事になるだろう。しかしそれはジョンの処刑後だ。それでは遅い。僕はそれより先にそこに向かいたい」
ハンスが小首を傾げる。
「自分で復讐をするためか? だって、親を殺したのだものな。あれ? 別の人間だっけ? まあ、いいや」
シャルルがまるで庶民のように雑に舌打ちをした。
「頼むから、口を閉じるということを知ってくれ。人の傷口をわざと抉る悪趣味をやめろ。処刑を止めるんだ」
ハンスが目を丸くする。
どこか、わざとらしい。
「なぜ?」
「この国のためだ。国は人を殺しすぎた。人手が足りない。あの男は愚かな独裁者だけど、信奉者が多いんだ。いないよりは居た方がいい。手綱を握る限りは、あれについている人間も従う。彼らを粛清することは平和になった後、後の人間が考えるだろう。守ることができるなら、統治者は誰でも構わない。とにかく今は国として成立していることを示したい」
「示す?」
誰に、と聞いたピエールに、シャルルは答えた。
「革命政府の敵は、王党派だけじゃないだろうピエール。周辺の国のほとんどが敵だ。連合軍がこの国に向かって進行を始めた。手をこまねいていては手遅れになる」
「なぜお前がそれを知っている?」
「言っただろう、僕を担ぎ上げようとしている人間がいる。しかし、彼らのスピードでは間に合わない。だから、僕は動く」
ハンスは顎を撫でて、なるほどねえ、と言った。
「ふーん。むずかしいことはよく分かんないけど、どうやってここを抜け出すつもりだったの」
「ジョンの配下が僕を連れ出す手筈だった。しかし代わりに来たのは君たちだ。困ったことにね」
「この塔に忍び込もうとしていた人間なら、捕まったのを見たよ。注意が一層逸れて都合がよかったな。うん?」
「…………」
何かに気がついたハンスとは裏腹に、シャルルが苦い顔をした。どうしたんだろう。不思議がるピエールが見守る中、ハンスがニタニタと笑う。
「頼れる人間がここにしかいないね。ねえ、言うことがあるんじゃない?」
シャルルがハンスとピエールを交互に見る。
ピエールは訳もわからず尋ねた。
「なにをだ?」
その質問に、ハンスはおかしそうに吹き出した。
「人はね、お願いしたい時に言う言葉があるだろう。言葉にしなければ形を持たない。形を持たせろ。面白いからそれが報酬でいいよ」
「無礼だな。王子だぞ」
「ここにいるのはただの囚人じゃないか。ほらほら、言いなよ」
「調子に乗るな、魔法使い」
嗜めるピエールに、シャルルが待ったとかける。
「いや、きっと、言う通りだ」
その言葉にピエールは口を噤んだ。
静かな空間で、ただ待つ。
鉄格子の隙間から差し込む淡い月光に照らされて、椅子に座るシャルルの上に埃が舞っているのが見える。それはどこか幻想的な雪景色を思わせた。それを見て、ピエールは幼い頃に自分がこの王子と雪ではしゃいで、王宮の広い庭で雪合戦をしたことを思い出した。あれは寒い日だった。
あそこにいた人たちは━━━━━━━━━━、
やがて、シャルルは伏せていた顔を上げ、どこか諦めたような不服そうな顔でハンスとピエールを見つめると、言いにくげに言葉を紡いだ。
「……頼む。僕を助けてくれ。僕は、僕の意志でもって、ここから出たい」
遠い記憶の中から、笑い声が聞こえる。
雪の中で大はしゃぎした子供たちの声が。
ピエールは背筋を伸ばし、反対にハンスは体を丸め宙にくるくる浮かぶと楽しそうに返事をした。
「「了解!」」
シャルルは上を向き、ハンスを睨みつけると、文句を言った。
「大体君、災害を起こして民を惑わんじゃない」
「私じゃないって知ってるくせに」
「ふん」
天井に頭をぶつけたハンスが囁く。
「口が開いている。どうせなら乗ってやるのさ」




