カビ臭い地下室
生臭く湿った空気の中、ハンスはげんなりした。
「いいか、正直に言え。外出時間をすぎて外に出ていた上、嘘を言うようなことがあればここから生きて出られると思うなよ」
この明らかに不衛生な小部屋に連れてこられるまでに、なんど恐怖と怨嗟の声を聞き、なんど背中を乱暴に押されたことか。その上、椅子にぐるぐるに縛り付けられて、偉そうな顔をした兵士たちに恫喝されればだれだってそうなる。
手荒だ。
肘掛に括られた腕に紐が食い込んで、鬱血している。
じっと耐える。
「スパイだろう」
兵士が怒鳴っている。
その顔の区別がハンスにはつかない。隣のそれと同じに見える。そんなのがこの空間にはワラワラいる。
それにしても、そんなに大きな声を出して、疲れないのだろうか。それとも、却って元気になるのだろうか。
ハンスには分からない。
しかし飽きもせずに同じことを続けているところを見ると、彼らにとってそれは充分に楽しいことなのだろうと、ハンスには思われた。
兵士達は入れ替わり立ち替わりハンスを糾弾する。
王子のいる塔に忍び込むというスパイまがいな行動、その点について責められているのではない。ただ、塔の前で騒いだ件について『スパイだ』と責め立てられているのである。薄汚い格好した人間が一人騒いだくらいでえらい騒ぎだ。そんな人間、通りに出れば五万といるのを、ハンスはすでにその目でみている。
ハンスはきちんと『へんな人に襲われた』と申告したのにも関わらず、そんな人間いなかったぞ、と聞く耳なしだ。逃げたはずの人間がその辺にいた方が問題である。
「スパイだったらわざわざ騒ぎなんか起こさないって」
相手を苛立たせるのは百も承知で提言してみる。案の定、ハンスの口調につられて、兵士たちはぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた。
「だれに雇われた?」
「だれにも」
「寝返れ」
「だれから」
「国を滅ぼそうとするやつらからだ。市民を守る為に従え。金ならくれてやる」
お互い見下し合うことの、なんと不毛なことか。
ヒステリックなその様に、ハンスはため息をついて繰り返す。
「魔法使いはだれにも所有されない。私に雇い主はいらない」
「じゃあなぜ、ここにやってきた」
「街のどまんなかで、どうしたもこうしたもない、物見遊山だよ」
「それで?」
「観光名所だっていう有名な公園で日向ぼっこして、アイスクリームを食べたのさ」
「うそだろう」
意味のない会話に、ハンスはこぼした。
「人間というのは、なんでも管理しないと気が済まないものだな。あなたたちは時代を変えたのに、大抵の人は、結局、他のだれかの所有物のままだ。思想でさえも」
ぱあん。派手な音がする。
ハンスは頬を思い切り張られた。一体一日に何度殴られたらいいのだろうか。忌々しい。
質素なズボンの上にぽつぽつと鼻血が垂れる。
「王党派に雇われたんだろう。名前を吐け」
恫喝する兵士の瞳には愉悦が滲んでいた。
「……だれに雇われたって?」
「コンテ家か、それとも国外に逃げた貴族たちか」
「誰だよ、それ。私はあなたたちに反抗する気はないんだ。どうせなら、話し合いをしよう」
「反抗的なやつめ」
会話が成立していない。
兵士の中で、このちいさな事件の終着点がすでに決めてあるのだろう。ハンスの言葉に耳を貸す必要なんてないのだ。この部屋の様子を見るに、きっとこれはなんども繰り返されたシェマなのにちがいない。あちこちに彼らの狂乱の残骸が残されている。ハンスには部屋に残された亡霊達の悲鳴が今にも聞こえてきそうだった。
彼らは革張りのちいさく奇妙なカバンを取り出し、やけにもったいぶった調子で蓋を持ち上げると、中身をハンスに見せつける。入っていたのは、金属の光沢でつやつやとした小さなニッパーだ。よく手入れがされている。
彼らが、にやにやと笑っている。
「ふん、どこまでもつか、見ものだな。そのうち自分から膝をついて、すべて白状しますって言うだろうよ」
「縛られているから無理だよ」
「だまれ」
道具を取り上げると、奇妙なほどにゆったりとした動作で、片側をハンスの右手小指の爪と肉の間に差し入れ、爪を挟み込む。それから、
「どうする?」
とまるで最終確認のように問いかけられた。
なにについての確認だろう。
じっと、器具に挟まれた自分の爪を見つめる。
「痛いのはいやだ。死にたくもない。でも、白状することも、なにもない」
ハンスの返事に、兵士はふんと鼻を鳴らした。
「話にならん」
道具が思い切り、手の甲の側に持ち上げられた。
爪が肉に対して九十度に持ち上がっている。
ハンスは、見てるんじゃなかったと後悔した。
痛みが遅れてやってくる。
肺か喉か。
よく分からない所から、うめき声がもれた。
「よかったな。まだ十九個もあるぞ」
嘲りに周囲がどっと湧いた。
ハンスは痛いのがきらいだ。こんな所、さっさと抜け出したい。
気が遠くなりかけながら、ハンスはケッと口の端を釣り上げる。
「あんたら、暴力で人の思考が変えられるって、本気で思っているわけ?」
「ためしてみるか?」
「すでに知ってるくせに。あんたらのしていることは、ただの憂さ晴らしだ。やーい、この暴力やろうの人殺し!」
「なんだと」
「人殺し、と言ったんだ」
ハンスは一同を見渡す。
兵士達はますます気色ばんだ。
その感情を吸収して、ハンスはますます言葉を紡がせる。
「あんたら、元々民を守るために立ち上がったんだろ。そのために王様もお妃様も殺した。市民を次々摘発しているのか? なんのために? あんたらのお眼鏡に叶う市民っていうのはいなくなったのか? それとも、市民ってのは特権を享受するあんたらだけを指すのか?」
言葉というのは最も廉価な呪いだ。
とくに、ここにいる彼らのような感情に乗せられて騒いでいるような人間には。ハンスはきっと運がいい。
「ああ、わかった。楽しくなっちゃったんだ。自分たちが正義になって、悪い奴を倒すのは爽快だよな。圧倒的な力を持つのはたのしい。私もだいすきだ」
彼らのような人間は、罪を引き受けず、けして悪者になる事がない。
たとえ国賊として処刑されることになったとして、彼らは自らを『悲運な英雄』として認識するにちがいない。自分を省みる気がなく、悪と自分の間に明確な線引きをしているのだ。
そういう圧倒的に正義の側にいる人間に、『悪』である魔法使いからの揺さぶりは通用しない。
「……始めようじゃないか」
「罪を認めさせてやる」
いきり立った兵士達がじりじりと近づいてきた。
ハンスは一人一人をじろりと見つめる。
それでも狙うなら、悪者の言葉にすら動揺する弱いやつだ。
目があうと逸らす奴。言葉に少しでも動揺した奴。
痛みに呑まれる前に、すこしでも呪いをかけてやる。
唇の端を釣り上げた。
✴︎
扉の開く音。
飛んでいた意識は、現実に引き戻された。
「おやおや。とんだ小汚い小鼠一匹」
「悪かったね、小鼠で」
重くなった顔をあげる。
ぼやけた視界が徐々にクリアになり、現れたのは、メガネをかけた倦んだ目をした男だった。
全体的に痩せぎすで、腹だけは歳のせいか少し出ている。
不健康そうに窪んだ彼の頬は、発声に合わせて上下した。
「てっきり娼婦かと思いましたよ」
「……あはは」
自らの血で噎せて咳き込むハンスに、男は薄く笑うと手近にあった椅子を身元に引き寄せ、腰を下ろした。
「自分を豚だと思い込んでしまった私の部下を元に戻していただけます?」
「どうして」
「屠殺場はイヤだと叫んで叫んでしょうがない。かわいそうに、肉が食べられなくなったらどうするのです」
「草でも食えば? ここから離してくれよ」
男がその骨ばった指先で、するりと顎をなでる。
「魔法使いを名乗るなら、どうして魔法で逃げないのです」
「ここは空気が澱んでいるんだ。あんたら、とかく表面的な世界を生きてるんだな。たくさん殺すわりに、動くものがない。だから使えない」
「そういうものなのですね」
「そうだよ。だって死の世界に魔法はいらないだろう。あんたら、それを忘れちゃったのか? 歪んでいるんだ。終わってんな」
そこでようやくハンスは自分が話している相手に意識を向けた。
「あんた、他とちがうな。だれ?」
「しがない弁護士です」
ハンスは哄笑する。
「この国に弁護士なんていないだろう! 守るべき法がないのに!」
「あなた、どこから来たんです? 国の人間ではありませんね」
「それを知ってどうする? 職の斡旋でもしてあげようか。正しく法が運用されている国のね」
男はただ淡々と言葉を返す。
「この国は法治国家となったのです。革命は終わり、国民によって定められた法によって運用される、立場の差のない、真に平等な国になりました」
「広場で貴族たちが連日余興のように殺されるのは公正な裁判を経た結果か? その日の飢えをしのぐために、パン一つ盗んだ男が懲役二十年。これは正当な罰なのか? 他国からも見放されたこの国が、国としてなりたっていると?」
「法は法です」
「ふうん、じゃあなんの罪もない人間を捕まえて憂さ晴らしに殴るのも、法なのか?」
「あなたは市民ではありません」
「私が初めてじゃないだろう」
「私たちは正しいことをしたい、という目的意識を持っています。そしてその人間らしい善性を持ち続ける限り、彼らの人間性が本当の意味で地に落ちることはない。たとえ両手がどれだけ汚れようとも」
「それはどうかな」
ハンスは笑う。
「結局のところ、善悪論なんてナンセンスだ。環境に流されない人間なんているのか? 力を振るう人間がそんな瑣末なことをいつまでも気にしていると?」
「それもまた、仕方のないことです」
男はどこか疲れの滲んだ口調で続ける。
「たしかに、どんなに高潔なイデオロギーを掲げようとも、人の興味関心は移ろうもの、心はいつだって変化し続けるものです。高邁な理想から、市民が目を逸らした者がいたところで、こっちを向け、と強制できる道理はありません。理想では腹は膨れず、人には人の尺度がある。
しかし、だからこそ、法律があるのです。たとえ心の中が闇に染まろうとも、彼らの行動が法律の定めるものを超越しない限り、その行いは照らされる。今は黎明期です、過激なものもあるでしょう。いずれはこの混乱も収まり、平穏が社会に訪れます。
自分たちの子供をいかにして養うか、年老いた親といかに向き合うか、あるいは、今日をいかに楽しく過ごすか。そうした市民にとって各々の優先事項を優先できる日が来ます。これこそが自由な社会です」
ハンスは問いかける。
「そのために血を流すのは許されると?」
「それらの行いが正義たり得ることはない。しかし、犠牲のない改革などありません。仕方のない犠牲、必要な悪、そうしたものはいつだってあります」
「次の犠牲者になるのはあんたかもしれないじゃないか。前の煽動者だって処刑台に一直線だったんだ、それともあんたはそうならないって?」
「そうならないようせいぜい精進するしかありません。あなたのような外側の人には全てが愚かしく見えるのかもしれないですが」
「他の人間があんたのように覚悟ができているとは限らない。大体、なんてったってあんた、魔法使い相手にさっきから御託を並べているんだ?」
ケタケタとハンスは笑う。
「結局、『法律』という聞こえのいい呪縛で、奪い、囲っているだけじゃないか。柵に囚われた羊たちはなんとなく自由を許されたような気分になりながら、その不自由さに気が付くこともなく、調理される間際まであんたに感謝しながら死んでいくにちがいない」
男はそっと諭すように語りかけた。
「自由と無法は異なるものです。人間社会は弱肉強食だけではないし、多くの人間が共存しようとするならルールを設けなければいけません。法律は檻でも、罰でもなく、共に生きることを可能にするツールですよ」
それから、そのクマの浮かぶ目を細めた。
「あなたは幼く、凡庸ですね。纏ってる記号が特異なだけだ」
ケッ、とハンスは鼻を鳴らす。
「そりゃどうも。あんたはとても変なやつだな」
「しかし、その纏う記号のせいで、私はあなたを安易に解放することができない。目的は王子の解放ですか?」
「ちがうって言ったら信じるのか?」
男がその薄い唇をわずかに釣り上げた。
「ええ」
ハンスは疑わしそうに男を見上げる。
「そう。じゃあちがうよ。波に乗せられてふわふわここまで漂ってきただけ。ここに来たのは偶然」
「そうですか。ならば、私に雇われてみる気はありませんか?」
ハンスは首を傾げた。
「どうです?」
「あんたの側で力を振るうのは、意外と楽しいかもしれない」
男はふ、と息を漏らす。
「しかし?」
「どこにでも行けるのに、屍の匂いに身を浸すんじゃ、私の魂がかわいそうだ」
男が肩をすくめた。
「拒否したところで、囚われの身である事に変わりませんよ」
ハンスは笑った。
「どうかな。そろそろお暇しようと思っていたんだ」
男が眉をぴくりと動かす。
かさ。
男の足元からのかすかな物音。どこから入り込んだのか、小さなくすんだ色の落ち葉が床を擦った。
男がそれに目線を向けた瞬間。
閉じた室内に突風が吹き荒れる。
砂混じりの風に咄嗟に袖で顔を覆った男に、ハンスは笑いかけた。
「じゃあね、無法の国の弁護士さん。楽しみだな。これからどうなるか」
そうしてその言葉と一緒に姿を消したのだった。
力任せに扉を開く音が響く。
「議長どの!」
慌てて駆け込んできた兵士たちが叫んだ。
床に落ちた紐を拾い上げた男が、淡々と返事をする。
「ありがとう。だいじょうぶですよ」
「ここにいた囚人は?」
「見ての通り、消えていなくなりました」
「一体どこに」
困惑して室内を見回す部下をよそに、男は笑った。
「やれやれ手も足も出なかった。やっぱり従軍したことのない男は咄嗟の時にだめですね」
淡々とした男の様子に、心配そうに兵士が言う。
「あまり危険なことはなさらないでください。正体のよく分からない相手なんですから」
「だいじょうぶです、どうせ大したことにはならんでしょう。むしろ楽しみです」
「は?」
「湖面に投げ入れられたコインがどう波紋を広げるか」
男は不健康な面に笑みを浮かべた。




